ハノイの日本人

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ゲンロン批評再生塾が始まるよ。

佐々木敦さん、東浩紀さんが中心になってゲンロンカフェにおいて『批評再生塾』が6月にスタートします。その関連イベントがニコ生で放送されていました。金曜日までタイムシフトで観れます(有料)。東さんの「芸術は誰のためにあるのか?」という発言が気になったので文字起こししました。


佐々木敦×東浩紀「昭和90年代、批評は再起動する(ゲンロン佐々木敦 批評再生塾)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv212733601?ref=my_live


◉「批評」の再生/「批評家」の新生(佐々木敦
http://school.genron.co.jp/critics/
『批評とは本来、外の言葉である。たとえ或る領域の内部にあるとしても、絶えず外部の視線を導入して考え、語ることにより、その領域を構成する者たちと共振し恊働し共闘し、遂には領域自体の変化と進化を促すこと。批評の危機とは、領域/ジャンルの停滞と固定化の別名でもある。わたしたちは、この状況を危機として認識することさえなくなりつつある。このままでは、何事であれ、刻々と健全に変わってゆくことや、新しい出来事が起こること自体が、不可逆的に減じていってしまうかもしれない。それは、あまりにも不幸なことである。だからこそ、批評と呼び得る営み/試みを再定立し、批評家と名乗り得る存在を新たに出現させることが、急務だと思われるのだ』


東浩紀:僕の考えでは、最終的には文学や芸術は誰のために、どういう人間のためにあるのかということですよ。すべての人間がコミュニケーションが好きな訳ではないし、人間嫌いの人間はいっぱいいて、むしろ人間の尊さは人間嫌いがいっぱいいることにあるんですよ。現世の人間関係に辟易しているというか、嫌だと思っている人間がつくりだすのが芸術や文化であり、そもそもが原初の時点でこの世界に「否」を突きつけてるんです。で、そこの部分が今、急速に無いかのようにされていっていると僕は思うんです。


例えば、教科書に載っている小説というのは、もうダメだと思うんです。小説家として優れていて、功を成し遂げて教科書に載るとかいうのはないと思うので。教育に使える、人をいい子に育てるというのと芸術家に育てるというのは、まったく別のことですよ。(中略)


例えば、僕がこうなっているのは、ひと言で言うと親の教育が失敗してるからだと思うよ。そういうものなんですよ。つまり、文学や芸術は失敗している人たちのものなんですよ。けれども、今の世の中というのは、それを成功と結びつけようとしている。優れた芸術だったり、優れた文学だったらば、それは教育にも役立つし、社会をよくするためにも役立つし、経済にも役立つんだというようなロジックをつくろうとしているんですよね。それは僕は本質的に違うと思っている。だから、さっきも批評家はお金にならないんだと言ったのも同じで、そういう意味ではゲンロンカフェには失敗者だけが来たらいいと思う。成功してる奴はここに来る必要ないもの。


もう少し言うと、これは何を意味しているのかと言うと、古来、人類の社会において宗教が果たして来た役割とはなにかってことですよね。宗教は日本ではなにか怪しいものだと思われてるけど、現世とは違う価値観があるんだと、現世で失敗者たちをある意味救うことなんです。芸術や文学だってそうですよね。だから、芸術や文学をやって、現世でお金をもらいましょうというのは根本的に違いますよね。だから、そういうところに戻りたいんです。(中略)


コミュニケーション消費だと言った瞬間にね、友達が多い奴が勝つって話になるわけですよ。友達少ない人間でも生きて行けるのが芸術なのに。って言うか、友達多い奴はもういいじゃん。政治家とか、企業入ったりすれば。