ハノイの日本人

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ジャニーズの教科書。第3章「SMAP、そして父になる」④

SMAP編の第4回。今回から具体的にシングル曲の歌詞に触れて行きます。SMAPのストーリーは実によく考えられたもので、シングル曲は明確なメッセージの込められたものがほとんどです。まずはそれぞれの短評から。



◉ジャニーズの教科書。第3章「SMAPそして父になる」①〜③
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20150511/1431325930
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20150518/1431934444
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20150525/1432556787



SMAPシングルリスト
◎1stシングル『Can't Stop!! –LOVING-』(1991年9月)
⇒『きらきら星』を挿入し、『STAR LIGHT』でデビューした光GENJIからトップの座を受け継ぐグループであることを示す。君を幸せにする僕はここにいると歌う王子様ソング。だが、売上枚数は低迷。ジャニーズ・ブランドは弱体化していた。15.0万枚。


◎2ndシングル『正義の味方はあてにならない』(1991年12月)
⇒正義の味方(HERO)の不在を歌った曲。社会風刺を歌う。12.9万枚。


◎3rdシングル『心の鏡』(1992年3月)
⇒大御所作曲家・筒美京平を起用したガラスソング。事務所設立30周年を機に、ジャニーズ事務所が扱うタレントを美少年アイドルから大人のスターに方針転換。ガラスが割れた後も輝き続けると宣言。12.8万枚。


◎4thシングル『負けるなBaby!〜Never give up〜』(1992年7月)
⇒対話ソング。人気低迷もSMAPは絶対に降参しないと宣言した曲。9.5万枚。


◎企画シングル:音松くん『スマイル戦士 音レンジャー』(1992年10月)
⇒変身。キャラソンもやってみる。7.8万枚。


◎5thシングル『笑顔のゲンキ』(1992年11月)
⇒元気な君が好き今は遠くで見てるよ。SMAPは君との関係を距離で表現して行く。アニメ主題歌。12.0万枚。


◎6thシングル『雪が降ってきた』(1992年12月)
⇒手をつないで歩いた君はもう隣にいない。渋谷系路線スタート。デビュー曲を超える19.1万枚。


◎7thシングル『ずっと忘れない』(1993年3月)
⇒卒業ソング。遠く離れても君を忘れない。21.7万枚。


◎8thシングル『はじめての夏』(1993年6月)
⇒予告ソング。空は晴れて夏がやってくる。君の涙を指でぬぐえるそんな距離にいつもいたい。16.8万枚。


◎9thシングル『君は君だよ』(1993年9月)
⇒そのままの君が好き。90年代ジャニーズを牽引する「素顔」という言葉の原形。作詞は小倉めぐみ。2人は言葉がなくても通じ合える関係。経験済み? 15.4万枚。


◎10thシングル『$10』(1993年11月)
SMAP通過儀礼ソング。「どうして愛にお金が必要なの?」と歌う。いつまでもバブルの時代ではない。SMAP人気急上昇。31.7万枚。


◎11thシングル『君色思い』(1994年1月)
⇒前作で歌った抱き合うだけの関係ではなく、もっと深く愛しあおうと歌う。大人のSMAPを見せる。25.9万枚。


◎12thシングル『Hey Heyおおきに毎度あり』(1994年3月)
⇒主演映画の主題歌で初の1位。「音楽」も「お笑い」もできるアイドル誕生。40.1万枚。


◎13thシングル『オリジナル スマイル』(1994年6月)
⇒素顔ソング。素顔は笑顔という光GENJI『COCORO』を引き継ぐ曲。40.7万枚。


◎14thシングル『がんばりましょう』(1994年9月)
渋谷系路線の決定打。72.0万枚の大ヒット!


上のリストはSMAPのデビュー曲『Can't Stop!! –LOVING-』から大ブレイクした『がんばりましょう』までのシングル曲です。一時は10万枚を割り込むまで低迷していますが、そこから徐々に売上枚数を更新して来たことがわかります。


1991年1月1日。SMAPはデビュー前でありながら、武道館コンサートを成功させます。そして、デビュー直前にはなぜか舞台『聖闘士星矢』にメンバー6人が出演しています。人気マンガ『聖闘士星矢』が連載されていた『週刊少年ジャンプ』が1991年に公称600万部を突破して話題になっていたからでしょうか?



これについては、当時も不思議に思った記憶があります。そう言えば、光GENJIの歌詞に『週刊ジャンプ』の王道バトルマンガの影響を感じました。ジャニーズと同じく少年の成長をテーマにする『週刊ジャンプ』にジャニー社長がシンパシーを感じていたのかも知れません。と言うか、ジャンプが積極的に展開していたメディアミックスに便乗したと言えるのかも。事務所もSMAP の売り出しに必死だったのです。SMAPはデビュー後の1992年にも舞台『ドラゴンクエスト』に出演しています。


デビューシングル発売日の前日、9月8日には所沢市西武ゆうえんちにおいて、ファン1万5000人を集めてのミニコンサートと握手会を行いました。大型台風が近づいていたため、みんなびしょ濡れだったそうです。そして、札幌、福岡、名古屋、神戸でもイベントは開催されました。


1991年9月9日、SMAPは結成から3年半を経てついにデビューを果たします。しかし、デビュー曲『Can’t Stop!!-LOVING-』のセールスは伸びず、期待はずれの結果となりました。イベントに集まったファンは多かったのですが、当時はまだ1人1枚しかCDを買わない時代だったのです。


1992年の夏のツアー『SMAP'92 SUMMER CONCERT "負けるなBaby!"』では、名古屋レインボーホールが半分も埋まらないのを見て唖然とする経験もします。バラエティ番組『夢がMORIMORI』にも出演し、そこそこ知名度も上がったと感じていたメンバーに冷や水をかける出来事でした。そこをターニングポイントにして、SMAPの逆襲が始まったと言われています。メンバーは危機意識を持って仕事に取り組むようになりました。



ジャニーズ事務所を攻撃し続ける出版社・鹿砦社が刊行した『ジャニーズの歴史 光も影も45年』(2007年)には以下のような記述がありました。SMAPはデビュー後に方向転換し、ドラマやバラエティで活躍することで人気を高めて行ったという解説があった後の文章です。


 この経緯だけを聞くと、事務所の辛抱強いマネジメントが奏功したようだが、もともとリストラ候補であった彼らを面倒見たのは、メリー喜多川ではなく飯島三智だった。(P89)


飯島三智というのは、現在に至るまでSMAPを支えてきた女性マネジャーのことです。この本ではなぜかSMAPがリストラ候補であったと語られています。いや、他のジャニーズ分析本にもSMAPはリストラ候補だったと書かれているのです。その記述がいつから書かれだしたのかはわかりません。ジャニーズ事務所の実質の社長であったメリー喜多川SMAPを嫌っていたからだと説明されています。


ですが、それは外からそう見えたという話であるか、もしくはメンバーがそう語ったからだと考えます。たしかに、リストラ候補だったSMAPが努力の末に国民的スターになるというストーリーは魅力的なものです。しかし、ジャニーズのなかでは、明確にトップグループとしてSMAPは位置づけられていました。証拠もあります。


例えば、SMAPがブレイクする目処が立つまで、次のグループをデビューさせていないことです。TOKIOがデビューしたのは、SMAPがデビューしてから丸3年が経過した後のことでした。次のグループがデビューするまでの期間が3年以上あけられたのは、初代ジャニーズがデビューしたあと、フォーリーブスがデビューするまでの3年9ヶ月以来のことでした。当時は、いくつものグループを抱える体力が事務所になかったのです。


このことはジャニーズ事務所SMAPの売り出しに集中していたことを証明するものです。SMAPが事務所から冷遇されていたというのは、事実ではありませんでした。立派なトップにするべく厳しく指導していた・・・・ そのぐらいの表現が妥当ではないでしょう? ならば、どうしてSMAPは事務所から冷遇され、敏腕マネージャーの頑張りによってブレイクしたとメディアでは語られてきたのでしょうか? 


飯島三智が敏腕マネージャーであることに、私も異論はありません。例えば、すでに休刊している月刊誌『広告批評』のSMAP特集(2002年10月号)には興味深い話が掲載されています。アルバム『BIRDMAN』(1999年)から総合プロモーションを担当した多田琢と、アルバム『S map〜SMAP014』(2000年)以降のジャケットデザインを手掛けている佐藤可士和の対談です。


売れっ子のCMクリエイターだった多田は、木村拓哉が出演するJRAのCMを撮ったときに、飯島に依頼を受けました。その年のコンセプト、コンサートからアルバムのタイトルから、全部考えてほしいと言われたそうです。SMAPのビジュアル面をすべて任せたいという依頼でした。その仕事は多田にとって、電通から独立して初めての仕事になったそうです。


SMAPはこれ以降、どのようなコンサートをやるか、そのためにどのようなアルバムを作るか、1年通してのコンセプトづくりをしています。ちょうど、前年に『夜空ノムコウ』という大人のイメージの代表作が出来て、SMAPが次の段階に進もうとしていた頃でしょう。


そして、次の年、佐藤も博報堂から独立し、その最初の仕事として「多田くんと組んでいろいろ仕事をお願いしたいんだけど」という飯島からの依頼を受けます。違う広告代理店で競うように働いていた2人が最初にコンビを組んだ仕事でした。


この話でわかることは、飯島が能力のある人材を見つけ出し、その人たちに仕事を任せていることです。ジャニー社長以外でそのようなプロデュース能力を発揮した人物は、それまでのジャニーズにはいなかったのではないでしょうか? それがSMAPを国民的スターにした要因の一つであることは間違いなさそうです。そして、それはSMAPが事務所に冷遇されたから起こったわけではありません。SMAPが事務所に冷遇されたという世間へのアピールには、別の意図があったと思うのです。第1章で大塚英志によってまとめられた「英雄物語にある共通の構造」を掲載しました。もう一度見てください。


 1.英雄は、高位の両親、一般には王の血筋に連なる息子である。
 2.彼の誕生には困難が伴う。
 3.予言によって、父親が子供の誕生を恐れる。
 4.子供は、箱、かごなどに入れられて川に捨てられる。
 5.子供は、動物とか身分のいやしい人々に救われる。彼は、牝の動物かいやしい女によって養われる。
 6.大人になって、子供は貴い血筋の両親を見出す。この再会の方法は、物語によってかなり異なる。
 7.子供は、生みの親に復讐する。
 8.子供は認知され、最高の栄誉を受ける。
         大塚英志著『物語の体操』(2000年、朝日新聞社


4番と5番に注目してください。川に捨てられ、いやしい女によって養われるとあります。「いやしい」は別にして、SMAPリストラ候補の真相はこのあたりにあるのではないでしょうか? 後から物語の構造を援用して話を膨らませたとも考えられるのです。であるならば、気になるのは7番でしょう。生みの親に復讐するときが来るのでしょうか? このことは覚えておいて下さい。(つづく)