ハノイの日本人

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ジャニーズの教科書。第4章「少年から大人へ」⑥

遅くなりました。今年35周年マッチさんのシングル曲の分析です。



◉ジャニーズの教科書。第4章「少年から大人へ」
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20150706/1436192971
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http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20150803/1438599258



◉1980年12月 近藤真彦デビュー

のきんブーム以降、ジャニーズは80年代を通して快進撃を続けます。田原の次にデビューしたのは近藤真彦です。大ヒット間違いなしと言われた彼の争奪戦は熾烈を極めました。レコード会社は次々にジャニーズ事務所を訪れ、近藤のデビュー計画を提案したのでした。


そのなかにRVCレコードの小杉理宇造もいました。彼はメリー副社長宛に、熱意をしたためた手紙を書き、近藤を勝ち取ったと証言しています。そして、第2章でも書いたようにデビュー曲『スニーカーぶるーす』は100万枚を売り上げます。近藤の活動で特筆すべきことは、田原と同じく少年から大人へのストーリーがヒットシングルの中で描かれたことでしょう。そして、田原よりもしっかりとストーリーになっていました。


これはジャニーズ事務所の指示で行われたのでしょうか? それとも小杉の提案だったのでしょうか? 作詞に松本隆が起用されている時点で、連続したストーリーが描かれることは想定されていたように思います。松本は1984年に週刊誌『朝日ジャーナル』のインタビュー連載『若者たちの神々に』登場しています。そこでインタビュアーの筑紫哲也によって、阿木曜子が作詞した山口百恵と彼が作詞した松田聖子の違いについて聞かれました。


 ぼくの詞は普通、ラインみたいな、連続物なんですが、百恵さんの場合は、一回一回読み切りでしたからね。(1984年10月13日号)


松本の場合、アイドルの歌詞を依頼された時点で、プロデュースに近いことをします。どういうファン層をターゲットにしたこのようなアイドルだとはっきりさせて歌詞を書くわけです。デビュー曲で松本を起用した時点で、近藤の「通過儀礼ソング」までの道は、ある程度想定されていただろうことが想像できるのです。


しかし、ここで考えなければいけないことがあります。第2章でも書いたように、『スニーカーぶる〜す』の歌詞は書き換えられているのです。最初の歌詞はかなりメソメソしたものでした。なので、この時点までは「通過儀礼ソング」という発想はなかったのかもしれません。この点にも注意して近藤の主要シングルを見て行きます。


その前に・・・・本文を書くにあたり、書籍で歌謡曲の中の性体験について分析した本がないか気になりました。そして、一冊見つけたのです。


伊集院 僕は、森田公一とトップギャランの「青春時代」って、全部「童貞」って置き換えるとわかりやすいと思うんですよ。(中略)
みうら そうだよね。無理に「青春」って言ってるけど、あれって「童貞」のことだからね。だって、青春時代の終わりって童貞喪失のことでしょう。(D.T. P20より)


伊集院光みうらじゅんの共著『D.T.』(2002年、メディアファクトリー)です。「青春時代の終わり=童貞喪失」と鋭く指摘されています。そして、この本には『肉体の童貞は失ったけど、精神はまだ童貞だぞっていうのを、まず「D.T.」って呼んでみようと思うんだ』というD.T.の定義が示されていました。


なるほど。マッチさん(以下、近藤ではなく愛称で呼ばせてもらいます)も童貞ではなかったでしょうけど、童貞の心を歌い続けたわけだからD.T.シンガーと言ってもいいはずです。マッチさんのD.T.ソングの数々を振り返ります。


近藤真彦シングル・リスト
1. スニーカーぶる〜す(1980年12月)104.6万枚
2. ヨコハマ・チーク(1981年3月)52.1万枚
3. ブルージーンズメモリー(1981年6月)59.6万枚
4. ギンギラギンにさりげなく(1981年9月)81.6万枚
5. 情熱☆熱風せれなーで(1982年1月)55.6万枚
6. ふられてBANZAI(1982年3月)53.0万枚
7. ハイティーン・ブギ(1982年6月)60.7万枚
8. ホレたぜ! 乾杯(1982年9月)50.2万枚
9. ミッドナイト・ステーション(1983年1月)39.1万枚
10. 真夏の一秒(1983年4月)34.4万枚
11. ためいきロ・カ・ビ・リー(1983年7月)33.0万枚
12. ロイヤル・ストレート・フラッシュ(1983年11月)29.5万枚
13. 一番野郎(1984年3月)29.4万枚
14. ケジメなさい(1984年6月)32.7万枚
15. 永遠に秘密さ(1984年9月)23.9万枚
16. ヨイショッ! (1985年2月)19.1万枚
17. 夢絆(1985年6月)20.3万枚
18. 大将(1985年10月)12.6万枚
19. 純情物語(1986年2月)10.6万枚
20. 青春(1986年7月)8.4万枚
21. Baby Rose(1986年9月)9.4万枚


マッチさんは「D.T.ソング」の宝庫です。曲調がかっこいいので、あまり気づかれてはいないかもしれませんがD.T.の名曲多数です。なぜでしょう? 田原俊彦の場合は、経験前でも 「D.T.ソング」という雰囲気はないのです。モテ感があるというか。やはり、硬派の不良という『3年B組金八先生』のイメージを元にデビュー曲『スニーカーぶる〜す』が作られたからでしょうか?


ひとつには、松本隆が女性ファンだけでなく、男性ファンにもアピールする歌詞を書こうと考えたからでしょう。松本は松田聖子のときにも同性にアピールする歌詞を書いています。かっこいい男がかっこいい歌をうたっても男性ファンは付きません。情けない部分も出しながら共感を呼ぼうとしたのでしょう。もうひとつ、マッチさんの曲に登場するのは基本的に同年代の女子です。相手は導いてくれる存在ではありません。対等の立場・・・というか、男の方がリードする必要があるかも知れないのです。しかし、このときマッチさんはD.T.です。


最初に少年から大人へが描かれた郷ひろみのシングルでは、セックスへの手順を踏む度ごとに、年上の女性が登場しました。『モナリザの秘密』『わるい誘惑』のようにです。川崎麻世のシングルにも年上の女性が登場しています。大人の女性に導かれて、経験を増やして来たわけです。この変化はなにを意味するのでしょう? 


川崎の頃からその傾向は出て来ていますが、性の情報が簡単に入手できるようになったことがあるのではないでしょうか? 中学生にもなれば、知識としてはセックスを理解している時代となっていました。メディアに性の情報はあふれていたのです。体験よりも先に知識がある時代になっていました。それにより、自分の中に「理想の初体験」のようなものがストーリー化されるようになったのかも知れません。相手の存在より前に、自分が勝手に思い描いたラブストーリーがあり、しかし、それは現実の女子を前にして当然のように挫折するわけです。


デビュー曲『スニーカーぶる〜す』では、この挫折が「裏切り」と表現されていました。「♪ 青春の手前で裏切りはないぜ」です。しかし、「裏切った!」と言われるような約束は、最初から存在していなかったはず。また「青春の手前」という歌詞は「セックスをする前」という意味です。作詞家・松本隆はここで「青春=セックス」と定義しました。それは「♪ 欲望のためだけに突っ走るなど カッコ悪いと覚えて来た」と歌う、光GENJI『青春にはまだ早い』にも引き継がれています。


「青春」はジャニー社長が近藤真彦デビューにあたって用意したキーワードでした。映画や著書などでもその言葉が使われています。「♪ 青春の手前で裏切りはないぜ」という歌詞は、後のシングルを考えても、かなり重要な1行です。青春を体験する、そこに向かって歌詞が書かれて行くのです。そして、その1行は『スニーカーぶる〜す』の最初のバージョンにはありません。


スニーカーぶる〜す』の書き直しは、ジャニー社長の指示で行われたのではないでしょうか? 川崎麻世のときには、レコード会社が郷ひろみと同じCBSソニーです。ですから、酒井政利もいましたし、シングルで「少年から大人へ」を描くことは当然でした。しかし、マッチさん楽曲のプロデューサーである小杉は、郷ひろみのシングルでそのようなことが行われたことを知らなかったのです。彼はそれ以前にもリトル・ギャングを担当していましたが、本格的にアイドルのプロデュースをするのは初めてだったのです。


もちろん、そのようなストーリーを採用するのは特殊なことです。酒井が独自に編み出した手法だからです。ここではっきりとジャニーズのトップは少年から大人へのストーリーを歌う存在だと確認されたのだと私は考えます。そして、書き換えられた歌詞は、性との折り合いがつかない高校生っぽい主人公になっています。さらに、松本が設定したアイドル像が、年上の女性にセックスへと導いてもらうではなかったことから、マッチさんの場合はこれまで以上に苦労して少年から大人へを歩むことになります。



シングルではありませんが、ファーストアルバム『Thank 愛 You』に収録された名曲『哀しきハイスクール』もD.T.ソングです。


 ♪ 俺が振られた噂で もう街中もちきり
   君がヒソヒソ誰かに 喋った事など 気にしないぜー


好きになった相手はヤンキー系の女子だったようで、電話で告白したところクスクス笑われたという歌詞でした。しかも、その子がすぐに誰かに話したんでしょうね。「きのう、あいつにコクられたよ」みたいに。それで街中その噂で持ち切り・・・ そんなことはないと思うんですけど、ツラいですね。やっぱり、この年代では女子の方が成長が早いですから。マッチさんが力なく叫ぶ「気にしないぜー」が心に響きます。さすが松本隆D.T.の自意識を見事に切り取った、素晴らしくイジワルな歌詞でした。『MACHY★BEST』に収録されています。


近藤真彦『哀しきハイスクール』(1stアルバム収録、1981.3、RVC)
作詞:松本隆、作曲:筒美京平、編曲:戸塚修
⇒後輩グループも歌った名曲D.T.ソング。



4枚目『ギンギラギンにさりげなく』。下半身的にはギンギンなんだけど、そういうときこそさりげないアプローチが必要だと、直木賞作家はアドバイスしています。


近藤真彦『ギンギラギンにさりげなく』(4thシングル、1981.9、RVC)
作詞:伊達歩、作曲:筒美京平、編曲:馬飼野康二
直木賞作家、伊集院静作のD.T.ソング。


6枚目、相米慎二監督の映画『ションベンライダー』でも歌われた名曲『ふられてBANZAI』。ふられたときに自分がどう見えるか? 俺は奇麗にふられたよ。これまたD.T.らしい自意識を切り取った見事な一曲。もちろん作詞は松本隆です。


ところで、『ふられてBANZAI』の「BANZAI」は、「天皇陛下、万歳!」と言ってアメリカの戦艦に体当たりした日本海軍を連想させますよね。「万歳!」と叫びながら命を捨てる。西洋人から恐れられた神風特攻隊です。西洋から見た日本という意味で、シブがき隊の曲に通じるものがあります。『サムライ・ニッポン』や『アッパレ!フジヤマ』などの先駆となる曲と言っていいでしょう。


近藤真彦ふられてBANZAI』(6thシングル、1982.3、RVC)
作詞:松本隆、作曲:筒美京平、編曲:後藤次利
⇒ジャニーズにおいて、西洋から見た日本という視線が最初に導入された曲。


8枚目のシングル『ホレたぜ!乾杯』でも確実にD.T.です。ここでは「♪ 愛の引き金引けない俺さ」とあります。拳銃は男性器のメタファーですから、まだまだ発射できません。作詞は松本隆、作曲は筒美京平、編曲は後藤次利です。


12枚目のシングル『ロイヤル・ストレート・フラッシュ』では、力づくで抱くことは簡単だけど、君から飛び込んで来るのを待ちたいと歌っています。いつになく余裕のマッチさん。そして、来年の夏20歳になるから、そのときにはしようぜと伝えます。セックスを体験するためのカードは全部揃いました。ロイヤル・ストレート・フラッシュ! 完全に勝利を確信した余裕のマッチさんでした。これはその時期まで告げた予告ソングでしょう。


近藤真彦『ロイヤル・ストレート・フラッシュ』(12thシングル、1983.11、RVC)
作詞:松本隆、作曲:筒美京平、編曲:松下誠
⇒時期まで指定した通過儀礼予告ソング。来年の夏こそやる!


しかし、予告通り進まないのもまたジャニーズです。マッチさんの場合も、うまく事は運びませんでした。それもまたD.T.ライフでしょう。次のシングル、早くも余裕は何処へ。ケモノに豹変し「一番野郎 一発野郎」と歌います。一発やろう・・・まるでシブがき隊が憑依したような歌詞です。やはり、シブがき隊の主力作家、売野雅勇が作詞していました。


近藤真彦『一番野郎』(13thシングル、1984.3、RVC)
作詞:売野雅勇、作曲:筒美京平、編曲:松下誠
⇒一転、余裕をなくし、激しく迫ります。一発やろう!


そして、次も売野作詞で『ケジメなさい』。発売時期としては、ここで通過儀礼ソングが来ると指定されていた夏です。そして、2人で海辺にお泊まりします。しかし、できなかった。はっきりしないマッチさんに愛想を尽かし、彼女は他の男のところへ行ってしまったようです。海岸ではみんなセックス花火を打上げているのに、オレだけセックスできないのは「やさしさ」のせいだとウジウジします。70年代前半の郷ひろみのときには、「やさしさ」は女性に求められました。しかし、80年代に入ると「やさしさ」は男性に求められるようになっていたのです。しかし、やさしいだけでは乗り越えられない壁というのもまたあるのでした。


近藤真彦『ケジメなさい』(14thシングル、1984.6、RVC)
   作詞:売野雅勇、作曲:馬飼野康二、編曲:馬飼野康二
→予告ではここで経験するはず。2人で海にお泊まりしたが…


なぜ、『ロイヤル・ストレート・フラッシュ』の予告通り、ここで通過儀礼が来なかったのでしょう? 実はマッチさんの次のトップ候補が不発に終わったからでした。それは5人グループとしてデビューしたイーグルスでした。メンバーには、後にソロデビューする中村繁之や、光GENJIでデビューする大沢樹生内海光司がいました。ロサンゼルス・オリンピックのマスコット・キャラクター、イーグルサムを主人公にしたアニメの主題歌を歌ってデビューしたのですが、まったく売れなかったのです。シングル2枚を発売して自然消滅しています。




イーグルスがトップを引き継げなかったため、マッチさんはトップで居続けました。マッチさんのD.T.ソングはさらに続きます。『硝子の少年』のコンビ松本、山下でつくった15枚目のシングル『永遠に秘密さ』もいい曲です。2人で入り江に行き、抱き合うとこまでは辿り着いたようですが、そこから先がうまく行きません。拒絶にあっているようで「♪ 言葉なんて捨てなよ」と歌います。そして「♪ 男の気持ちわかってくれよ」と何度もお願いするのです。わかるなー


近藤真彦『永遠に秘密さ』(15thシングル、1984.9、RVC)
作詞:松本隆、作曲:山下達郎、編曲:山下達郎
⇒男の気持ち、わかってくれよ・・・・


こうして歌詞を分析してみて、初めて男の私がマッチさんの曲を好きだった理由が見えて来ました。マッチさんは童貞少年の代弁者だったのです。尾崎豊よりマッチさんの方が熱いと思っていた私は間違っていませんでした。


売野雅勇が作詞した17枚目のシングル『夢絆』から、少し様子が変わって来ます。「♪ 酔っちまうにはお前と暮らした 歳月重すぎる…寒い夏だね」とあるのです。これはもう関係を持った間柄と言っていいでしょう。一緒に暮らしているわけですから。ここでやっとD.T.卒業ということでいいでしょうか?



いやいや、それほど簡単な話ではありません。一緒に住んでもやらない。それがマッチさんの凄さです。同じく売野が作詞した19枚目『純情物語』。もうタイトルで何かを予感させますが、歌詞もまったく期待を裏切りません。お気に入りの歌詞なのでちゃんと掲載します。


 ♪ 俺が男をあげるまで 恋は苦手とシカトして
   指も触れずに見ているぜ ツラい男の勲章さ
  格も気合いもケタ外れ


凄いですね。一緒に住んでいるのに指も触れなかったんですよ! 見てるだけ! 今だったら結構あるのでしょうか? でも、当時としては「なし!」でしょう。これはたしかにツラい。一緒にいる相手も大変です。まさにケタ外れ。しかし、このシングルで行き着くところまで行ってしまったようです。「♪ 俺と一緒に生きてくれるか?」とプロポーズも済ませました。


近藤真彦『夢絆』(17thシングル、1985.6、CBS
   作詞:売野雅勇、作曲:鈴木キサブロー、編曲:チト河内
⇒一見、通過儀礼ソングにも思えるが・・・・幻のガラスソング?


近藤真彦『純情物語』(19thシングル、1986.2、CBS
作詞:売野雅勇、作曲:都志見隆、編曲:松下誠
⇒予告ソング。ついに、最後の女になってくれと告白を済ませたよ!


しかし、この『夢絆』と『純情物語』の流れには違和感があります。マッチさんは『夢絆』で通過儀礼を済ませる予定だったのではないでしょうか? と言うのは、『夢絆』が出た次の月、1985年7月には中村繁之のデビュー曲『Doファッション』を出しているからです。イーグルスでデビューしていた中村はマッチさんに似た雰囲気のタレントでした。そして、今度はソロでデビュー。彼がここで売れていれば、そのままトップになっていたはずです。しかし、まったく売れなかった。そういうジャニーズ事務所のシステムに影響を受けて、マッチさんは体験出来ずにいたわけです。


20枚目のシングル『青春』。やっと、これまでの人生について反省します。『青春』は自身もシンガーである高橋研の作詞、作曲です。


 ♪ 錆びたナイフだね 青春てヤツは
   ぶつけ場所のない 悲しいエネルギー
   ろくでなしだったよ チンピラのようだった
   夢だけ食べて 生きてたころ


タイトルが『青春』です。つまり『セックス』です。『スニーカーぶるーす』で松本隆が定義した「青春=セックス」がきっちり守られました。セックスをして別れた後の状況を歌っているのでしょう。そして、「セックスごときでここまで振り回されることもなかったな」と反省しているわけですw これが近藤真彦通過儀礼ソングですね。


近藤真彦『青春』(20thシングル、1986.7、CBS
作詞:高橋研、作曲:高橋研、編曲:チト河内
⇒マッチさんの通過儀礼ソング。これ以降は大人の歌に!


マッチさんは『青春』でD.T.を卒業しました。1986年、マッチさん22歳のときの曲でした。本当だったら、松本隆が『ロイヤル・ストレート・フラッシュ』で書いたように、20歳で体験する予定だったと思います。しかし、先にも書いたようにジャニー社長は次のトップを用意できなかったわけです。結局、光GENJIの構想が出来るまで、マッチさんはお預けを食らっていました。


郷ひろみの「通過儀礼ソング」『よろしく哀愁』も悲恋の歌でした。この曲も別れた後に反省する歌になっています。これ以降もジャニーズの「通過儀礼ソング」は暗い歌ばかりです。セックスをして傷つく。セックスなんて、ろくなもんじゃない。ジャニーズにおいて初体験は挫折としてあるのです。


初体験を済ませ、次からは完全に大人の領域です。21枚目のシングル『BABY ROSE』は織田哲郎の既発曲のカヴァーです。作詞、作曲、編曲すべて織田哲郎です。織田は90年代にチャートを制圧したビーイングの作曲家として名を馳せた人物です。代表曲に『おどるポンポコリン』(B.B.クイーンズ)、『咲き誇れ愛しさよ』(Wink)、『碧いうさぎ』(酒井法子)、『負けないで』(ZARD)、『世界中の誰よりもきっと』(中山美穂WANDS)、そしてジャニーズでは、V6『本気がいっぱい』(1997年)、J-FRIENDS『明日が聴こえる』(1998年)、KinKi Kidsボクの背中には羽根がある』(2001年)『Anniversary』(2004年)の作曲を手掛けています。


織田といい、光GENJI でのCHAGEASKAといい、90年代に大ブレイクを果たす作家を、ジャニーズは1987年に起用していたわけです。さすがです。『BABY ROSE』には「♪ 覚えているだろう 初めてお前が BABY ROSE この腕の中で」という歌詞がありました。バラが女性器のメタファーであることからも、間違いないと思われます。わかりやすくセックスを表現した歌詞です。D.T.を卒業したらもう怖いものなし。4畳半っぽい雰囲気から、いきなりNYを舞台にしたラブソングでした。


近藤真彦『BABY ROSE』(21thシングル、1986.9、CBS
作詞:織田哲郎、作曲:織田哲郎、編曲:織田哲郎
⇒NYで余裕のマッチさん!