ハノイの日本人

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ジャニーズの教科書。第1章「トップグループ制」①

ジャニーズの本をずっと書いていました。だいたい書き上がったのですが、出版してくれるところがありません。電子書籍にしても売れないので、第1章をネット上に公開することにしました。なにかと見下されがちなジャニーズですが、この文章を読めばその認識も変わって来るのではないでしょうか? 女子アイドルのクリエイターの人たちも、ぜひ読んでください。毎週月曜日に更新します。



◉はじめに。

2012年4月、ジャニーズ事務所は50周年を迎えた。1995年からは日本芸能界最大の売上を記録し、現在もトップを維持し続けている芸能事務所だ。本書ではジャニーズがどのようにして数々のスターを輩出したかを分析し、それを可能にした戦略について解説して行く。ジャニーズとは、どこにでもいる普通の少年が、ジャニー喜多川という天才に見出され、試練の果てにスターになるという成長の物語だ。私はそのような視点で、ジャニーズ作品を読み解いた。


そして、少年から大人への物語をCD、レコードで表現するグループがその時代に1つだけあることに気づいた。その物語は先輩グループから次世代のグループへとバトンのように受け渡されて行く。そのバトンを持った者をトップグループ、もしくは単にトップと呼ぶことにする。繰り返される光と影のループ。以下、50年間にトップに立ったタレント、グループだ。


ジャニーズ事務所の歴代トップグループ
  初代トップ:ジャニーズ
 第2代トップ:フォーリーブス
 第3代トップ:郷ひろみ
 第4代トップ: Johnny’s ジュニア・スペシャル(JJS)
 第5代トップ:川崎麻世
 第6代トップ:近藤真彦(一時期、田原俊彦と2トップ)
 第7代トップ:光GENJI
 第8代トップ: SMAP(少年から大人への物語を一時期 KinKi Kids が受け継ぐ)
 第9代トップ:嵐(少年から大人への物語を Hey! Say! JUMP が受け継ぐ)


なぜ、数ある同年代のグループの中で、意図的に別格のグループをつくる必要があるのだろう? 特別なグループが存在することで、それを切り札にして、テレビ、雑誌など、マスメディアとの交渉を優位に進めることを可能にして来た。SMAP や 嵐 を見れば、そのことは理解してもらえるだろう。


現在のトップは嵐だ。圧倒的な集客力を持つ嵐の存在により、事務所の他のグループのメディア露出も容易になる。トップはジャニーズの主要ファン層である女子に捧げられたものだ。その時代にどのようなグループが求められているかを考え、戦略的に用意された存在となっている。


本書は全5章からなるジャニーズの物語である。第1章では事務所の歴史を駆け足で説明し、その後1999年にスタートした SMAP と 嵐 のトップ交代を解説することで現在の状況を把握してもらおうと思う。そして、最後には嵐の主要シングルを紹介する。そこには嵐が「少年から大人へ」成長する姿とともに「英雄物語」の構造も導入されていた。嵐のシングル曲における一連の歌詞はひとつのストーリーとなっているのだ。ライバルとして語られることも多い SMAP と 嵐 だが、著者が解読したストーリーにおいては、親子関係だった。SMAP と 嵐は「父」と「子」の関係だった。信じてもらえるだろうか?


ちなみに、女子アイドルのグループでは、80年代後半のおニャン子クラブに始まり90年代後半のモーニング娘。で完成した「卒業」がある。年齢が高くなったメンバーが引退、もしくは女優やモデルなど別分野の活動に移行し、グループには新たなメンバーが補充される。それによりグループの若返りを図るシステムだ。一方、ジャニーズのトップグループ制は、トップ交代によりジャニーズ全体のイメージを若返らせるものだ。トップが下の世代になることで、若いファン層を獲得して行く。そして、メンバー全員が30代になった嵐から、20代の Hey! Say! JUMP へと、現在トップ交代が進行中である。


ジャニーズ事務所の黎明期

ジャニーズ事務所の最初のグループは、中高生男子4人のグループ、ジャニーズである。そのメンバーを選び、プロデュースして来たのが現在のジャニーズ事務所社長、ジャニー喜多川(2015年4月現在、83歳)だ。彼は日系2世としてアメリカ・ロサンゼルスで生まれており、朝鮮戦争にも徴兵により従軍している(週刊文春2011年1月13日号より)。


朝鮮戦争が終わると、ジャニーは日本に生活の場を移しアメリカ大使館で勤務する。代々木の在日米軍宿舎ワシントンハイツに住み、その敷地で少年野球チームをスタートさせている。ジャニーズとは、もともとジャニーがコーチをしていた野球チームの名前であった。


1962年1月、ジャニーはチームの少年たちを連れ、当時話題になっていたミュージカル映画『ウエストサイド物語』に出掛ける。そして、その映画に感動した少年たちがミュージカルをやりたいと言い出した、というのが伝えられているストーリーだ。同年4月、そのメンバーからキャラクターの違う4人をピックアップし、ジャニーズが結成される(以降、このグループを初代ジャニーズと呼ぶ)。


当初ジャニーは、アイドルの育成ではなく、最先端のエンターテイメント、ミュージカルを演じるタレントの育成を目標としていた。初代ジャニーズの活動初期には、当時芸能界を制覇していた渡辺プロダクションにブッキングを委託しており、それによってテレビや日劇のような大きなステージに立つことが可能となった。この時代、歌と踊りは完全に分業であったため、彼らのように本格的に歌って踊れるタレントは存在しなかった。その希少性もあり、初代ジャニーズはレコードデビュー前からレギュラー出演番組を次々に獲得している。


1965年には渡辺プロから独立、タレント育成とプロデュースをジャニーが、マネージメントを実姉のメリーが担当し、ジャニーズ事務所の基本となる体制が整う(法人登記は1975年)。


初代ジャニーズがそこそこの成功を手に入れ、しかし、1967年末には早くも解散してしまう。そして、入れ替わるように4人組グループ、フォーリーブスがデビューする。さらに、3年後に事務所の転機が訪れる。天性のスター郷ひろみの登場である。この大成功によりジャニーズ事務所は美少年アイドルに特化した芸能事務所となって行く。(つづく)