吉本隆明『共同幻想論』を読もう。この前、そんな話を書きました。家で前に買った本を見つけた。前よりは頭に入ってくるけど、やはりピンと来ない。そこで宮台真司さんが荒野塾の相棒の阪田晃一さんを聞き手に、解説されてる動画を見ました。ヤバいです。なぜ私たちが生きる力を失ったかが語られています。
久しぶりに文字化します。怪しいところは、動画を見てください。ちなみに、文字化した部分は導入部で、そこから有料で映画批評の話をされています。概要欄から課金して観れます。私は別のとこで課金したのですが、例の如く wifi 状況が悪く、くるくる回って観れてません。どこかで観ます。
宮台:(バタイユは失恋を契機にして、真の全体性について語った。それをバタイユの言葉で説明するのは難しいから、吉本隆明の言葉を借りて説明すると)真の全体性は、対幻想である。
対幻想の中核は、恋愛、性愛、家族愛、友愛みたいなものですが、「あなたのためなら死ねる」「あなたのために生きている」というこの構え、最も重要な人々の動機づけが、仲間のために生きるということーーであるような領域が対幻想。
それに対して「あなたはどこに所属してるんですか?」「SONY です」「日本です」。所属を問題にするときに使われる、あるとされてる「SONY」とか「日本」、「SONY をここに出せ」とか「日本をここに出せ」と言われても出せない。ただの主語表象なんですね。みんながあると言うから、ある前提で振る舞うと前に進める。主語表象って基本的にすべて共同幻想に関わるものに過ぎません。
それに対して、フロイトが問題にしているような、self=自己像 を維持するために艱難辛苦(かんなんしんく)するメカニズム=自我。=ego。この世界、つまり自己像を守るべく奮闘してる自我、これが自己幻想と言われていて。バタイユも吉本も・・・そう、吉本はバタイユを知らなかったんだよね。偶然に同じことを言うことになった。
まず、はじめに対幻想ありき。これはのちに人類学が実証するような展開、つまり、遊動(floating stage)において、我々は遊動ではダンバー数(人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限、150人)以下の小集団で移動していて、そこではリネージと言いますが、リアル血縁以外の者はいなかった。だから対幻想オンリーです。
その遊動する集団をバンドと呼びます。ロックバンドのバンドです。しかし定住をすると、直ちにバンドの連合が生じて、クラン、氏族ができます。氏族というのは共通の母、原母(オリジナル・マザー)を持つ集まりです。
従ってクランは規模が、遊動で150人だったのが500人くらいになって、3倍3倍で増えるんですけど。まず500人になり、1500人になり、5000人になりというふうにして、増えて行きます。もちろんリネージではあり得ないでしょ? 記憶力の限界を超えている。だからそこでは虚構血縁、これはトーテミズムです。それが使われるんです。
『共同幻想論』を読むのは、バタイユを読むより難しいので、どういうことが書いてあるか言いますけど、最初は対幻想ありき。しかし定住集団で規模が拡大したときに、対幻想を利用するような形で、共同幻想を打ち立てた。これが虚構血縁です。
虚構血縁に支えられた我々意識、ということになります。つまり、共同幻想の出発点は、対幻想と共同幻想を同値できるような存在が出てきて、人々を動員して行った、誘導して行った。というのが、吉本の考えです。
ところで、共同幻想ができると、対幻想よりもこしらえ物の度合いが高い。あるいは、吉本の言葉だと、疎外の度合いが高い。不自然の度合いが高い。なので反問や葛藤する回路、サーキットが生じる。それが自己幻想。
だから最初は対幻想ありき。そして、そのあと共同幻想が、対幻想の拡張として出来上がると同時に、ポン!(手と手を上下に分離)と、自己幻想ができるんだというのが、吉本の図式ですけど。バタイユはほぼ同じことを考えている。
どういうことかと言うと、、僕はバタイユの影響を受けていますから、、、最初は性愛の領域しかなかった。ただこれは、セックスのことだけを意味してなくて、家族的なもの、友愛的なものも含めて全部です。
ところがそこに、法ですね、まあリーガルなものが出てきた。あるいはドイツ語だったら Recht Haben 法生活が生まれたんです。法生活する領域が社会です。つまり、言葉で語られた法に「罰が怖くて従いまーす」みたいなことです。
当たり前のことですけど、性愛とは異質な時空。性愛の時空しかなかったとこに、もう少し言うと、エロスの時空しかなかったとこに、社会の時空というのが生まれて、両方が交わらないで、共通するものがまったくないという状態になります。これがバタイユの考えです。
ところがこのあとですね、私たちの軸足が、重心が、性愛の時空から、社会の時空、法生活の時空に移ったときに、性愛の時空がノイズ、過剰、不可解、不条理、理不尽、というように観念されるようになるんです。
ところがそれだけで終わったらいいんだけど、ちょっとプラトン的な発想とも言えるんだけど、吉本にもそれはある。対幻想というのは吉本の言葉で語るとわかりやすい。
対幻想というのは疎外の克服なんです。どういうことか? まず我々は誕生して、生存する。吉本に言わせると、これは疎外なんです。エントロピーが低い状態を、摂食、食ったり、捕食されないように逃げたり、つがいの相手を見つけて生殖をするための、オス同士の戦いをしたりであるとか。もう安らかにお眠りくださいとでも言うべき、大変な状態に置かれている。これを彼は原生的疎外と呼んでいる。
共同幻想の誕生と同時に自己幻想が生まれる。そうすると self=自己 を維持するために、ego の働きとして艱難辛苦、大変な自己防衛のためのコストを払うようになる。これも不自然な疎外。これを純粋疎外と言う。
簡単に言うと、人は生存という不自然のために、土に還りたいと願う存在であり、まったく同じように、人々は自己を守るというような不自然もなかったから、自己以前=母の胎内に還りたいと思うのであると。
従って、人間は本源的に、全体主義的である。従って「制度としての民主主義にコミットしまーす」と言う奴は、吉本の言い方で「反省したい奴は、たんと反省すればいい」。つまり「バカは死ぬまでやってろ」「民主主義を名乗るやつの党派的な全体主義に淫している姿をいま見ているところだぜ」というのが、吉本の発想。これは本当に驚くべきことに、バタイユとまったく同じ発想でね。
我々はいつの間にか社会の時空を生きていて、そっちがノーマルで、性愛がアブノーマル、あるいは非日常と認識することになっていることが疎外で。性愛的、あなたのために生きるという世界に、戻ろうとするんです。そのオリエンテーション、あるいは、戻ろうとする遅効性(?)をエロスと呼んでいるんです。
なぜこれがプラトン的かと言うと、神話的な世界ではひとつだったものが、世俗の世界でなぜか二つに分かれてしまっている。それが不自然だから、元に戻りたいと思うことが恋愛なんだよ。それがプラトンの発想なんです。
それは本源的なるものの全体性に、再び回帰するものである。この図式自体が、最初プラトンなんですけど。バタイユが『呪われた部分』での、普遍経済学の試みで、それを非常に鮮やかに展開した上で、なんと、それを社会進化と結びつけて行く議論、経済と結びつけて行く議論をする。
結局、性愛から社会に軸足が移ることで、贈与よりも交換が主軸になった。贈与は見方によっては剥奪なんですよ。例えばね「なんであんな男のために人生を犠牲にするの、あなた!」。本人は贈与。それを見たお母さんは「剥奪されてる!」。だから贈与は剥奪でもあるんですね。
そういうものは不健全だから、等価交換。贈与優位の実存から、交換優位の実存に移ったことで、我々はこんなに生きる力を、生きたいという気持ちを、平たい言葉で言うと、生きていてよかったという気持ちを、あるいは、人に本当に必要とされている、大黒柱、金づるとして必要とされている、知恵袋として必要とされてる、お寺のお坊さんとも違う、あなたでなければ・・・
阪田:交換不可能な存在としてそこにいる。
宮台:そう。ということで、バタイユの発想と吉本の発想って、すごく近いですねということです。
(以上、文字化終了)
どうですか? ヤバいこと書いてありますね。だって具体的な事件を考えたらどうなるか? 例えば藤島景子はどう考えたって、贈与ってタイプじゃないでしょう。コスト意識を持てとか言いそうなタイプですよね。ジャニーズファンは贈与かもしれないけど。虚構血縁なのか。
いやいや無理だ。いまも苦しんでる被害者がいる。擁護なんてできない。どちらかと言うと、本格的に攻撃したいくらいだ。でも私がジャニーズをさんざん楽しんだ事実も消えない。本当に困った。