ハノイの日本人

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ジャニーズの教科書。第2章「硝子の少年」③

80年代ジャニーズのシンボル「ガラスの少年」の物語。3回目。



◉ジャニーズの教科書。第2章「硝子の少年」①〜②
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20150406/1428325419
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20150413/1428932089



松本隆はなぜ光GENJIを嫌ったのか?
『硝子の少年』の原点を1977年に発売された原田真二のシングル『てぃーんず ぶるーす』の中に見つけた。しかし、ここで考えなければならないことがある。KinKi Kids『硝子の少年』はジャニーズの歴史を踏まえて制作されたと書いたが、一般的には光GENJIガラスの十代』(1987年)を連想させたのではなかっただろうか? 私自身も当時『硝子の少年』を聴いて、ジャニーズの過去と繋がるなにかを強く感じていた。


 ♪ 壊れそうな物ばかり集めてしまうよ
   輝きは飾りじゃないガラスの十代


この2行の歌詞は、多くの人々の記憶に光GENJI の印象とともに刻まれていることだろう。『ガラスの十代』は作詞、作曲を飛鳥涼が手掛けている。ファースト・アルバムも含めて、まだ本格ブレイク前だったCHAGEASKAの2人が楽曲を提供をしている。なぜ、ロックアーチストである2人に、楽曲依頼がされたのだろう?


光GENJIガラスの十代』(2ndシングル、1987.11、PC)
   作詞:飛鳥涼、作曲:飛鳥涼、編曲:佐藤準
→壊れそうなものばかり集めてしまうよ。光GENJIを社会現象にした名曲。


松本も間違いなく『ガラスの十代』を意識して『硝子の少年』の歌詞を書いたはずだ。なのに、詳しく『硝子の少年』について語ったインタビューでも、そのことについてまったく触れていない。もしかしたら、松本は『ガラスの十代』について、快く思っていなかったのではないか?


なぜなら、『ガラスの十代』というタイトルはあまりにも直接的だからだ。もちろん、アイドルソングとして、それは間違ったことではない。しかし、松本の美意識からすると、受け入れ難いものであったのではないか? だが、光GENJIおニャン子クラブと入れ替わるようにポニーキャニオンからデビューしたことを考えると、そのすべてを飛鳥涼のせいにするのは可哀想な気もする。露悪的なまでに裏側をバラして行くことは、おニャン子クラブの作詞を手掛けた秋元康の代表的な手法であるからだ。そういう時代だったというエクスキューズもあるだろう。


また、「こわれやすさ」を表す「ガラス」という表現は、なにも『ガラスの十代』で始まったわけではない。例えば、代表的なもので1980年10月に発売された佐野元春の『ガラスのジェネレーション』というシングルがある。また、80年代に人気を博した美内すずえのマンガ『ガラスの仮面』にも「わたし達はガラスのようにもろくてこわれやすい仮面をかぶって演技しているんだ」(第9巻、1977年)というセリフが登場している。


松本が『スニーカーぶる〜す』の元となった作品と語った、原田真二の『てぃーんず ぶるーす』は1977年の作品だった。(原田は大学生だったが)少年の純粋さと繊細さを歌った歌詞は、他に見られないものだったはずだ。もしかしたら、フォーライフ・レコードから原田がデビューするので、その会社の設立者の一人である井上陽水の少年版というコンセプトで歌詞が書かれたかもしれないが。また、松本の代表的な仕事となる松田聖子の作品では、1983年の『ガラスの林檎』もある。これなどは「こわれやすいほど繊細な心」をそのまま表現したタイトルと言えるだろう。


これらの事実を並べて見ると、松本が「ガラスの少年というテーマで最初に歌詞を書いたのは自分である」という自負を持っていたとしても、なんら不思議ではない。実際にそうなのだ。それ故に『ガラスの十代』を快く思っていなかった可能性もあるのだ。松本は光GENJIガラスの十代』を快く思っていなかった。その視点でもう一度KinKi Kids『硝子の少年』の歌詞を見てみよう。次の1行に強く引っかかった。


 ♪ 指に光る指輪 そんな小さな石で 未来ごと売り渡す君が悲しい


どうにも意味深な歌詞に思えて来た。私はこの歌詞をひとつずつ分解して考えてみた。そして、以下のような言葉をそれぞれ当てはめた。


 「光る」⇒「光GENJI
 「指輪」=「ダイヤモンド」⇒『Diamondハリケーン
 「君」=「YOU」⇒「ジャニーズ事務所


これは私の深読みに過ぎないのだろうか? この読み方で先の歌詞を翻訳するとこうなる。


 → ジャニーズ事務所は、光GENJIDiamondハリケーン』で未来を売り渡した。


光GENJI の4枚目のシングル『Diamondハリケーン』は、そんなに重要な曲だっただろうか? あまり印象に残っていない。光GENJI の楽曲を聴き直すことにした。


光GENJI のシングル
1枚目 STAR LIGHT(1987年8月) 48.9万枚
2枚目 ガラスの十代(1987年11月) 68.1万枚
3枚目 パラダイス銀河(1988年3月) 88.9万枚
4枚目 Diamondハリケーン(1988年6月) 68.1万枚
5枚目 剣の舞(1988年10月) 60.8万枚
6枚目 地球をさがして(1989年3月) 47.2万枚
7枚目 太陽がいっぱい(1989年7月) 69.3万枚
8枚目 荒野のメガロポリス(1990年2月) 26.4万枚
9枚目 Little Birthday (1990年5月) 23.6万枚
10枚目 CO CO RO(1990年8月) 20.6万枚
11枚目 笑ってよ(1990年11月) 19.2万枚
12枚目 風の中の少年(1991年2月) 16.3万枚
13枚目 奇跡の女神(1991年4月) 14.3万枚
14枚目 WINNING RUN(1991年8月) 14.6万枚


光GENJI のデビューからSMAPがデビューする直前、1991年8月までのシングルリストだ。これを見てまず気づくのは、ミリオンセラーがないことだ。光GENJIの社会現象とも言われたあのブームを思うと、少し不思議な気もする。レコードからCDという過渡期にあった時期なので、その影響もあるだろう。また、1990年に入った途端にガクっと売れなくなったことに気づく。これは簡単な話ではないので、後の章で触れることにする。


光GENJI がデビューした当時、私はまだ高校生だった。なので、彼らの素晴らしさが、まったくわからなかった。正直に言うと「けっ!」って感じだ。無理もない。ローラースケートを履いて歌う。しかも転ける。それなのに女子が熱狂する。「なんやそれ!」と言うのは高校生男子として極めてまっとうな反応だった。


しかし、大学生の頃『CO CO RO』や『笑ってよ』を聴いて光GENJI を好きになった。当時、普及し始めたカラオケBOXでよく歌ったものだ。そして、過去の曲も聴き直して行くなかで、光GENJI の素晴らしさを発見した。もっと、デビューの頃から真剣に観ておけばよかったと後悔したくらいだ。


光GENJI『STAR LIGHT』(1stシングル、1987.8、PC)
   作詞:飛鳥涼、作曲:チャゲ&飛鳥、編曲:佐藤準
→ローラースケートを履いて歌うアイドル登場! デビューから人気沸騰。


松本隆の思考を想像するために、光GENJI の曲を検証する。まず、タイトルを追ってみる。デビュー曲『STAR LIGHT』は星の光、瞬きなので、普通で考えれば微かな光だ。そして、『ガラスの十代』→『パラダイス銀河』→『Diamondハリケーン』と続く。1枚目、2枚目が儚い輝きだったのに比べて、3枚目、4枚目はかなり明るい光になっている。しかも「パラダイス」+「銀河」って。ちょっと、どうなのか? キャバレーの名前のようでもある。光GENJIはこの曲でレコード大賞を受賞している。


歌詞も見てみよう。デビュー曲『STAR LIGHT』では「♪ 夢はFreedom Freedom シャボンのように」という歌詞があった。「自由」を求めているけど、その夢はシャボン玉のようにすぐに割れてしまう儚い夢だ。しかし、3曲目『パラダイス銀河』でその状況は一変する。いきなり、パラダイスが登場するのだ。ディズニーランドやネバーランドのような、子供が大好きな場所をイメージさせる。


つまり『STAR LIGHT』から始まって、早くも目的地に到着してしまったわけだ。光GENJIは自由を獲得した。飛鳥涼なりに「光GENJI の仕事はもう受けない」という表明だったかもしれない。そして、実際に4枚目のシングル『Diamondハリケーン』から別の作家に替わっている。しかし、ネット上の辞書wikipediaには、このときトラブルがあったと書かれていた。


実は、他の作家に交代した件について、詳しく飛鳥涼本人が語っている書籍があった。『10年後の複雑(下)PRIDE CHAGE AND ASKA』(八曜社、1989年)だ。私は角川文庫で発売されたものを中古で入手した。この本、非常に面白い内容となっている。飛鳥涼CHAGE、大学時代からのマネージャー渡辺徹二が、事細かに当時のことを語っているのだ。構成、インタビューは川崎麻世のデビュー曲で作詞を担当した石原信一だった。2、30ページ書き写したいところだが、以下の部分だけ抜粋しておく。まず、渡辺がジャニーさんと初めて会った時の会話。


渡辺:まずうちの山里(ヤマハのディレクター)の方からジャニーさんに「なぜCHAGEASKAなんですか。CHAGEASKAの曲を聞いたことがおありですか」と切り出したんです。(中略)「これからはアーティストも国際化の時代です。そうした時に必要なアーティストは外国のコピーじゃない、東洋や日本を感じさせるオリジナリティーのある人たちです。今はCHAGEASKAしかいません」と言われて、驚きました。(中略)

渡辺:ジャニーさんの方から、実は「光」というグループと「GENJI」というグループをつくるんだと。彼らをレコードデビュー前に、バラバラにそれぞれの歌を歌って出演させておいて、ある日突然テレビ番組の中で合体させる。「光GENJI」としてグループもひとつとなり、曲もひとつとなる。その曲を書いて欲しいと言われたんです。つまり「光」が歌う曲と、「GENJI」が歌う曲と2曲必要なんです。その2曲がいずれひとつになって1曲に合体するんだと。こんなことが出来るのはCHAGEASKAしかいないということなんです。


凄い話だ。光GENJIメンバーの書籍にも、まったく登場していない話だった。当時、CHAGEASKAは大変な時期だったそうだ。レコード会社の移籍、チャゲの結婚、ツアーのバックメンバーとのトラブルなどなど。そして、何よりも、彼らがビッグなグループになれるかどうかの勝負の時だった。それでもこの話を引き受けたのは、プロジェクトの規模の大きさに興味を持ったことと、ジャニー社長の熱意が大きかったと語っている。


渡辺:(前略)グループの編成は楽曲を聞いてから決めるとジャニーさんが言うんですね。もちろん「光」と「GENJI」の候補者はいたんでしょうが、曲に合わなかったらグループそのものを再編成してもかまわないと。


そして、シングル『STAR LIGHT』でデビューした光GENJIは大ブームを巻き起こす。さらに、CHAGEASKAの2人が制作したファースト・アルバムは132万枚も売れた。このアルバムの制作を引き受けた理由もたまらなくいい話だ。


渡辺:「ガラスの十代」の歌入れの時、びっくりしたことがあったんだけど、光GENJIの赤坂君が飛鳥の詞を見て涙ぐんじゃったんですよ。(中略)

飛鳥:その時の出来事に心を動かされて、そのすぐ後彼らのアルバムをCHAGEASKAで作ってくれないかという話があった時、スケジュール的にはかなりきつかったんだけど引き受けてしまった(笑)。


この赤坂晃の話はとても印象的だ。実は、以前から密かに考えていたことがある。「赤坂はジャニー社長にスカウトされて連れて来られた人物ではなかったか?」と。ジャニー社長はホリプロ制作のミュージカル『ピーターパン』に出演していた彼を、ずっと欲しいと思っていたのではないだろうか? それは私の憶測に過ぎないが、デビュー曲『STAR LIGHT』で見せた彼のハイトーン・ボイスはそれほど魅力的なものだった。彼はこの曲を最後に声変わりしている。



さらに、3枚目のシングル『パラダイス銀河』と、問題となった4枚目のシングルについても語られていた。実は、飛鳥は4枚目のシングル用の曲を書いていたのだ。


飛鳥:「ガラスの十代」はマイナーコードの曲だったので、3作目は爆発するような、メジャー展開とメロディーしかないと僕は思っていた。制作側はマイナー系統でビンビンいってくれということだったけど、僕はあえてメジャーバリバリの「パラダイス銀河」を作ったんだよ。当然、制作側の意向とは違った仕上がりになったので、もう1曲作ってくれないかと。それで、正月の3日に作ったのが『あ・き・す・と・ぜ・ね・こ』。


飛鳥はどうしても、メジャー展開の曲で行きたかった。『あ・き・す・と・ぜ・ね・こ』もそうだ。そのタイトルは飛鳥が子供の頃に遊んだ恋占いの名前で、お互いの名前から導きだした数字を、「あ・愛してる」「き・嫌い」「す・好き」・・・に当てはめるというものだ。しかし、ご存知の通り、3枚目のシングルとして発売されたのは、最初に渡した『パラダイス銀河』の方だった。そして、その曲は光GENJI最大のヒットとなる。飛鳥の狙いは大正解だった。


光GENJIパラダイス銀河』(3rdシングル、1988.3、PC)
   作詞:飛鳥涼、作曲:飛鳥涼、編曲:佐藤準
⇒3枚目で初めて明るい曲調に。光GENJI最大のヒット曲に。


『あ・き・す・と・ぜ・ね・こ』も自信作だった。当然、4枚目のシングルになると飛鳥は考えていた。光GENJIが再びこの恋占いの大ブームを起こしてくれると密かに狙っていたのだ。なのに・・・・


飛鳥:ある日ぱっと見たら僕らではない人の作品だったんだよね。ああ、CHAGEASKAの色と違うものを今度は選んだんだなって。僕にもどこまで光GENJIとやれるかなという想いはあったけどね。「パラダイス銀河」があそこまでいっちゃったから、次の作品がきついのも分かっていたし、次作を依頼された作家もさぞや大変だろうなあって思ってたから。
 でも僕の構想の中には次にこれをやらせようというのが、あと2、3はあった。それがいきなり作家が変わっていたから、正直な話をすると、すごく寂しい気持ちはあったよね。(中略)

渡辺:「あ・き・す・と・ぜ・ね・こ」を渡していたんですが、何の連絡もないままいきなり「ダイヤモンド・ハリケーン」が世の中に出た時にはびっくりしました。クレームを入れたところ、ヤマハに出版権を渡したくないということを言われたので、それなら何故ひと言なかったのか疑問に思いましたね。
 ヤマハ所属のアーティストが作家活動を行ったものに関しては、ヤマハがそのレコード作品の出版権を分けていただくことになっているんです。光GENJIに関しても同様に、CHAGEASKAが書いた物ですから3分の1の出版権をいただいていました。それが途中で制作側からヤマハの出版権を外してもらえないかという申し入れがあって、うちの著作権課の上司と相談した結果、出版権を放棄した形でヤマハのアーティスト、つまりCHAGEASKAを作家として出すわけにはいかなくなったのです。これはヤマハ側の正式コメントとして制作側に言わざるをえませんでした。


CHAGEASKAの2人の元には、また光GENJIに曲を書いてくださいというファンからの手紙が殺到したそうだ。非常に残念な話を聞いてしまった。ジャニーズ、せこい! いやいや、それだけではなく、『あ・き・す・と・ぜ・ね・こ』という曲が、光GENJIの目指す世界と合わなくなっていたのではないだろうか。『パラダイス銀河』の大ヒットは、光GENJIのイメージそのものを変えてしまった。飛鳥が狙った以上の大ブームを巻き起こした。レコード会社としてもその勢いで、どっかん、どっかん、行きたくなったのだろう。


ちなみに、『あ・き・す・と・ぜ・ね・こ』は1989年に発売されたアルバム『Hey! Say!』に収録されている。このとき、なんらかの話し合いが持たれ、再び飛鳥涼が曲を書くことになったようだ。1990年には飛鳥涼作詞、作曲のシングル『荒野のメガロポリス』が発売される。


光GENJI『あ・き・す・と・ぜ・ね・こ』(3rdアルバム収録、1989.2、PC)
   作詞:飛鳥涼、作曲:飛鳥涼、編曲:佐藤準
⇒飛鳥がシングル用として提出した曲。いつの間にかボツにされる。


やはり、問題なのは4曲目だった。しかし、まったく想像もしない方向に話は流れてしまった。松本隆はこの件を告発したのだろうか? 恐らく、そうではないだろう。以下、私の仮説を書いてみる。『ガラスの十代』と『Diamondハリケーン』を比べてほしい。タイトルを見ただけでわかる。少年の繊細さを象徴していたガラスが、あっさりダイヤモンドに変わっているのだ。繊細な少年の心は、一体どこへ行ってしまったのか? ここでガラスの少年の物語が、おかしな方向に走りだしたのだ。


Diamondハリケーン』には「♪ 夢はプリズム 愛はダイヤモンド 稲妻集めて作るのさ」とある。「愛はダイヤモンド」は、かつて世界のダイヤモンド市場を牛耳っていたデビアス社の広告「ダイヤモンドは永遠」から来たものだろう。愛は永遠。しかし、たいして意味がある歌詞には見えない。ガラスを数ランク上の価値があるダイヤに変えた。その程度の考えだったのではないだろうか? 作詞を手掛けた田口俊は、飛鳥が『パラダイス銀河』で冒険を終わらせてしまったため、困ってこのようにしたのかもしれない。最初の3部作をバージョンアップさせた作品になっている。


とにかく、たった1年ほどの間に、少年の繊細さを表すガラスが、永遠を表すダイヤモンドに変質してしまった。これはバブルと言って差し支えないだろう。このことを松本隆が「未来を売り渡した」と指摘したのであれば、私はそれに賛同する。


光GENJIDiamondハリケーン』(4thシングル、1988.6、PC)
   作詞:田口俊、作曲:井上ヨシマサ、編曲:佐藤準
⇒ガラスからダイヤモンドへ。バブル発生!


パラダイス銀河』以降も、光GENJIは『週刊ジャンプ』に登場する主人公のように、冒険の旅を続ける。5枚目『剣の舞』では愛の眠る場所、オーロラ城を探す。6枚目『地球をさがして』で宇宙から見た地球を描き、7曲目『太陽がいっぱい』に至る。


恐らく、4枚目のシングルとして飛鳥が用意した『あ・き・す・と・ぜ・ね・こ』がボツにされた理由はここにあるのだろう。飛鳥が作詞した『STAR LIGHT』『ガラスの十代』『パラダイス銀河』という3部作は、知ってか知らずか70年代の国民的アイドル、ピンクレディーで行われた「非日常性のエンターテイメント」の準備段階を歌詞にしているからだ。


「非日常性のエンターテイメント」は、昭和の大作詞家・阿久悠とその片腕とも言うべき作曲家・都倉俊一が、山本リンダフィンガー5ピンクレディーでつくりあげた手法のことだ。阿久悠は自著『夢を食った男たち』で「ぼくらはそれを、テレビ時代の歌とも言い、歌のアニメーション化」と語っている。ピンクレディーは歌の中で宇宙人と恋したり、プロ野球のピッチャーに変身もした。また、アイドル評論家の中森明夫は以下のような表現を使ってその手法を説明している。


 中森(前略)ピンク・レディーは80年代を準備したんです。子供たちはピンク・レディーの曲を歌い踊りながら「どこへだって行ける、何にだってなれる」と欲望を肯定された。(中略)で、ピンク・レディーを踊れる世代が20代になったときの日本は、それこそ「女の時代」ですよ。松田聖子が現れ、男女雇用機会均等法が施行された。今でもアラフォーの女性たちは消費社会の先端を走っている。(中略)アイドルの世界にも、それ以降は小泉今日子中森明菜ら82年組の「ピンク・レディー・チルドレン」が続々と出て来ました。次の時代を準備したという点で、ピンク・レディーキャンディーズ山口百恵よりもはるかに重要な存在ですね。そうなったのは、それが個人的な物語に依存するものではなく、システムだったからです。(『AKB48白熱論争』)


飛鳥の3部作は、「どこへだって行ける、何にだってなれる」の準備段階だった。『STAR LIGHT』では、自由になりたいという希望は星の瞬きのように小さな輝きでしかない。しかし、『ガラスの十代』では「輝きは飾りじゃない」という程度には強さを持ち始めている。そして、『パラダイス銀河』では、夢の中でならパラダイスに行くこともできると歌っている。「どこへだって行ける、何にだってなれる」という設定がここで用意されたのだ。


しかし、なぜか飛鳥は光GENJIを冒険の旅に出さなかった。そして、子供時代に遊んだ『あ・き・す・と・ぜ・ね・こ』をテーマに歌詞を書いた。これはレコード会社やジャニーズが望む方向ではなかった。なので、新たな作詞家を起用し、週刊『少年ジャンプ』のマンガにあるような冒険の旅を続けさせたのだろう。作詞した田口俊は制作サイドから、はっきりと『パラダイス銀河』をパワーアップさせた作品という注文を受けたのかも知れない。


しかし、その冒険は6枚目『地球をさがして』で終わっている。冒険はたったの3枚で終わってしまったのだ。7枚目、大江千里が歌詞を書いた『太陽がいっぱい』は、タイトルだけを見ると宇宙を舞台にした曲に見える。だが、実際に歌詞を見るとそうではないことに気づく。地球に戻り、日常に戻った上で、宇宙を彷徨ってやっと出会えた君とのことが書かれているのだ。「♪ 幾千分もの奇跡をこえて巡りあった夢 君にしか話したくない」という歌詞がとてもよく効いている。大江はこれまでのファンタジーの世界から現実世界に、うまく着地させた。光GENJIは冒険の旅を終え、日常に戻って来たのだ。なんのために? もちろん、通過儀礼を行うためだ。飛鳥を降ろしてまで冒険させた割には、少し戻って来るのが早い気もするが・・・ それはまた後で考えよう。


 通過儀礼とは、出生、成人、結婚、死などの人間が成長していく過程で、次なる段階の期間に新しい意味を付与する儀礼。人生儀礼ともいう。イニシエーションの訳語としてあてられることが多い。(中略)イニシエーションとして古来から行われているものとしては、割礼や抜歯、刺青など身体的苦痛を伴うものである事が多い。(Wikipediaより)


飛鳥が『荒野のメガロポリス』で描いたのは、まさに再生に伴う痛みだった。だが、ジャニーズにおいてこのような通過儀礼ソングは特殊と言える。なぜなら、郷ひろみ川崎麻世田原俊彦近藤真彦と引き継がれて来た物語では、少年はセックスを経験することで大人になっているからだ。例えば、郷ひろみが大人の歌手へと脱皮に成功した大ヒット曲『よろしく哀愁』には、以下の歌詞が登場している。


 ♪ 友だちと恋人の境を決めた以上
   もう泣くのも平気 よろしく哀愁


「どこまでが友だちで、どこからが恋人?」。中高生の頃にはこの手の疑問をよくみんなで話し合った。デートをしたら恋人か? いや、キスからか? 郷ひろみの場合は、完全にセックスだった。詳しくは郷ひろみ編で解説するが、この曲を境にひろみは美少年アイドルから大人のスターへと変身して見せた。


光GENJIの場合も『太陽がいっぱい』の流れで行けば、次のシングルでセックスを経験するはずだった。作詞した大江千里はその準備を整えてくれている。次の歌詞がその証拠だ。


 ♪ 君に僕に始まるよ こんな気持ちはじめてさ 
   誰も誰も止められない


これは少年が性に目覚めた瞬間を切り取った歌詞だ。『太陽がいっぱい』は光GENJIが大人への階段をこれから上がるという、予告になっていたのだ。 



太陽がいっぱい』には「♪ 幾千分もの奇跡をこえて巡りあった夢 君にしか話したくない」という歌詞があり、ジャニーズによくあるオンリーユーソングに見える。だが、通過儀礼を終える前に歌われるものについては、特に「通過儀礼予告ソング」もしくは「予告ソング」と呼ぶことにする。セックスを体験する前に言われる「君だけ」は信用に価しないからだ。


光GENJI太陽がいっぱい』(7thシングル、1989.7、PC)
   作詞:大江千里、作曲:大江千里、編曲:中村哲
⇒これから初めての体験をするとファンに予告した曲。予告ソング。


そして、予告通りに通過儀礼ソングが来た。8枚目のシングルで再び飛鳥涼が起用される。制作サイドとしても光GENJIのこの先を描くのに、飛鳥の力が必要だったのだろう。しかし、皮肉にも光GENJIブームはこの曲で終りを迎える。先にも書いた、がくっと売り上げを落とした曲『荒野のメガロポリス』だ。(つづく)


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◉ジャニーズの教科書。第5章『嵐からHey! Say! JUMPへ』(パブー)

http://p.booklog.jp/book/97021

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