ハノイの日本人

アイドル、ジャニーズ、サッカーなど。

『アイドル国富論』という本を読んだよ。

今回の本は経産省の人が書いた、アイドルを経済との関係で読み解いた本です。かなり面倒くさいw こういうのがサービスなんでしょうかね? ですが、音楽的にも経済的にも首を傾げたくなる記述が沢山登場します。面倒くさい!



『(前略)社会主義とも、保護主義的とも言われた日本的資本主義をグローバル資本主義に接合していく、つまり日本経済が「大人」になっていく動きの中で、「アイドル」という「不完全なもの」の価値はどんどん落ちていき、「アーティスト」と呼ばれる実力派スターが再び評価される時代がやってきました。
 それが、「自由市場主義の時代」、そして同時に「アイドル冬の時代」とも言われた90年代です。』P102


失われた10年、金融ビックバンがあった90年代。現在の世界の状況を見る上では、90年代の日本のグローバル化の流れを「大人への過程」と言ってしまうのはあまりにも短絡すぎやしないでしょうか(⇦こういうとこが面倒くさい!)。また、音楽的な話で言えば、アイドル冬の時代には「バンドブーム」がありました。著者は実力派スターと言いますが、多くは単にバンドで演奏するアイドルにしか見えませんでした。どうやら著者は音楽を熱心に聴いて来た人ではないようです。それは『「ホンモノ志向」の「ニューミュージック」』という記述にも現れています。




本書はさらに面倒くさい方向に進んで行きます。「ヘタレ」と「マッチョ」という言葉でアイドルとファンの関係を語って行くのです。例えば『「かわいさ」とそのやましさ』という項目で書かれた以下のような文章があります。


『私たちは「庇護し、支配したい劣等な存在を選んではいけない」と、言い換えれば「自身が気後れするような素晴らしい異性に挑戦しなくてはいけない」という規範を引き受けてしまっているからであり、「文化の源流を学び、自らをそれに同化させるか、同化させないまでもそれと接続させることは、源流へのリスペクトとして当然である」という規範を認めてしまっているからです。
 本書ではこの規範に従い、強いものに闘いを挑み、困難に挑戦し、源流に忠実たろうとする姿勢を「マッチョ」、そしてその規範そのものを「マッチョ主義」と呼び、反対にこれに背いて闘いから逃走する姿勢を「ヘタレ」、それを許容する考え方を「ヘタレ主義」と呼ぼうと思います。』P75〜76


『格差の時代とも言われるグローバル市場経済の時代に、大きな夢を見ることなしに、それでも目の前の手の届く挑戦を諦めずに続けようとしている人々。この、ヘタレているのだけど懸命にマッチョに日々を生きる態度をもつ「ヘタレマッチョ」が支えるこの「アイドルの国」において、現代アイドルはもはや社会的インフラと言っても過言ではないでしょう。そこには、崖っぷちで頑張るヘタレマッチョたちにとって必要な精神的サポートが詰め込まれています。』P202


この「ヘタレ」と「マッチョ」という極端な言葉で語る感じ・・・嫌でしょww 著者は、アイドルとはヘタレのための「非実力派スター」だと語っているのです。まあ、そうかもしれません。でも、渋谷系のブーム以降、誰が歌っていようと、誰がつくっていようと、音楽で評価しようとする層は一定数いると思うんですけどね。AKBを頂点にしたアイドル本なので仕方ない。



そう! 大事な事を書かないと! 本の帯に東浩紀さんの「アイドルがいまなぜ支持されるのか、ようやく分かった。」とあったんです。よくわかったのか・・・私はこれを見て買ったんですよ。でも、これだったらゲンロンの中継2回観た方がよかったよ。東さんがどうわかったのか? ニコ生で語られていました。以下に要約を書いておきます。


東浩紀「月刊 ゲンロンカフェ&中継チャンネル完全ガイド」2014年11月(ニコニコ生放送
http://live.nicovideo.jp/watch/lv198544855
『この本はいい本です。アイドルの歴史をちゃんと辿っている。境さんの論理では、最初のアイドルの時代はダメな女の子がかわいいねっていうようなものだった。第二の時代は、かわいい女の子が頑張っている、そんな姿に自分を重ねるようになったという説明。つまり、ダメな女の子が選挙やなんかで市場原理にさらされている。その超頑張る姿に資本主義の世界で頑張らなければいけないヘタレな自分を重ねて見ているのが最近のアイドル消費の基本的なメンタリティという説明。僕はこの説明はかなり強力だと思う。でも、僕の考えではこれは普遍的でない・・・もっと古市風に言うと、気持ちが悪いものだと思う。永山薫さんという人が昔言ってたんだけど、ロリコンマンガを読む人って別に自分が小学生を犯したいんじゃなくて、自分が小学生女子になりたいんですよ。他にも言ってる人がいるけど、ロリコンマンガが男性性の発露だというのは間違い。(ここからロリコンマンガの話に行ったまま戻らずw)』


女の子が頑張っている姿に自分自身を重ねるというのは、ハロプロももクロでも語られて来たことですよね。それより、重要なのは「普遍的ではない」という言葉の方でしょう。私も前からそのことについて考えていました。それは東さんが編者になった『日本的想像力の未来』という本に登場する宮台真司さんの以下の発言を読んだからです。


日本的想像力の未来 クール・ジャパノロジーの可能性 (NHKブックス)

日本的想像力の未来 クール・ジャパノロジーの可能性 (NHKブックス)


『「なぜ、日本のポピュラーカルチャーがここまでポピュラーになったのか」。理由はただ一つ。それは、現実の差異を、自己から無関連化する機能があるからです。こうした機能は、現実の差異が自己を脅かしがちな、流動的で複雑な社会では、とりわけ有用だろうと考えられます。だからこそ、日本以外の国々でも、現実の差異の無関連機能ゆえに、日本的なポップカルチャーへのニーズが存在するし、今後もそのニーズが高まると思います。』P208



例えば、きゃりーぱみゅぱみゅやBABYMETAL、そして、モーニング娘。など海外でも人気のあるアイドルたちには、独自の世界観があります。これまで自分が知っていた世界をぐにゃっと歪ませるようなインパクトがあるものです。それを見ることで気持ちが楽になったりもします。しかし、AKB総選挙など市場原理むき出しのイベントはインパクトこそあるものの、現実そのもの、もしくは、現実の醜悪なパロディにしか見えないのです。上の言葉を使えば「現実の差異の無関連機能」がまったくありません。逆に、ももクロの急激な人気拡大は、そういうAKBへのカウンターが成功して獲得したものだったと考えます。



であれば、AKBグループが現在も人気があるように見えるのはどうしてでしょう? そのあたりに業界の事情があると私は考えます。CDが売れなくなった時代に、どうやってレコード会社やCDショップを維持して行くか? 誰か頭のいい人が、パチンコマネーと結びつけてアイドルブームを捏造する事を思いついたんでしょう。アイドル戦国時代が電通によってつくられた言葉だということは以前に書きました。電通さんが書いた本を早く読みたいな。