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アニメ映画は繰り返し「孤独と暴走」を描く。1

細田守監督『竜とそばかすの姫』がヒットしている。しかし、細田監督自身の評価は思わしくないようだ。特に脚本の拙さがネット上で酷評されている。だが、私が観たかぎり、前作『未来のミライ』については、脚本も悪くなかった。確かに、わかりにくさはあったと思うが、視聴者がその内容を読み取れなかったことが酷評の理由になっていたと考える。今回の第1章は映画『未来のミライ』の読解が中心となっている。この映画は庵野秀明監督の作品『エヴァンゲリオン劇場版』をなぜか細田監督がやり直したものだった。それをわかった上でその映画を観ると、まったく違う世界が広がる。

 

 

アニメ映画は繰り返し「孤独と暴走」を描く。1 

新世紀エヴァンゲリオン』『未来のミライ』『天気の子』は何を伝えたか?

 

細田守監督の2018年作品『未来のミライ』には、終盤に黒光りする新幹線が登場する。これは4歳児の「くんちゃん」がわがまま放題の代償として、ひとりぼっちになり、破滅へ向かう列車に乗るという表現だった。2008年に起きた秋葉原無差別殺傷事件を連想した。孤独に陥った人物が暴走する、その現象に注目したい。「孤独と暴走」は繰り返しアニメ映画に登場するテーマだからだ(*1)。ここでは『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air / まごころを、君に』(1997年公開)、『未来のミライ』(2018年公開)、『天気の子』(2019年公開)を取り上げ、なぜそのテーマをアニメ映画が描かなければいけないのかを考える。まずは『未来のミライ』がどのような映画であったのかを振り返っておく。

 

 

第1章 映画『未来のミライ

 

細田守は「暴走」に至る道を描いた。

 主人公はわがまま放題の4歳児くんちゃんだ。くんちゃんの家族は、外で忙しく働くお母さん、家事をしながら家で仕事をするお父さん、そして、生まれたばかりの妹ミライちゃん。お母さんには「ミライちゃんを守ってね」と言われるが、両親をミライちゃんに取られた気がするくんちゃんはその言葉を受け入れることができない。泣きわめきお母さんを困らせる。このアニメ映画は、一体何を描いているのだろう? 現代的な家族の姿が描かれているようには見える。細田監督の作品は家族をテーマにした物も多い。バラバラだった家族がお互いを理解することで成長していく物語というのが、とりあえずの感想として言える。だが、ひたすら泣き叫ぶ、くんちゃんの声が過剰で不快だという感想も多い。このことに意味はあるのだろうか? 

 

 くんちゃんは自分の思い通りにならないと感情を爆発させ、動物化して走り回ったり、過去に行ったり、未来に行ったりする。つまり、感情が極まるとインターネット上にあるアニメなどの「虚構」に逃げ込んでいるのだ。ネット上で欲望のままに行動する者たちに対して、お前たちは14歳の少年どころか、わがまま放題の4歳児だと監督は言っている。お前たちがこの映画を不快に感じるのは、お前たち自身の姿を見せられたからだと、アニメファンに突きつけているのだ。細田は、なぜそのような過剰な映画を制作したのか? 

 

 やはりポイントは黒光りする新幹線だろう。冒頭にも書いたように、ドクロマークのシートを持つ黒光りする新幹線を観て、あの事件を思い出した。2008年6月8日、加藤智大(25歳)が休日で賑わう秋葉原の交差点にトラックで突っ込み、さらにダガーナイフで次々に歩行者を切り裂いた事件だ。オタクの聖地に行き、そこに集まる人々を惨殺した。死者7名、負傷者10名。現場は血の海だった。加藤は静岡から何度も秋葉原に遊びに来ていた。アニメ『エヴァンゲリオン』のファンでもあった。

 

 批評家の東浩紀は事件数日後、『絶望を映す身勝手な「テロ」』という文章を朝日新聞に寄稿している。犯人は社会全体に対する絶望や怒りを持ちながらも、それを大人の言葉にすることができなかった。政治的主張のない身勝手で「幼稚なテロリスト」はこれからも不可避的に生み出されると語っている。

 

 中島岳史著『秋葉原事件』は、加藤がどのような人物であったかを取材し書いている。加藤は、くんちゃんのようにわがまま放題だったわけではない。自立して一生懸命働こうとしたが、うまく行かなかった。職場で理不尽な目に遭うと、いきなり辞職という形をとった。事件を起こした理由も、ネット上に出現した「なりすまし」によって、自分の存在が脅かされたことに激怒したからだ。その怒りを理解してもらうために事件を起こすとネット上に書き込み、そして、実行した。

 

 

 既に書いたように、映画でくんちゃんは気に入らないことがある度に泣き叫び、「虚構」に逃げ込んだ。その終着点は以下のようなものだ。くんちゃんは未来の東京駅で迷子になり駅員に両親の名前を聞かれるが、答えられず、呼び出すこともできない。

 

 駅員:ここはとても大きな駅です。毎日毎日あなたのようにたくさんの迷子がやってきます。もし誰も迎えに来なかった場合、その子たちは穴の中にある特別な新幹線に乗らなければなりません。

 くんちゃん:乗るとどこに行くの?

 駅員:行き場所のない子供の行き先は、ひとりぼっちの国です。

 くんちゃん:(口を大きく開けて恐怖に引きつる顔)あっ、あっ、あっ・・・

 アナウンス:新幹線、間も無く到着します。

 (地下奥深くに場面が変わり、怪しく黒光りする新幹線が入ってくる)

 アナウンス:乗車できます。(引きずり込まれるくんちゃん)

 

 くんちゃんは恐怖に慄きなんとか新幹線から逃げ出した。しかし、今度はミライちゃんが新幹線に乗り込もうとしていた。くんちゃんは慌ててミライちゃんを抱きかかえて危機を免れる。そして、「くんちゃんは、ミライちゃんのお兄ちゃん!」と叫ぶのだ。くんちゃんの「暴走」はギリギリで回避された。ネット上の匿名空間に居続けると「ひとりぼっちの国」に行くことになる。だが、お母さんの言いつけ「ミライちゃんを守ってね」を忠実にこなしたことで、くんちゃん自身も救われる。ミライちゃんのお兄ちゃんと宣言したことで、中学生のミライちゃんが助けに来てくれた。元の世界に生還できたのだ。

 

 しかし、これはどう解釈すればいいのだろう? 細田の言いたかったことは「お母さんの言いつけを守ろう!」なのか? それを言うために、これだけの映画を撮ったと言うのだろうか? 

 

 

シン・まごころを君に

 恐らく、細田はこれまでのファン層だけでなく、子供やその両親に向けて映画を撮ろうとしたのだろう。だから、くんちゃんは4歳児でありながら、映画を観るアニメファンを演じてもいたのだ。子供たちに向けてはお母さんの言いつけを守ろうという教訓を与え、その親の世代には自分の子供時代を思い出せと呼び掛け、さらにアニメファンに向けては、ネット空間で欲望のままに生きていると、いずれ「暴走」することになると警告を与えた。だが、監督のメッセージはアニメファンにすら届かなかった。ネット上で酷評され、興行成績は細田作品の中で低いものとなった。しかし、そのことでこの映画が否定されることはない。重要なのは「孤独と暴走」について考えることなのだ。

 

 この映画は本当に秋葉原事件と関係しているのだろうか? 犯人の加藤は教育にうるさく虐待も辞さない母親に育てられ、そのことで人間関係をうまく作れない人物になったと裁判で主張している。一方、細田は事件をそのまま描くのではなく、悲しい結末にならない為に、どうするかを描いた。そして、「虚構」と「現実」を行き来することで、くんちゃんがギリギリ踏み止まれたと表現している。母親は自分の子供時代を思い出し、くんちゃんは両親の苦労に気づく。どちらか一方ではなく、「現実」と「虚構(アニメ)」の両方あることが大切だと細田はこの映画を使って伝えようとした。もちろん、この「現実」がどのような物であるかは考えなくてはいけないが。

 

 

 もう一度この映画を見直して欲しい。くんちゃんが泣き叫ぶシーンがキツいと言うのなら、必要なシーンではあるけど、早送りすればいい。そうすることで細田がこの映画で描きたかったことがはっきりとわかる。例えば、それはくんちゃんが自転車を練習するシーンに集約される。かっこ悪くても練習の末に獲得できる技術がある。それは誰もが通る道だ。そのような積み重ねがその後の人生を作る。くんちゃんは自転車に乗ることができるようになり、周りに友達もできた。そして、見守るお父さんにとってもそれは同じだった。父親の役割がどのようなものであるかを実感したのだ。

 

 私は当初、この映画のテーマは「クリエイターVSアニメファン」だと思っていた。秋葉原事件をテーマにしたことはわかったが、ネット上で欲望のままに振る舞うオタクたちを攻撃したように見えたのだ。かつて庵野秀明エヴァンゲリオン 劇場版』でしたようにだ。しかし、それは間違いだった。『未来のミライ』はアニメファンに対する愛情で作られていた。お父さんのように君たちを見守っている。一緒にアニメを語ろう、技術を習得して一緒にアニメをつくろうと呼びかけている。「シン・まごころを、君に」がこの映画のテーマだ。細田守監督はアニメファンが「孤独」に陥り「暴走」するのを食い止めたいと願っていた。(追記:1)

 

予告。第2章は『エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』と映画『風の谷のナウシカ』の関係について書いている。

 

*1:京アニ事件をどう受け止めていいかわからなかった2019年末、2020年1月に開催される文学フリマ京都に出品する作品として、今回取り上げたアニメ映画の読解を書いた。その中から「孤独と暴走」というテーマが見つかり、現実の事件との関連を読み解く今回の文章を書いた。

 

追記1:2021年7月16日、細田守監督の映画「竜とそばかすの姫」が公開された。絵柄の美しさやサウンドの質感には、体験するだけの価値を感じたが、ストーリー的には残念な出来と言うしかない。「世界の細田」を演出するための仕掛けを重視するあまり、ストーリーは二の次になったのではないか。本作でも「孤独と暴走」は描かれたが、描けばいいというものではない。本作の興行的成功を受けての次回作に期待。

もう一つ。『未来のミライ』の黒い新幹線がエヴァなんだけど、今回の『竜とそばかすの姫』にもウルトラマンが悪い方の雑魚キャラみたいな感じで使われてたよね?