ハノイの日本人

アイドル、ジャニーズ、サッカーなど。

アイドルとヤンキーと。

 

水曜日に外で鶏肉の竜田揚げ定食を食べたんです。アレルギー品目に小麦の表記もあったんですけど、それは醤油が使っていても記載されるので、よくわからないんです。店員さんに聞いてもわからないことが多い。タルタルソースが美味しそうだったのでチャレンジしまして、まんまとその夜から頭痛に襲われました。まあ普段なら2日ほどで排出されるんです。でも今回はほぼ部屋にいるからなのか、鬱っぽくて嫌な感じです。不快な文章だったらごめんなさい。あまり攻撃的にならないように気をつけて書きます。でもこいつは許せない。

 

 

わかってて言ってるんだよな。炎上ほしさに。それだけに許しがたい。日本は税負担が低いなどと言ってる。住民税、国民年金、健康保険料とガッツリ取られるのに、その上にもっと消費税を上げろと言ってる。杉村太蔵、完全にクズでしょう。だったら株式市場にじゃぶじゃぶ国民のお金を注ぎ込んでる代わりに、上場企業の法人税上げろよ。ちゃんと株価暴落させておかないから、クズ発言する奴らが出てくる。

 

 ネット上に飼われてる家畜みたいな生活をしています。NETFLIX 観て、お腹が減って、スーパー行って、ご飯食べて、NETFLIX 観て、寝る。それなりに楽しいけど、なんかそろそろ腐り出してる。まずい。勉強する。精神病理学の先生、斎藤環さんの著書『世界が土曜の夜の夢なら』です。サブタイトルにあるように日本に浸透するヤンキー文化について書かれています。面白い。冒頭の文章を観るとナンシー関さんに触れ「彼女は芸能界を支配する美意識の大部分がヤンキー的なものであることを身も蓋もなく指摘」したとあります。当然それはアイドルにも関わる話なわけです。アニメのこと、文学のこと、金八先生のこと、天皇制のこと、いろいろ書かれてるわけですが、最終章の文章を少し抜き出します。その部分は他の章より少し難しいのですが、何度も読んで考えたいと思います。

 

ここまでヤンキーと古事記の関係にふれてきた以上、丸山眞男の言葉にも耳を傾けないわけにはいかない。それでは、丸山は何を言ったか。彼は古事記を徹底的に読み込んで、「つぎつぎになりゆくいきほひ」の歴史的オプティミズムが日本文化の古層にある、と喝破したのだ(中略)。

これを僕なりに“翻訳”するとこうなる。要するに「気合とアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ」というような話だ。

 

古事記ってそういう話だったのか。丸山というわが国でも屈指の政治思想かが、まだヤンキーという言葉がない時期に、日本文化とヤンキー文化の深い関連を見抜いていたと斎藤さんは書いている。さらに、丸山が古事記から導き出した文章を解説する。

 

たとえば「永遠」という概念がある。これは基本的には欧米からの輸入概念だ。「永遠」は、過去ー現在ー未来という時間の区分を超えた概念でもある。いわば、僕たちの持っている日常的な時間の概念の外側にあるのが「永遠」という概念だ。だからこそ、それは「死」の隠喩にもなりうる。

しかし古事記の中に流れる時間は、そうではない。古事記の時間は「いまここ」がつぎつぎとつながっていくような時間である。この「いま→いま→いま→いま……」という連続には「終わり」というものがない。そこには「永遠」という概念のかわりに、どこまでも終わることなくつながっていく「いま」のイメージがあるのだ。

 

この本ではここでヤンキー漫画の「終わりなき学生生活」との繋がりを指摘されていますが、アイドルファンであれば、「卒業と加入を繰り返す」という言葉を思い浮かべるのではないでしょうか? さらに「つぎつぎになりゆくいきほひ」から「なる」についての解説をしながら、ヤンキーの美意識について触れる。

 

ヤンキー文化の美意識は、「逸脱」と「様式化」の繰り返しで発展してきた。つまり、周囲の仲間から目立つために突飛なスタイルを試みことが「逸脱」であり、そのスタイルが受けて流行すればそれは「様式」として定着する。 

 

これもまたアイドル文化について語られたように読めますよね。数あるアイドルグループの中で目立つように、みんな差別化をはかる。そこから新しいスタイルが生まれる。そのことが以下に書かれています。

 

ヤンキー文化はオタク文化と意外な共通点を持っている。

いずれにおいても、模倣とパロディによる逸脱が「つぎつぎ」と新たな「様式」をもたらす、という進化の形式がみてとれる。すなわち「様式」→「逸脱(パロディ)」→「様式」という、あの連鎖のことである。(中略)

一方、オタク文化においては、まさに「萌え」キャラの変遷において、こうした傾向がみてとれる。とりわけ黎明期の「ロリコン」全盛期がそうだ。七〇年代にコミケを中心に開花したパロディ文化の中で、たとえば吾妻ひでおのような人々が、手塚治虫のようなかわいい絵柄でポルノを作ってみたら面白かろうという発想からロリコン漫画を量産した。

ところが、本来笑いを狙っていた表現が、「萌え」という新しい欲望の形式をもたらしてしまう。

 

他にも面白い指摘がたくさんあるのですが、今日はこのあたりで。最後になぜこの本を読んだかと言うと、ハロプロからヤンキー要素が脱色されたのはなぜかを考えていたんです。初期のメンバーにはかなり濃くヤンキー要素がありました。中澤さん、矢口さん、後藤真希さん。みんなトークもいける人たちだった。しかし、現在のハロプロでリーダーになるのは、おっとりした真面目なメンバーが多いですよね。譜久村さん、山岸さん、一岡さん。これは「いまここ」よりも継続を意識したからなのかとか考えていたんです。アゲハスプリングスの玉井健二さんは自著でヒットのコツとして、ブルース+ダサさ、それをアップデートさせて行くここと、というようなことを書かれていました。それは非常によくわかる話で、当時は感銘を受けたのですが、K-POPインベンション以降は変わってきてるのかも。