ハノイの日本人

アイドル、ジャニーズ、サッカーなど。

最初のグループアイドル、キャンディーズ。

アイドルの歴史を振り返っています。前回、マイケル・ジャクソンピンクレディーの影響を受けた可能性について考えてみました。「♪ 男は狼なのよ 気をつけなさい」という歌詞のままの『 Thriller 』のことです。


◉作詞家 阿久悠と スター誕生! その5「マイケル・ジャクソンは日本起源である」
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20130601/1370090233


◉作詞家 阿久悠と スター誕生! 番外編「阿久悠神話を解体したい人たち」
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20130531/1370014094



ピンクレディーについて何回か書きました。でも、もう一つ大事なことがありました。ピンクレディーがデビューする前の話です。


 ⇒ピンクレディーの二人組の企画を考える時、どうしても意識しなければならないのが、このキャンディーズであった。ぼくらはそのことについて、相当話し合った。(P226)


 ⇒人気のキャンディーズを仮想敵に見立て、後を追うのか、別の道を走るのかという試行錯誤の繰り返しは、「ペッパー警部」というタイトルを思いつくまでのことで、これが決まってからは全く迷いはなかったからである。(P227)



ピンクレディーを生んだ『スター誕生!』という番組は、渡辺プロダクション日本テレビがケンカしたことをきっかけに企画されたと、すでに書きました。そして、1971年に番組がスタートし、森昌子桜田淳子山口百恵の「花の中三トリオ」が誕生しています。


それに少し遅れて、渡辺プロダクションがデビューさせたアイドルがキャンディーズでした。スクールメイツとして活動していた3人を、グループでデビューさせています。スクールメイツとは、渡辺プロダクションが1963年につくったタレント育成目的でつくられた集団のことです。ここから数々のスターが誕生しています。


森昌子ホリプロ) 1972年7月デビュー。13歳
桜田淳子サンミュージック)1973年2月デビュー。14歳
山口百恵ホリプロ)1973年5月デビュー。14歳
キャンディーズ(渡辺プロ)1973年9月デビュー。平均年齢17.3歳


キャンディーズは最初のグループアイドルでした。男性ではそれ以前にジャニーズやフォーリーブスがありましたが、彼らはアイドルとしてではなく、ミュージカル出演も出来る実力派を目指してデビューしています。また、フォーリーブスのプロデューサー酒井政利は、当時はアイドルのプロデュース方法を確立していなかったと語っています。


ちなみに、キャンディーズスクールメイツとして露出を図りながら、その後にデビューするという、ジャニーズ事務所と同じデビューの方法を取っています。しかし、初代ジャニーズがデビューした時から、渡辺プロのタレントのバックでステージに出演するという方法が取られていました。ジャニーズ事務所は設立当初、ブッキングを渡辺プロに委託しており、レッスンもスクールメイツと共に行っています。どちらが先という話でもないのです。



最初のグループアイドル、キャンディーズは大成功しました。しかし、70年代に活躍したアイドルの中で、真っ先に解散したのもキャンディーズでした。1977年7月コンサートで突然の解散宣言。有名な「普通の女の子に戻りたい!」を発します。そして1978年4月に解散しています。


ここからフォーリーブス(78年8月)、南沙織(78年10月)、山口百恵(80年10月)、ピンクレディー(81年3月)、などが解散、引退と続きます。一つの時代が終わったことを感じさせるのに十分な出来事でした。



◎ 1980年1月 沢田研二TOKIO』発売
◎ 1980年2月 シャネルズ『ランナウェイ』でデビュー
◎ 1980年9月 横浜銀蝿『横須賀Baby』でデビュー
◎ 1983年9月 チェッカーズ涙のリクエスト』でデビュー
1984年1月 戸川純玉姫様』でアルバム・デビュー
1984年6月 一世風靡セピア『前略、道の上より』でデビュー
◎ 1985年7月 おニャン子クラブセーラー服を脱がさないで
◎ 1987年8月 光GENJI『STAR LIGHT』でデビュー


そして、80年代は沢田研二TOKIO 』でスタートします。この曲の作詞は糸井重里、作曲は加瀬邦彦です。話題になったのは、電飾つきの衣装と大きなパラシュートでした。それは上空から東京に降りて来るのをイメージしたものです。



ピンクレディーが大成功したことで、80年代には変身型のグループがいくつも登場しています。まずはメンバー全員の顔を黒く塗って登場したコーラスグループ、シャネルズ。デビュー曲の『ランナウェイ』はミリオンセラーを記録します。続いて、コミカルな不良バンド、横浜銀蝿。そして、バンド形態のアイドル、チェッカーズの登場です。




チェッカーズはロックバンドとしてコンテストに出場。賞を取ったことで福岡から上京します。しかし、東京は怖いところです。無理矢理アイドルにされてしまいました。プロデューサーはスーパー・エディターを名乗る秋山道男でした。


 ⇒七人のメンバーが久留米市(福岡県)から上京したのは、八三年三月だった。秋山道男(三五)が彼らと会ったのは、その直後である。(中略)
「ひとりずつでは不十分だ。しかし、断片(ピース)が集まって大きな吸引力をだす」
 ジグソーパズルの精神による商品化である。秋山は、可愛らしさをコンセプトにして、ディズニーのイメージで売りだすことにした。生活感とファンタジー、不良性と善良性のあやういバランスをうちだしたのである。
 秋山はメンバーにチェックの洋服を着せ、リーゼントを刈り込む方針をだして、スタイリストとヘアデザイナーを手配した。販売元のキャニオンレコードは、中森明菜の「少女A」をヒットさせたコンビ、売野雅勇(三三)の作詞と芹沢廣明(三六)の新曲を準備していた。
イスラエル映画の“グローイングアップ”のような、ナチュラルで、昔風な青春、恋もあれば危険もある、笑いもあれば涙もある。こんな男の子たちがうちの学校にいたらなあ、そういう参加意識を狙いました」(吉田就彦キャニオンレコード、ディレクター)
      鎌田慧著『一億みんな芸能人』(1985年、朝日新聞社)P11



チェッカーズは最初の大人数・グループアイドルでした。山本リンダで非日常性のエンターテイメントを生み出したキャニオン・レコードが、再び大ブームを巻き起こしたのです。


ジャニーズの たのきんトリオ は学園ドラマから登場しましたが、チェッカーズはグループ自体が学校を思わせるアイドルだったのです。(つづく)