ハノイの日本人

アイドル、ジャニーズ、サッカーなど。

渋谷系とデータベース消費3。

今回の文章を書き出したのは、渋谷系を明快に説明したいってことなんですけど、そのときに問題になるのが「山下達郎をどう取り扱うか?」です。山下さんはポストモダンの文脈で語られるタイプの人ではないですよね? で、それを考えるのにポイントとなるのがピチカート・ファイヴのアルバム『Bellissima!』(1988)の評価でしょう。当時のボーカルは現オリジナル・ラヴ田島貴男です。



当時、賛否両論あったそうで音楽誌『ミュージックマガジン』では「仏作って、魂入れず」と酷評されたと聞きます。ソウルミュージック風ではあるけど、魂が込められてないって意味です。山下さんもラジオで酷評したなんてネット上には書かれていますね。現在ではそんな話はなかったことにされていると思うんですけど、かなり気になる話です。私がピチカートのアルバム『月面軟着陸』を買ったのも『ミュジーックマガジン』での賛否を見てのことでした。まあ、そのあたりを書くのはまだ先になりそうですが・・・今回は「オタクたちに好まれるライトノベルとはどのようなものか?」です。


渋谷系とデータベース消費1〜2
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20160618/1466189435
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20160621/1466466582



今回も東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』を教科書に勉強して行きます。ライトノベルを読んだことがない私には、文章として明快に書かれていても理解できていないことが多かったようです。今回それらを渋谷系を解説するの文章だと思って読んだことで、めちゃめちゃ刺激的な文章となって立ち上がって来ましたw まず東さんが引用されているライトノベル作家新城カズマ著『ライトノベル「超」入門』に書かれている内容から。


ライトノベルを、「キャラクターを素早く伝える方法としてイラスト等を意識し、キャラクターを把握してもらうことに特化してきた、二十世紀末〜二十一世紀における小説の一手法である」と定義するのは、そんなに間違っていないかなと思います。』『ライトノベル「超」入門』(P203)


ライトノベルは物語よりもキャラクターを伝えることに特化してきた小説だと書かれています。そこから進めて東さんは「キャラクターの自立化」に注目されています。例えば、オタクたちの世界において、人気キャラクター「シャア」や「綾波」は関連作品や二次創作に登場した場合、原作の物語を離れて自立的に生きている。読者も原作を意識することはないというように。そして、東さんのまとめでライトノベルは以下のように説明されます。


ライトノベルの制作と消費においては、作品の層(物語)と環境の層(キャラクターのデータベース)が別々に存在している、と捉えることもできるだろう。
 ライトノベルの作家は、物語の様式を規定するジャンル的な規範意識ではなく、その下位に位置する脱ジャンル的あるいはメタジャンル的なデータベースに依拠して小説を記している。そのため彼らは、同じように「ライトノベル的」な感性に依拠しながら、読者がファンタジーを求めていればファンタジーを、SFを求めていればSFを、青春小説を求めていれば青春小説を、柔軟に書きわけることができる。』(『ゲーム的リアリズムの誕生』P47-48)


私は渋谷系の説明として読んだという理由がわかってもらえたのではないでしょうか? ジャンル的な規範意識ではなく、元ネタであるレコード群のデータベースに依拠した音楽です。しかし、渋谷系において「自立したキャラクター」はなにか? 元ネタなのか? それとも HIPHOP的センス・・・例えば、動物的に反応してしまうある種のドラムビートとか? まあ、それはとりあえず置いておきましょう。実は今回、ピチカート・ファイヴ小西康陽さんが「データベース」という言葉を使っている文章を見つけてしまいました。前から持っていた本なんですけど、その言葉を意識したのは今回初めてでした。




『音楽を作り、聴くには歴史観が必要である、という宣言。その思想は巨大なデータベースと生きる21世紀の音楽家たちを予見するものだった。とかなんとか。』(小西康陽マーシャル・マクルーハン広告代理店。ディスクガイド200枚。』P140、学研2009)


この文章は大瀧詠一のアルバム『NIAGARA MOON』について書かれた文章です。上の動画で聴ける『いかすぜ、この恋』を例に大瀧さんの作風を以下のように書かれています。『「いかすぜ、この恋」はエルヴィスの楽曲の邦題を羅列し、彼のスタイルで歌ったもの。その作風はつまり批評そのものであった。』と。


渋谷系ポストモダンの音楽で、歴史の文脈から切り離されていると私は考えていたんですけど、小西さんが大きな影響を受けた大瀧さんは「歴史観が必要」と言ってるわけです。山下達郎さんももちろんそう考える人でしょう。小西さんは過渡期の人物なので、年齢によって考えが変わっている可能性もありますが、うーん、かなり複雑になってきました。じゃあ、音楽にも言論にも精通した批評家・佐々木敦さんはどのように渋谷系を語っているでしょうか? 以下の文章をご覧下さい。


渋谷系とは、まず一言でいえば「リスナー型ミュージシャン」の完成形です。(中略)七〇年代にはっぴいえんどともに始まったプロセスの終焉であったと位置付けることができます。それは、外国で生まれ、外国語で歌われている音楽を、日本で、日本人の音楽家として、カヴァーとかコピーとか、単なる物真似ではない形で、どうしたらやれるのか、すなわち海外の音楽をニッポンの音楽に、どうやったら翻訳=移植できるのか、という困難な問いに向き合ってきた歴史、その終わりを意味しています。この意味で、渋谷系とは、はっぴいえんどの二十年後の姿だっと筆者は考えています。』(『ニッポンの音楽』P150、講談社2014)


たぶん、佐々木さんは「データベース消費」という言葉を使わずに渋谷系を説明しようとされたのでしょう。その言葉は登場しません。それどころか大瀧詠一もメンバーだったはっぴいえんどから渋谷系のアーチストまでは連続していると言っているようです。「はっぴいえんどの二十年後の姿」って書かれていますもんね。マジか・・・。80年代のピチカートについては書かれていないからな。一方で、この本に登場した気になるキーワードが「キャラクターで売れてくる国」です。これについて次回考えてみましょう。