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ジャニーズの教科書。第4章「少年から大人へ」④

今回はジャニーズにとって最初の冬の時代について書きます。郷ひろみが抜けた後の70年代後半です。その時代のヒット曲はたっとの1曲だけでした。


◉ジャニーズの教科書。第4章「少年から大人へ」
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20150706/1436192971
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20150713/1436791513
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20150720/1437382599



郷ひろみショック以後
現在では、ジャニーズ事務所からデビューするグループは1年に1組が普通です。2011年は2組デビューしただけで驚かれたくらいです。しかし、1975年には5組がデビューしています。JJS(2月)、豊川誕(3月)、リトルギャング(7月)、井上純一(8月)、殿ゆたか(9月)です。そして、次の年も森谷泰章(1月)、クエッション(2月)、未都由(11月)がデビューしています。



このデビュー乱発の理由はなにか? もちろん、稼ぎ頭に成長していた郷ひろみが、バーニングプロダクションへ移籍したことです。新たなスターがどうしても必要な状況だったのです。この8組の中から郷ひろみのような飛び抜けた存在は現れたでしょうか? 既に何度も登場している書籍『ジャニーズ・ファミリー』において、郷ひろみ以降のタレントの中で一番ページを割かれていたのは、豊川誕でした。唯一ヒット曲を持っていたからでしょう。


入所して4ヶ月という異例の速さでデビューした豊川は、2枚目のシングル『星めぐり』が11.7万枚のヒットとなっています。彼は豊川稲荷に捨てられていたところをメリーさんに拾われたというストーリーをもらいデビューしています。不幸路線で売り出されたのです。しかし、その後はヒットに恵まれず、不幸路線を本人が嫌がったこともあり1978年には事務所を辞めています。


◎豊川誕『星めぐり』(2ndシングル、1975.2、CBS
   作詞:安井かずみ、作曲:平尾昌晃、編曲:森岡賢一郎
⇒かわいそうな星めぐり。70年代後半、唯一の10万枚超え。



◉1977年、第5代トップ 川崎麻世デビュー!
郷ひろみに代わるタレントは、彼と同じようにジャニー社長自らスカウトしてくるしかなかったようです。この時期にスカウトされたタレントは何人もいました。川崎麻世もそうです。


川崎がジャニー社長にスカウトされたのは、大阪のテレビ局で行われたモノマネ番組の予選会場でした。彼は長身で足が長く、西城秀樹のジャニーズ版とも言えるルックスでした。そのモノマネ番組でも西城の振りマネをしていたそうです。この番組『パクパクコンテスト』(読売テレビ)からは松原秀樹、草川裕馬、がすでに芸能界デビューしていました。松原はジャニーズ所属のタレントです。草川は加納竜、山本明と共に「新新御三家」として売り出されたこともあったそうです。草川、加納はドラマなどでそこそこ活躍していますが、その御三家が人気を呼んだという話は聞きません。しかし、同じく70年代後半の「ロック御三家」といい、ジャニーズ抜きの「御三家」が組まれたことはこの時代を象徴していると言えそうです。


川崎麻世年表
1975年夏 ジャニーさんにスカウトされる
1976年10月 中学生のときに上京
1977年7月 シングル『ラブ・ショック』でデビュー
1978年8月 フォーリーブス、解散
1978年10月 シングル『天使の顔につばを吐け』発売。
1978年10月 ドラマ『ナッキーはつむじ風』(TBS)に出演
1979年7月 シングル『レッツゴーダンシング』発売
1983年*月 劇団四季『キャッツ』などに主演
1987年11月 ミュージカル『スターライト・エクスプレス』に出演
1989年*月 ジャニーズ事務所退社
1990年8月 カイヤと結婚



川崎麻世シングル・リスト
1. ラブ・ショック(1977年7月)2.9万枚
2. 青いシンボル(1977年10月)1.9万枚
3. 暗くなるまで待って(1978年4月)4.8万枚
4. 危険がいっぱい(1978年7月)0.7万枚
5. 天使の顔につばを吐け(1978年10月)4.5万枚
6. 自由の女神をぶちこわせ(1979年2月)1.3万枚
7. 21(トゥエンティーワン)(1979年5月)0.2万枚
8. レッツゴーダンシング(1979年7月)2.3万枚
9. FLY BY NIGHT(1979年11月)0.4万枚


1977年7月、7が3つ並んだ月に川崎麻世は14歳でデビューしています。しかし、その年齢の割に歌詞内容は性的です。これは山口百恵の男性版を狙ったからでしょう。ジャニーズの初の不良路線でした。レコード会社は郷ひろみ山口百恵と同じくCBSソニーです。作家陣を見ると、かなり力を入れていたことが分かります。前のトップ JJS には少年から大人への物語は存在しませんでしたが、ここで復活しています。


川崎の一連の歌詞では「自意識過剰」がテーマになっています。気持ち的には「さあ、セックスしようぜ!」と堂々とした姿を見せているのですが、現実にはうまく行かない様子が描かれているのです。デビュー曲『ラブ・ショック』の歌詞には、「♪ 蒼い獣に変わった 僕を今すぐ感じて」とあります。本来なら当時のジャニーズのトップは、セックスを経験する前のタレントであるはずです。川崎は違うのでしょうか? しかし、ここでの威勢のいい歌詞は独白に過ぎません。相手の反応は見えて来ないのです。


川崎麻世『ラブ・ショック』(1stシングル、1977.7、CBS
   作詞:石原信一、作曲:筒美京平、編曲:筒美京平
山口百恵の男性版として同じレコード会社からデビュー


2枚目のシングル『青いシンボル』は、タイトルから直接的な表現がされています。これは「青い」=「童貞」、「シンボル」=「ちんちん」です。歌詞には「♪ どうすれば 愛しあえる わからない 僕には」とあります。相手も同年代のようで、戸惑うどころではなく怖がられています。やはり、川崎は童貞でした。それでも、やりたくて仕方がない。そして、「♪ 勇気と言うやつ みせてやろう 走れ稲妻」と歌います。



3枚目のシングル『暗くなるまで待って』。性的なことで困った時には、年上の女性からの手が差し伸べられます。しかし、自意識が邪魔しているのか、それを受け入れることが出来ません。悪魔になるから暗くなるまで待ってくれと歌います。作詞は森雪之丞、作曲は当時ピンクレディーの作品で大人気だった都倉俊一です。川崎の大袈裟な歌詞は後のシブがき隊にも引き継がれます。


山口百恵と同じ作家陣で挑んだ5枚目のシングルは『天使の顔につばを吐け』という凄いタイトルです。現在のジャニーズでは、ファンのことを天使と表現する歌詞もありますが、ここでは自分の心の中で天使と悪魔が葛藤する姿が描かれます。また、郷ひろみのシングルでもあったように、麻世という名前が織り込まれた歌詞が登場していました。「♪ ま、ま、よ、、、まよ、まよ、まよ、迷わずに 愛しあえば」です。作詞した阿木曜子にとって、ジャニーズと言えば、やはり郷ひろみの名前と共にあったのでしょう。ひろみの作品では23枚目のシングル『帰郷/お化けのロック』(1977年)から阿木、宇崎、萩田の制作陣が起用されています。その後を追うように、川崎もこの制作陣を起用しているのです。


ここでも「ワル」を強調する歌詞が並んではいるのですが、最後までセックスの描写は登場しません。例えば、歌詞に「迷わずに愛しあえば」とあっても、それに続く歌詞は「迷い事増えるだけ」となるのです。どうやら天使の顔の方が強かったようです。少年が悪ぶるという範疇からは外れていないのです。


川崎麻世『天使の顔につばを吐け』(5thシングル、1978.10、CBS
   作詞:阿木曜子、作曲:宇崎竜童、編曲:萩田光雄
山口百恵で活躍するトリオを起用。郷ひろみ以来、久々の名前ソング。


『天使の顔につばを吐け』に続いて、次のシングルも同じ作家で挑んでいます。編曲は戸塚修です。これも酷いタイトル『自由の女神をぶちこわせ』です。歌詞には「♪ 河をはさんで立っている 間抜けた女神をぶちこわせ しゃべりの自由 おしゃれの自由 自由 自由じゃあきがくる」とあります。自由という言葉にすら腹が立つ。これは郷ひろみのファーストアルバムの2曲目『理由なき反抗』から着想された曲ではないでしょうか? 「♪ わけもなく背きたい 僕がいる世界に」という歌詞がありました。


しかし、自由の女神も、なぜ自分が攻撃されているのか戸惑ったことでしょう。少年の性へ向かうエネルギーはとてつもないものなのです。それでも、行き着くところまで行ったのでしょう。次の曲で雰囲気は一変します。7枚目『21(トゥエンティーワン)』には、「♪ 心も身体もひとつになりたい すべては新しく変わる」という歌詞が登場しています。初めて素直な気持ちをだせたようです。これは川崎の予告ソングでしょう。もうすぐ通過儀礼が来ると宣言しているのです。


でも、このタイトルおかしくないですか? このときはまだ1979年ですよ。21世紀はまだまだ先です。映画『スターウォーズ』のブームがあったからとか、SFを意識してのことかもしれません。この時代が一番、21世紀に憧れを抱いた時代であったという推測もできるでしょう。でも、もしかしたら、これからジャニーズに新しい時代が来ると予告したとは考えられないでしょうか?


ジャニー社長の秘蔵っ子、田原俊彦のデビューが近づいていたからです。著書によると田原は1976年8月にジャニーズ事務所の門を叩きました。川崎よりも先に入所しているのです。70年代後半、めぼしいタレントはすぐにデビューさせていました。豊川は4ヶ月、川崎は9ヶ月です。しかし、その中で田原は4年近くもデビューを待たされたことになります。


高校を卒業するまで毎週日曜日に甲府からレッスンに通いました。その交通費はすべてジャニーさんから渡されています。それだけではなく、レッスンの後には必ずホームまで送ってくれたそうです。田原はジャニーさんにとって未来への希望そのものだったのでしょう。そう考えると、川崎のこの曲は、ジャニーズの冬がもうすぐ終わるとファンに知らせる曲だったのかもしれません。


川崎麻世『21(トゥエンティーワン)』(7thシングル、1979.5、CBS
   作詞:小林和子、作曲:馬飼野康二、編曲:馬飼野康二
⇒予告ソング。田原敏彦登場の予告でもあった?



8枚目のシングルは、当時ディスコブームを背景に日本で大ヒットしていたレイフギャレットのヒット曲『レッツゴーダンシング』でした。これは川崎の通過儀礼ソングでしょう。「♪ 愛、それはダンシング」と出だしから歌われます。このダンスはもちろんセックスを表現したものでしょう。本来、通過儀礼ソングは、セックスをして反省するという内容が描かれます。しかし、川崎のこれまでのシングルはあまり売れていませんでした。そのためか、暗い内容にはなっていません。情熱的なディスコソングとなっています。


次の年、同じくレイフギャレットのカヴァーで田原俊彦がデビュー。続いて、近藤真彦もデビューします。ですから、この曲でトップ交代です。この曲の日本語詞で、珍しくジャニーさんが実名でクレジットされています。なぜ、この曲だけにジャニー社長の名前が登場したのでしょう? フォーリーブスや JJSのときには、北公次の名前で発表されていました。確かに、すでに北はジャニーズ事務所を離れていました。でも、だったら現在のように変名を使えば良かったのです。しかし、ここでは自身の名前を出しました。そこに理由はあるのでしょうか?


『レッツゴーダンシング』に登場する「♪ ゲームに夢中な夏の天使よ」という歌詞は、郷ひろみのファースト・アルバムに収録された曲『夢をおいかけて』を連想させます。「♪ きのう遊んだ友だちは ゲームの好きな昼の天使たち」です。そして、『レッツゴーダンシング』には「♪ 昨日 抱いてた想い出はもう 捨てたさ うそじゃない」という歌詞も登場するのです。もちろん、その捨てた想い出とは郷ひろみのことでしょう。田原という新しい恋人を得て、ひろみに新しい恋人ができたと伝えるために、自分の名前で歌詞を書く必要があったのでしょう。


川崎麻世『レッツゴーダンシング』(8thシングル、1979.7、CBS
   作詞:Michael Lloyd、日本語詞:Johnny.K、作曲:Michael Lloyd、編曲:田辺信一
⇒ジャニー社長が本人名義で登場。郷ひろみに別れを告げる。川崎の通過儀礼ソング。


川崎はこれ以降、映画『ドラキュラ都へ行く』の主題歌『フライ・バイ・ナイト』のカヴァーでセックスそのものを歌い、アニメ『宇宙空母・ブルーノア』の主題歌で新しい世界への旅立ちを歌います。郷ひろみ以来となる少年から大人への物語を完成させました。川崎は、その後、1989年にジャニーズ事務所を辞めています。しかし、ジャニーズ事務所が一番きつい時期を支えてくれたタレントとして、ジャニー社長やメリー副社長から感謝の言葉も捧げられています。


◉70年代アイドルの時代終る
川崎麻世が活躍したのは第1次アイドルブームの終わり頃です。川崎がデビューした1977年7月には、キャンディーズがライブのステージ上で突然の解散発表をしています。現在でも語り継がれる「普通の女の子に戻りたい!」です。アイドルは普通じゃない。演じるものだったと最初に気づかされた瞬間でした。



次の年にはアイドルブームの先駆者、南沙織が24歳の誕生日の席で「きょうをもって引退させていただきます」と宣言します。レコード会社や周りのスタッフにも突然の出来事でした。そして、引退後には青山学院大学に入学、さらに、写真家の篠山紀信と結婚しています。


1979年10月には、山口百恵がライブステージ上で「私が好きな人は、三浦友和さんです」と突如告白。そして、翌年の10月ステージにマイクを置いて引退します。1980年9月には、大人から子供まで大ブームを巻き起こしたピンクレディーが解散を発表します。1981年3月、後楽園球場で解散コンサートが開かれました。




このような連鎖的な引退劇が起きた理由はの背景には、新しいタイプの音楽の登場も影響しているでしょう。「ロック御三家」と呼ばれた、CHAR、世良公則&ツイスト、原田真二がチャートに登場しています。それまで商売にならないと言われたロックも、若者の支持を集めだしたのです。
 

また、次々と時代を映したアイドルたちが引退したことで、80年代初頭にはその代わりとなるようなアイドルたちが続々とデビューします。すでにアイドルという職業が確立されていたため、第一次のアイドルたちよりも幼い雰囲気のアイドルが増えました。



このように、ひとつの時代の終わりがありました。ジャニーズ事務所では、長年後輩たちを引っ張って来たフォーリーブスが1978年8月で解散しています。郷ひろみが移籍してからの70年代後半は、ジャニーズ事務所が一番厳しい時期でした。ジャニー社長自ら金策に回っていたという噂もあります。


しかし、この時期には様々なチャレンジがなされており、後から生きて来るものもありました。例えば、学園ドラマです。井上純一は高校を卒業した後、本格的なタレント活動を開始します。中でも、中村雅俊主演のドラマ『ゆうひが丘の総理大臣』は大ヒットし、生徒役の中心だった井上と藤谷美和子(別の事務所)はアイドルとしての人気を獲得しました。学園ドラマで知名度を上げて行く方法は、この後も続けられ、『3年B組金八先生』に繋がって行きます。




この時期、川崎以外では、アニメ主題歌を歌ったグループがありました。1978年にアニメ『新・エースをねらえ!』の主題歌『青春にかけろ!』を歌った男女混合グループVIP(ビップ)です。VIPはJohnny’sジュニア・スペシャル(JJS)の3人に女性2人を加えたグループでした。女性をデビューさせたあたりで、ジャニーズ事務所に迷いがあったと言えるかもしれません。


『エースを狙え!』は70年代を代表する人気少女マンガです。主人公はテニスの名門高校のテニス部に所属する1年生女子で、テニスを通じて成長して行く姿が描かれています。主人公の名前は「ひろみ」です。偶然でしょうか? 彼女の先輩には「新御三家」を連想させる3人も登場しています。しかし、その3人のモデルは名前から推測するに藤竜也尾崎紀世彦千葉真一でした。



また、その前年1977年には特撮ヒーロー番組『小さなスーパーマン ガンバロン』に、ジャニーズJr.から古川清隆が出演しています。そして、その主題歌はザ・バーズとジャニーズ少年団が『ガンバロン’77』を歌っています。ジャニーズ少年団には野村義男もいました。「♪ 男の子なら正しく強く」という歌詞で特撮ファンに人気の曲です。ちなみに、ザ・バーズ高校サッカーのテーマソング『ふり向くな君は美しい』で知られる双子の姉妹グループです。ジャニーズの所属ではありません。(つづく)