ハノイの日本人

アイドル、ジャニーズ、サッカーなど。

アニメ映画は繰り返し「孤独と暴走」を描く。2

 

第2章エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に

 

 

  

1996年、エヴァブーム起こる。

 この映画を観ていないアニメファンはかなり増えている。オウム地下鉄サリン事件から半年が経過した1995年10月、庵野秀明監督『新世紀エヴァンゲリオン』は、テレビ東京系で放送開始。当初は一部熱狂的アニメファンに支持されたものの、視聴率を取れていたわけではなかった。だが、25話、26話が放送に間に合わず、絵コンテさながらの映像がそのまま流れたことで注目を集める。まだインターネットは一般に普及していなかったが、口コミで話題は広がり翌年の再放送では高視聴率を記録。社会現象とも言えるその人気に応えて劇場版が制作された。

 

エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』は、テレビ版の25話と26話を作り直したと説明されているが、それらとは違った内容になっている。その2つの作品が併せて上映された。まず25話『Air』は特務機関NERVがエヴァンゲリオンの活躍で謎の敵、使徒を殲滅した後の話だ。エヴァパイロットであるシンジとアスカは、闘いの後遺症に苦しんでいた。NERVの上部組織ゼーレはNERVを攻撃しサード・インパクトを引き起こそうとする。第26話『まごころを、君に』では、エヴァ初号機を使ってサードインパクトが引き起こされる。何もできずに苦しむシンジ。一方、綾波はゲンドウの指示に逆らい、巨大化してシンジを助けにいく(*2)。

 

 サード・インパクトとは? テレビ版の舞台は、未曾有の大災害セカンド・インパクトが起きた後の世界、世界の人口の半数が失われた後の第3東京市だった。核戦争後の世界を想像した視聴者が多かった。なのでサード・インパクトも第三次世界大戦のようなものだろうと想像した。しかし、劇場版では様子が違う。

 

 劇場版でのサード・インパクトは、それによって人間それぞれを隔てる壁がなくなり、一つになることだった。地球にリセットをかけるのだ。地球上には生物が生まれる前の生命の源の海が広がる。そこで人類の行末はシンジの選択に委ねられた。生命の源の海に戻り、すべてが一つになる世界。もしくは、一人一人が人格を持ち、他人への恐怖を持つこれまでと同じ世界。そのどちらをシンジは選ぶのか? 

 

 

   綾波:他人の存在を今一度望めば

      再び心の壁がすべての人々を引き離すわ

      また他人の恐怖が始まるのよ

  シンジ:いいんだ

 

 辛い現実が待っているとしても、シンジは1人の人間になることを望んだ。そして、心の中にいる母に別れを告げる。では、人と人を隔てる壁がなくなり一つになるとは何を意味するのか? 逆にそれは、欲望のままに生きる視聴者の群れを意味した。エヴァはエネルギーがゼロになると暴走したが、それは理性がゼロになった状態であり、敵を貪り食った。庵野には視聴者がそのように見えたのだろう。実際にファンから攻撃を受けた。そして、劇場版では視聴者を攻撃したのだ。理解してもらえない「孤独」とそれに起因する「暴走」は、映画の外でも起こっていた。

 

 実は、前章で書いた秋葉原事件においても、「孤独」はキーワードとなっている。評論家の芹沢俊介精神科医高岡健の共著『「孤独」から考える秋葉原無差別殺傷事件』(2011年、批評社)は、犯人の加藤が事件を起こす3日前にネット上に書き込んだ一文を起点にして、事件を理解しようと試みる。

 

 人と関わりすぎると怨恨で殺すし、

 孤独だと無差別に殺すし難しいね。

 

「誰でもよかった」なんかわかる気がする

 

 加藤には、言語以前のコミュニケーションに対する願望があったのではないか。精神科医ウィニコットが絶対的依存と呼ぶ時期に、母親から得られなかった母性的没頭体験を彼は求め続けていたと二人は考える。事件にしてもそうだが、言葉によってではなく、行動を見て理解してもらおうとしてきたからだ。また「孤独」については、フロイトの「寄る辺なさ」から「死の欲動」についても語られる。充実した本ではあるのだが、最後になって違和感を感じた。

 

 二人は、新自由主義の結果として労働が過酷であり、しかも頑張ったところで幸せになれるわけでもないことに触れながら、それでもそのことが秋葉原事件の重要な動因ではないと語る。そこで受けた疎外、「孤独」が「無差別」という言葉には繋がらないと言うのだ。つまり「社会」のせいではないと結論している。

 

 しかし、加藤の母親が社会学者の宮台真司が言う「学校化」という言葉で語れる人物であるなら、加藤の「寄る辺なさ」も新自由主義とつながるのではないか? 宮台は藤井誠二との共著である『「脱社会化」と少年犯罪』(2001年、創出版)において、1997年に起きた神戸の酒鬼薔薇事件がどのような事件であったかをまとめている。宮台が注目したのは、酒鬼薔薇がした、少年の首を切り落とし校門に置くという凶行に対して、かっこいいと共感する中学生が少なからずいたことだった。事件には「コミュニケーションによる達成自体を信じることをやめてしまおう」というメッセージがあった。私たちは通常、尊厳を「社会」と関連づけている。コミュニケーションによって何かを達成しようとするのだが、「脱社会的」な人間はその意欲を持たない。その意味で、「脱社会的」な人間は、人とモノとの区別がつかない。殺人も可能だと解説する。

 

 動機不明な殺人事件について、動機をあれこれ考えるのは無意味だと宮台は言う。それよりも殺人を起こす敷居がなぜかくも低くなったのか? それを学問的に問う必要があると語るのだ。「脱社会化」した存在がなぜ生まれるのか? 大きく原因は二つあるが、特に「日本的学校化」が問題だと指摘する。成績が良いか悪いかなど、学校的価値観が家庭や地域にも浸透した社会。子供たちは逃げ場を失い、「社会」の「外」に尊厳を築く。

 

 

人類補完計画とは何か?

 エヴァに話を戻す。この映画で一番残酷な描写は、増産されたエヴァンゲリオンエヴァシリーズ9体が、アスカの乗るエヴァ弐号機を寄ってかかって貪り食うシーンだろう。シンジはエヴァ初号機に乗ることも出来ず助けることができない。登場人物を現実に当てはめてみる。

 

    ゼーレ:製作委員会、出資会社

    NERV:GAINAX

  碇ゲンドウ庵野秀明

    碇ユイ庵野が愛した作品(ゴジラウルトラマンなど)

   碇シンジ:アニメを観てる男性視聴者(シンクロ率高い)

    アスカ:シンジと同世代の異性(シンクロ率低い)/「現実」の少女

     綾波碇ユイのコピー / 架空の存在(庵野作品に登場する少女)

    ミサト:声優(サービスするお姉さん)

エヴァシリーズ:マンガ版、派生商品、パチンコ・エヴァンゲリオンなど

 

 エヴァシリーズは何を意味するか? 恐らく、大ブームになったエヴァを製作委員会が儲けの道具にしたのだろう。極め付けはパチンコ台になったことだ。エヴァはボロボロになるまで食い尽くされた。欲望のままに作品を貪り食った出資者、消費の快楽に浸り切った視聴者。庵野は自らの怒りを理解させるために、この映画を撮るしかなかった。

 

 この映画は冒頭から普通ではなかった。戦いに傷つき病院のベッドで眠る痛ましいアスカに、シンジは助けを求め、身体を揺り動かす。そして、アスカの裸を観てしまう。シンジはそれを観てオナニーをするのだ。視聴者がエヴァの女性キャラクターをどのように扱ったかを監督は描写している。そして、再びラストでも二人のシーンが繰り返される。

 

 映画のラストで、お母さん(綾波)は旦那(ゲンドウ)を捨てて、息子(シンジ)のところに行ってしまう。亡き母(特撮、アニメ)への過剰な思い入れを持つシンジは、容赦ない同年齢の異性の冷たい態度(寝たふり)にキレて「暴走」する。アスカの首を絞めるのだ。ところが、それに対してなぜかアスカは、シンジの頬を撫でて見せる。シンジは受け入れてもらえたと勘違いしたのだろうか? 首を絞める手を緩め泣き出すのだ。アスカが冷たく言い放つ「気持ち悪い」。シンジは完全に見透かされていた。終わり。これが庵野が示した「まごころ」だったのか? 絶望しかない。

 

 人から愛されることなどないと考えるオタク少年の孤独。当時は現在と違ってオタクの存在はマイノリティと言ってよかった。「オタク少年の孤独をどう満たすか?」という問いこそがこのアニメシリーズの起点だった。それこそが「人類補完計画」だと私は考える。ロボット、美少女、導いてくれるセクシーな年上の女性。およそオタク男性の欲しがるものは全て詰め込んだ(サービス、サービス)。男性視聴者と庵野監督とのシンクロ率は高いはずだった。しかし、ネット上で酷評され、それは幻想だったと気づく。庵野の怒りは頂点に達した。地球上に二人きりになったとしても、お前たちは愛してもらえない。試写会に来たファンの姿をスクリーンに映し出した。ファンはショックを受けた。めちゃくちゃだ。

 

 

 

 

映画『風の谷のナウシカ』が描いたもの。

 アニメ『エヴァンゲリオン』の起点には「オタク少年の孤独をどう満たすか?」というテーマが存在すると書いた。その問いには、ある名作アニメの存在が関係している。宮崎駿監督の映画『風の谷のナウシカ』(1984年)には、庵野秀明もアニメーターとして参加していた。

 

 批評家で当時まんが雑誌編集者だった大塚英志は、自著『「まんが」の構造』(1987年、弓立社)において、雑誌『アニメージュ』(84年6月号)での宮崎駿と、同じくアニメ監督である押井守の対談を取り上げている。押井はその中で宮崎作品の問題点を指摘した。それは80年代に入り、学校でのいじめが陰湿化し不登校(引きこもり)が増えたことが背景にある。子供たちにとって学校は既に、安心して過ごせる居場所ではなかった。宮崎はその子らに向けて励ます作品を作ったのだ。しかし、押井は宮崎作品が完成度の高さ故に「擬似体験として完結」することを問題視した。その問題意識を受け、大塚は少年たちが『「現実」への途を取り戻すために、「居心地の良い作品世界をいかに破綻させていくか』を考える必要があると書いた。

 

 それに呼応するように、庵野も映画『風の谷のナウシカ』で問題視したことがあった。ナウシカ王蟲のような不気味な生物であっても、分け隔てなく愛情を注ぐ聖なる少女だったことだ。人間が汚した大地を腐海の森は浄化している。その森を守っているのが王蟲だった。ナウシカはそのことを理解していた。だが、仲間が攻撃を受けた(いじめにあった)ことで、王蟲は怒りに我を忘れて暴走する。そして、暴走を止めようと身を投げ出したナウシカを殺してしまうのだ。エヴァの暴走の前には、王蟲の暴走があった。

 

 漫画家の山田玲司は、無料で観れるYoutube動画『山田玲司ヤングサンデー』において、この映画を取り上げている。そこでは王蟲を、1週間風呂にも入らず作業をする当時の漫画家やアニメーターのことだと語る。つまり、宮崎が、自らが理解されないことの「孤独と暴走」を既に作品化していたわけだ。しかし、「現実」には不潔なオタクたちの「孤独」を救ってくれる少女は存在しない。そのことを庵野は『エヴァンゲリオン』で描いた。それが「あんた、バカぁ?」が口癖のアスカだ。「現実」と向き合うアニメを制作したのだ。

 

 それにしても、私たちの「現実」は至るところで崩壊の過程にあるように見える。大澤真幸著『不可能性の時代』(2008年、岩波新書)は、「リスク社会」という概念を基に今の時代を考える。「格差社会」において現状の格差よりも問題であるのは、その解消の可能性が将来においても見えないことだと指摘する。希望を持つことの「不可能性」について考えた。1995年の地下鉄サリン事件を境にして、それ以降の現在は「不可能性の時代」(*3)と名付けている。そして、その言葉の本質が何かを考える。

 

〈不可能性〉とは、〈他者〉のことではないか。人は、〈他者〉を求めている。と同時に、〈他者〉と関係することができず、〈他者〉を恐れてもいる。求められると同時に、禁忌もされているこの〈他者〉こそ、〈不可能性〉の本態ではないだろうか。

 

 これを読んで『エヴァンゲリオン劇場版』でのシンジとアスカの関係を思い出しはしないだろうか? それだけではない。この〈不可能生〉には心当たりがある。アイドルだ。人々は「私」を攻撃しない〈他者〉としてアイドルを欲望したのだろう。とにかく、エヴァは「不可能性の時代」の到来を告げる映画だった。その後、庵野の怒りも「冷却」され、視聴者を放り出したままではマズいと考えたのだろう。2007年からリメイクされた『エヴァンゲリヲン新劇場版』4部作が順次公開されている。最終の4本目『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は既に完成しており、2021年中に公開予定だ(追記2)。シンジは〈他者〉アスカとどう向き合うのだろうか?

 

 

*2:吉本隆明大塚英志による対談本『だいたいで、いいじゃない。』(2000年、文藝春秋)には、大塚によるエヴァ解説がある。一部私の読解と重なる部分があるのを見つけた。これは大塚の代表作『物語消費論』を何度も読んできた私のシンクロ率が上がったためだろう。

 

*3:社会学者の見田宗介は、現実を意味づける反現実によって、戦後を3つに分けた。大澤はそれを発展させ、1945年から1970年までを「理想と現実」から「理想の時代」。1970年から1995年までを「虚構と現実」から「虚構の時代」と名付けた。「理想の時代」の極点は大阪万博で、「虚構の時代」の極点は地下鉄サリン事件だ。

 

追記2:2021年3月7日、庵野秀明総監督の映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開された。この作品で明かされた一番重要なことは、アスカがクローンだったことだ。新劇場版で彼女の名前が変更された理由もそれ故だった。シンジはアスカと話し合い、お互いに向き合うことが出来た。それはいいシーンだったが、これでいいのか? とは言え、庵野秀明は大人としての責任を最後まで果たした。とても立派なことだと思う。興収は100億円を突破した。