ハノイの日本人

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アメリカからの自立を考えるべきときなのか?

先週ゲンロンカフェで三浦瑠璃さんが語られたことをまだ考えています。トランプ政権下では日米安保は無意味だという話でした。しかし、その2日後、尖閣諸島の有事に日米安保は適用されるとマティス国防長官が明言したわけです。これは一体なんだったのでしょう? 私が思い出すのは、鳩山由起夫元総理です。彼は普天間基地問題を解決するために日米安保を破棄しようとして潰されましたよね? マスコミは総攻撃だった。当時、私は面白いと思ったんですよ。でも潰された。自民党の政治家がアメリカを恐れるというのは、こういうことですよね? アメリカの言うことは何でも聞く。戦争にも参加する。でも自立はできない。これでいいのか?って話です。ちょうど、宮台真司さんがビデオニュースで、江藤淳さんの「アメリカの影」という言葉について話されてました。その部分だけ文字化しておきます。


森高千里 『勉強の歌』。(ゲンロンカフェの文字化)
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20170202/1486050260



◉裁判所がおかしな判決を連発する本当の理由(ビデオニュース)
http://www.videonews.com/marugeki-talk/826/
『元エリート裁判官の瀬木比呂志氏は、裁判官の政治へのおもねりや自身の保身を優先する裁判官の基本的な習性は以前から大きくは変わっていないが、特に近年は裁判官の劣化が激しくなっているという。劣化が露骨に顕れるのが、日米安保原発のような国策を巡る裁判だ。こうした裁判では裁判所はよほどのことが無い限り国側に有利な判決を出すのが常だが、最近はそれを正当化する判決文すらまともに書けなくなっている。先の辺野古の埋め立て承認を巡り国と沖縄県の間で争われた行政訴訟でも、裁判所は沖縄県側の主張には見向きもせずに一方的に国側勝訴の判決を書いているが、その論理はあまりにもお粗末だ。以前であれば国側に勝たせるために必死でその理屈を考えたものだが、今やその能力も気概も失われてしまったように見える』


宮台真司:(前略:米軍や原発など国の統治に関することになると、まったく司法が機能しないという話を受けて)文芸評論家の江藤淳さんが「アメリカの影」という言葉を使っていて。その理由は、GHQの占領時代にアメリカがどれだけ厳しい検閲をしていたかという。情報公開があったときに徹底的に調べるということをやったからなんですよね。
ちょっと搦め手みたいなところから攻めると、僕がもし判事だとして、30年前とかに判決を下す場にあったら、どう処理したかと考えるわけですよ。そうするとね、江藤淳さんの言ってることが気になると思う。僕が最近言ってることとも同じだけども、日本の左翼は9条護憲主義だけど、これは核の傘アメリカの核戦略がなくてはとても言えないことだったんですね。実際に9条護憲を言い出して、左が社会党として合同して行く。あるいは、国民統一戦線みたいなものをつくって行くプロセスではね、9条護憲なんて信じてる人はほとんどいなかったし、共産党はなにせ9条反対だった(笑)。つまり、一番最初は9条護憲主義なんていうのは、完全にアメリカの武力におんぶに抱っこということは知ってたわけです。それが、なんて言うんだろう、忘れ去られて行く。
でね、左だけじゃない。右もそうだと。右は2つあるけども。吉田茂たち自由党系は選択と集中で、経済復興に専念するために国力を無駄に使いたくない。だから、アメリカに基地を貸すとか、あるいは、いざという時には守ってもらおうじゃないかとなる。日本民主党系も実は、あまり違わない。55年から56年にかけての日ソ平和条約締結問題で、2島返還でアグリーメントに達するつもりだった。ところがダレス国務長官から小笠原と沖縄を永久に返さないぞと恫喝されて、突如、北方領土という聞き慣れない概念を捏造することに及んだんだよね。
つまり、それ以降、靖国参拝でもなんでもいいけど、国粋主義的、愛国的な方向性も、アメリカが許してくれる枠の中でやると。右も左もぜんぶ、簡単に言うと、アメリカに這いつくばった状態でやってるんだよね。江藤淳さんはそのことにずっと気がついていて。で、逆に言うと、アメリカに這いつくばった状態というのをすべてキャンセルすることになった瞬間に、すべて空っぽになっちゃうんですよ。・・・っていうことを考える判事がもしいたとすれば・・・うーん・・・(神保:そんなことは日本を空っぽにしてもいいという判決だってこと?)そう思った可能性もある。
で、冒頭の話に戻るんだけど、選択肢があるか、ないかって話だと思うんだよね。いまは国力がないから、仕方なくアメリカの力に依存しているといえるが、しかし、いつまでもこのままではいけないと思って、どういう準備をするか? 自分たちがどういう矜持を持つかどうか・・・簡単に言うとそこが試されるんだと。白洲次郎なんかはそれを考えていたわけなんだよ。
何度も言うけど、日本の国内的な状況なわんですよ。状況というか、文化というか。瀬木さんが問題にされてることなんですけど。僕はアカデミズムにいるからわかりますけど。市民社会のプラットホームに準じたことをしようとすると、当然それぞれの所属集団=内集団の「空気」に反するわけだよね。で「空気」に反すると何が起こるかと言うと、僕を応援してくれる人は、シビックなパブリックにコミットしたってことになるんだけど。でも、内集団の眼差しは「ああ、宮台はそもそも『空気』を読めないヤツで」とか、「ええかっこしい」とか、いわゆる属人化するんだよね。「こいつは変わったヤツなんで」というふうに、つまり、エキセントリックという烙印を押して。いかに、こいつの言ってることは意味がないのか・・・とにかく、効力をキャンセルする方向に動くんですよ。(神保:それはメディアも一緒ですか?)一緒ですね。
そうすると、いつかアメリカに依存する状態から脱しなければいけないという、市民的公共圏に関わる議論につながりやすい話なんだけど。でも、ある時期からそういう話をすると「一人だけおかしなこと言ってるヤツがいるよ。誰それ?」みたいなことになるんですよ。もの言えば唇寒し状況にいつのまにかなってる。そこから先はアイヒマンの問題だよね。私がオブジェクションを唱えたとしても飛ばされるだけで、後釜はいつでも見つかる。