ハノイの日本人

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ジャニーズの教科書。第2章「硝子の少年」①

きのうは松本隆さんが大阪の書店でサイン会をされてたんですよね。それも行きたかった。先月『隠居してるので、ほとんどの仕事は断ってもらってるが、仲のいい旧友から背中を押されると、しょうがない。これからいくつか目立つことをするかもしれないが、お金や名誉が目的じゃなく、友情の証しだと、理解してほしい。』とツイートをされていました。旧友ってことは、キンキとは関係ないのか・・・


そう言えば、ドラマ『お兄ちゃん、ガチャ』って先週のが最終回だったのかw いやいや、あれじゃ終われないだろ。



◉ 1977年、ガラスの少年の物語始まる
1997年7月。KinKi Kidsのデビュー曲『硝子の少年』はとても不思議な曲だった。結果的には200万枚を売り上げる大ヒットとなり2人の代表曲となるのだが、すでにファンの間に浸透していた明るい KinKi Kids のイメージとまったく違う・・・ しっとりとした、ある種、昭和を感じさせる曲調だった。私はこのとき違和感を持った。「どうしてKinKi Kidsのデビュー曲がこうなってしまったのか?」と。


いきなり結論を書くと、『硝子の少年』は松本隆が70年代後半から80年代にかけて書いて来た「ガラスの少年」をテーマにした歌詞の到達点だった。そして、光GENJIガラスの十代』に登場する「ガラスの少年」とKinKi Kids『硝子の少年』は同一人物だった。光GENJIが11枚のシングルで描いたストーリーを松本は『硝子の少年』1曲で描き直していたのだ。なんのために?


KinKi Kids『硝子の少年』は、ジャニーズの歴史を1曲に凝縮した歴史的な名曲だということをこれから解説しようと思う。光GENJIガラスの十代』に登場する「ガラスの少年」とKinKi Kids『硝子の少年』の関係について語って行くのだ。まずはその曲を歌った2人のことから見て行こう。


◉ 1997年7月、ミリオンをノルマにKinKi Kidsデビュー
KinKi Kidsは関西出身の堂本剛堂本光一の2人からなるグループだ。名字が同じであることから、2人は兄弟や親戚と間違われることもあるが、血縁関係はない。1991年5月、2人はジャニーズ事務所に入っている。


堂本光一(12歳)少年隊ファンの姉が履歴書を送った
堂本剛(12歳)子役としてすでに芸能活動をしていたが、その休止中に光GENJIファンの姉が勝手に履歴書を送った


と、公式には伝えられているが・・・・ 一方でこんな噂もある。ジャニー社長が関西まで足を運び自らスカウトして来たというものだ(月刊現代1997年1月号)。


1991年になにがあったかを考えると、その噂はかなり興味深いものだとわかる。1991年9月にSMAPがデビューしているからだ。さらに、ジャニーズ事務所と並ぶ大手芸能事務所、吉本興業がダンスとお笑いをコンセプトに吉本印天然素材をスタートさせている時期でもある。ユニット「天素(てんそ)」には、ナインティナイン雨上がり決死隊FUJIWARAなどがいた。ジャニーズがお笑いに注目する中で、吉本はダンスに注目していたのだ。これは単なる偶然に過ぎないのだろうか? この時期のジャニーズにとって、お笑いがどれだけ重要なテーマだったかは、SMAPの章で語ることにする。


その後、2人はKANZAI BOYA(カンサイボーヤ)など、ジャニーズセンス溢れるグループ名を経て、1993年4月、大阪の朝日放送で制作されたローカル番組『キスした?SMAP』において、KinKi Kidsという今に続くグループ名が披露されている。


1994年7月には、野島伸司脚本のドラマ『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』(TBS)に2人は出演。ここで世間一般にKinKi Kidsという存在が広く知られるようになった。ドラマのプロデューサー伊藤一尋は以下のように語っている。


ふたりとの出会いは『人間・失格』のオーディション。オーディションでは、百数十人のなかから「誠」と「留加」という役を探していたんですね。中学3年生の役でした。結局、「誠」役は剛くん、「留加」役は光一くんに決めましたが、ジャニーズ事務所の意向はまったく働いていません。本当に本人たちの実力なんですよ。『どーもとモード』(2000年、新潮社)


それもそのはず、当時、SMAPの本格ブレイクの前でもあり、ジャニーズ事務所にタレントを押し込む力などなかった時期だった。


ドラマの脚本を担当した野島伸司は、刺激的な要素を詰め込むことで人気の作家だった。このドラマでもイジメを題材にストーリーが展開する。剛が演じる誠はいじめを注意したことから逆にいじめのターゲットにされる。光一が演じる留加は誠に好意を寄せながらも、それをうまく表すことが出来ない。そして・・・・ 残酷なラストが用意された。ドラマは彼らの熱演が評価され人気を呼んだ。


また翌年、堂本剛少年マンガを原作にしたドラマ『金田一少年の事件簿』(1995年、日テレ)で初主演を果たす。横溝正史の人気小説の主人公・金田一耕助の孫という設定で、学園を舞台に難事件を解決して行くストーリーだ。彼の時にコミカルで時にシリアスな演技は注目を集め、ドラマは現在も続く人気シリーズとなっている。


CDデビューの前からライブも行われた。会場は武道館、横浜アリーナー、大阪城ホールといった立派なもので、それらすべてを満員にしている。KinKi Kidsは、すでにCDデビューを待ちわびるファンが沢山いる状態だったのだ。そのため彼らの最初のシングルは、ミリオンセラーを義務づけられる形で制作されている。それは数々の人気アイドルを生み出してきたジャニーズ事務所でも、近藤真彦のデビュー以来2度目のことだった。


No.1 KinKi Kids 『硝子の少年』(1stシングル、1997.7、JE)
   作詞:松本隆、作曲:山下達郎、編曲:山下達郎
⇒ミリオンセラーをノルマとして制作された2番目の曲。


そのデビュー曲をプロデュースしたのは、日本を代表するミュージシャンの1人山下達郎だった。山下は1973年にシュガーベイブというバンドを結成。1975年に発売されたアルバム『SONGS』からは『DOWN TOWN』という人気曲も生まれている。1976年にはソロで活動を再スタート、最初のアルバム『CIRCUS TOWN』は、当時としては珍しい全曲海外録音で制作された。


そのレコーディングをセットしたのは、当時RVCレコードのディレクターだった小杉理宇造だ。小杉は後にジャニーズに大きな影響を与える人物となって行く。彼が最初に手掛けたジャニーズ関連は、1975年にデビューしたリトル・ギャングだった。


1980年「マッチにはトシちゃんの1.5倍のファンレターが来る」と聞いた小杉は、近藤真彦の争奪戦に参加する。そして、メリー喜多川副社長に熱意を込めた手紙を書いた。それにより他社との争奪戦に勝ち、近藤のディレクターを担当することとなる。近藤の曲で山下がプロデュースしているのは、小杉との関係からだった。KinKi Kidsのデビューにも関連する話なので、近藤のデビュー曲『スニーカーぶる〜す』を振り返っておく。


◉参考文献:Musicman-NET 第28回 小杉理宇造
http://www.musicman-net.com/relay/28.html



筒美京平ヒットストーリー 1967‐1998

筒美京平ヒットストーリー 1967‐1998


作曲家、筒美京平の活動30周年を記念して制作された、榊ひろと著『筒美京平ヒットストーリー 1967-1998 』(1998年、白夜書房)には近藤真彦スニーカーぶる〜す』の制作過程が記されている。


 タイトルは映画の企画と連動していたため楽曲の発注に先立って決定せねばならず、ジャニー喜多川の何か身に付けるもので若者のファッションを象徴するものという発想で“スニーカー”が決まり、それに小杉が“ぶる〜す”を付け加えた。(P166)

 
また、最初に出来あがった曲から、大サビの「街角は雨…」の部分以外はほとんど歌詞が書き換えられ、アレンジもレコーディグもゼロからやり直したというエピソードが紹介されている。タイトなスケジュールの中で、かなりの無理をしたことが想像出来る。近藤の年齢にしては大人っぽいアレンジでインパクトが弱いという、ディレクター小杉の判断があったと書かれている。ミリオンセラーがなかば義務づけられ、制作陣には重圧がのしかかっていた。なぜ、そのような厳しいノルマが課せられたのか?
 

先にデビューした田原俊彦『哀愁でいと』は70万枚売れた。そして、近藤にはその田原の1.5倍のファンレターが来ていた。70万枚×1.5で100万枚がノルマとなったのだ。ちなみに、最初のバージョンはシングル・レコード『ふられてBANZAI』のB面に収録されている。この制作陣の執念は実り、『スニーカーぶる〜す』の売上枚数は100万枚を突破した。この年の田原、近藤の快進撃をスタートに、シブがき隊、少年隊、光GENJI男闘呼組など、80年代を通して、ジャニーズは一時の隙もなくヒットを飛ばし続けた。


No.2 近藤真彦スニーカーぶる〜す』(1stシングル、1980.12、RVC)
   作詞:松本隆、作曲:筒美京平、編曲:馬飼野康二
⇒ミリオンセラーを義務づけて制作された最初の曲。


現在の小杉は、山下達郎が所属する音楽事務所スマイルカンパニーの社長であり、さらにジャニーズ事務所が持つレコード会社ジャニーズ・エンタテイメント(以下JEと表記)の代表取締役でもある。JEはKinKi Kidsのデビューに合わせて設立されたレコード会社だった。


芸能事務所がレコード会社を設立したのは、1993年に音楽制作会社ビーイングが立ち上げたB-Gram RECORDSがあった。これはポリドールレコードとの共同出資で行われている(1995年にビーイングの100%出資となる)。JE設立もこれに影響を受けてのことだと考えられるが、ジャニーズの場合は単独でレコード会社を設立したため、業界からの反発はかなりのものだったと噂されている。それでも、それが可能だったのは、1982年にアルファームーンというレコード会社を設立した経験を持つ小杉がいたからだろう。


『硝子の少年』に話を戻す。プロデューサーの山下達郎は作曲、編曲も自ら手掛けている。作詞には近藤真彦の数々のヒット曲でも知られる松本隆が起用された。2人は近藤の『ハイティーン・ブギ』(1982年)や『永遠に秘密さ』(1984年)、でもコンビを組んでいる。


しかし、『硝子の少年』は、その万全の態勢から出て来たとは思えない「湿度」と「暗さ」を持った作品だった。デジタルサウンド全盛の時代には、少し古めかしい印象すらあったほどだ。冒頭にも書いたが昭和を感じさせる音楽だったのだ。ファンが待ちに待ったキンキのデビュー曲がこれでいいのか? 私はそこに最初の違和感を持った。山下はどのような意図でこの曲を書いたのだろうか? 『硝子の少年』が発売されてから1年が経った頃、音楽業界誌『オリジナル・コンフィデンス』の巻頭に山下のインタビューが掲載された。そこでは『硝子の少年』を題材に、山下のプロデュース方法も聞かれている。


僕にとっての原風景であるところのジャニーズから始まって、フォーリーブス郷ひろみから、たのきんを経て今のKinKiまでいくその流れは戦後の一種の伝統芸能だと思ってるのね。その伝統芸能としてのジャニーズ・メロディっていうのがあるような気がして。そこで、郷ひろみのファンだった母親とKinKiファンの娘をつなぐものは何か、筒美京平さんだったらどんな曲を書くかなって考えて、それでできたのが「硝子の少年」なんです。(1998年8月24日号)


山下は小学生の頃に聴いたジャニーズ事務所の最初のグループ、ジャニーズの音楽に好感を持っていた。そこにあるアメリカの匂いを敏感に感じ取っていたようだ。そして、それに続くフォーリーブス郷ひろみ近藤真彦、少年隊、などの筒美京平作品にも注目していた。


筒実京平とは、70年代、80年代にかけてヒットチャートを制圧した大ヒットメイカーのことだ。代表曲にはオックス『スワンの涙』、郷ひろみ『男の子女の子』『よろしく哀愁』、尾崎紀世彦また逢う日まで』、太田裕美木綿のハンカチーフ』などなど。シングルの売上枚数は7600万枚を超えると言われている。近藤のデビュー曲『スニーカーぶる〜す』を作曲した前の年、1979年には『魅せられて』(ジュディ・オング)でレコード大賞を受賞している。まだ、レコード大賞に権威があった時代のことだ。


山下はKinKi Kidsの曲を書くにあたって、ジャニーズの歴史に欠かせない作曲家、筒美京平の作品の延長にあるものをと考えた。一方、山下から『硝子の少年』となる曲を受取った松本隆は、筒美の楽曲を意識して書かれた作品と気づいていたようだ。かなり最近になって、自分が主催するサイト『風街茶房』(2010年8月より休止中)の中で、その曲がどのような意図を持って制作されたかを推理している。以下抜粋。


 松本隆:小杉(理宇造)さんって人がいて、ずっとマッチを一緒にやってたんだ。彼は、ずっと前から山下達郎のディレクターでもあり、プロダクション(スマイルカンパニー)の社長でもあるのね。小杉さんはマイナーのアップテンポが大好きで、必ずそこに立ち返る。彼の頭にはマッチの「スニーカーぶる〜す」があったと思う。あれは(筒美)京平さんの曲だけど、ミリオンって伝説になるくらいの曲で、まさにジャニーズの王道だよね。だから「硝子の少年」は、山下達郎筒美京平風に書いたらどうなるか、って彼の実験だったと思う。



「マイナーのアップテンポ」と言われるジャニーズお得意のサウンドジャニー喜多川の好きな言葉で言えば、「青春の光と影」の影の方のイメージ。例えば、フォーリーブス『踊り子』『ブルドック』、郷ひろみ『夢をおいかけて』『裸のビーナス』、田原俊彦『哀愁でいと』『悲しみ2(TOO)ヤング』、近藤真彦スニーカーぶる〜す』『ハイティーン・ブギ』、シブがき隊『NAI NAI 16』、少年隊『仮面舞踏会』、光GENJI『STAR LIGHT』『ガラスの十代』などの名曲がそうだ。
 

しかし、山下がその曲を書いたのには、もうひとつ別の理由があったようだ。KinKi Kidsの2人が編集長となって制作された書籍『どーもとモード』(新潮社2000年)に収録された堂本光一との対談では、『硝子の少年』の制作過程が山下によって語られている。


 本当はね、あの前に別の曲を用意して持っていったんですよ。それでOKをもらって、二、三日アレンジしていたんだけど、なんか違う気がしてね。それはユーロビートの、いかにもジャニーズらしい明るい曲だったんですよ。でも、なーんか違う気がしてね。ひどい話なんですけど、「デビュー曲は初登場一位でぜひともミリオンに行きたい」と言われたんです。


山下は、ジャニーズ事務所、もしくは小杉から言われたノルマ「ミリオン」を達成するために、『硝子の少年』のメロディーに行き着いたと語っているのだ。近藤真彦スニーカーぶる〜す』のときにも録り直しが行われているが、今回はまったく別の曲だ。ミリオンをノルマにする方もする方だが、それに応えるために新しい曲を書き直すアーチストの律儀さにも感心する。


ちなみに、最初に用意したユーロビートっぽい曲とは、同じく松本・山下のコンビでつくられた3枚目のシングル『ジェットコースター・ロマンス』なのだろうか? ユーロっぽくないと思ったのだが、ネット上のフリー辞書wikipedia を見ると、山下がラジオ番組『山下達郎の JACCS CARD サンデーソングブック』で語ったエピソードが書かれていた。当時、山下が多忙だったためアレンジを船山基紀に依頼し、その際、楽曲のイメージを伝えるべくデモテープを渡した。だが、出来上がった作品はまったく別の物になっていた。


とにかく、最初はKinKi Kidsのイメージにあわせた明るい曲調で制作していたことがわかる。しかし、それだけでは足りないと山下は感じたのだ。ミリオンにするためにはファン以外にも届く作品が必要と考えた。そして、ジャニーズの歴史を踏まえた新たな曲『硝子の少年』のメロディーを書いた。それは自信作だった。


 もっとも、「いい」って言ってくれたのはレコード会社の人と作詞の松本隆さんとミキサーの四人くらい。あとはボロカスでしたね。「古い、踊れない」って。『どーもとモード』P173


『硝子の少年』が発売された1997年と言えば、安室奈美恵『CAN YOU CELEBRATE』やglobe『FACE』の大ヒットで分かる通り、小室哲哉(TK)が作るダンスサウンド全盛の時代だった。TKの音楽はシンセサイザーと打ち込みを中心にしたダンスミュージックだ。そして、その上に乗るボーカルは時としてカン高いと言ってもいい声で歌われた。マイナー調であったとしても、そのテンションは非常にアッパーなものだった。


『硝子の少年』の音もPCで制作されたデジタルの音楽だ。しかし、聴いた感じは先にも書いた通りアナログ感のある、しっとりとした音楽になっていた。クオリティはもちろん高かったが、J-POPではなく歌謡曲を感じさせる音楽だったのだ。そのため小杉は別にして、ジャニーズ・サイドの反応も悪かったようだ。


それでも山下はこの曲にこだわった。チャートの主流にある音楽ではないことを承知で、ジャニーズで数々の名曲を生んだ「マイナーのアップテンポ」のこの曲を押し通した。ミリオンセラーを義務づけられたKinKi Kidsのデビューでそれをできる人間がどれだけいるだろうか? そして、もう一人のキーマン松本隆も、山下が書いた曲にすぐさま反応してみせた。


『硝子の少年』。山下が用意した曲に「これ以外のタイトルは存在しないのではないか?」と思うほどに、完璧なタイトルだった。


 ♪ Stay With Me 硝子の少年時代の 破片が胸へと突き刺さる


しかし、曲調だけではなく歌詞にも私は違和感を持った。上の歌詞を詳しく見てみよう。まず「硝子」とは「ガラスのように壊れやすく繊細な少年の心」を象徴する言葉だ。光GENJIガラスの十代』にも「♪壊れそうな物ばかり集めてしまうよ」という歌詞があった。「ガラス」は80年代のジャニーズ事務所にとって、シンボルと言ってもいい重要な言葉だった。ガラスの少年というモチーフはこれまでにも重要な局面で登場して来たのだ。そして、そのガラスがここでは割れている。これは少年時代の終わりを示した曲だった。


もしかしたら「KinKi Kidsはいつも少年の気持ちを歌っている」と考える人もいるだろうか? それはもちろん、KinKi Kidsというグループ名が原因ではあるだろう。そして、やはりデビュー曲『硝子の少年』の鮮烈なイメージが今でも影響を及ぼしているからだ。


しかし、KinKi Kidsのデビュー曲であるにも関わらず、『硝子の少年』は少年時代の終わりについて書かれた曲だった。当然、それ以降の曲も少年時代の曲ではない(例外も1曲あるが)。


キンキの2人はデビュー時には18歳になっていた。少年時代が終わる歌であっても年齢的にはおかしくない。だが、それだけではない。割れた破片が胸に突き刺さっているからだ。少年時代が終わることを表現しただけなら、ガラスが割れただけで構わないはず。つまり、これは確実に少年が死んだことを示す歌詞になっているのだ。ガラスの少年の死を、はっきりと告げたかったのだろう。一体誰がガラスの少年を殺したのか? 犯人は歌詞を書いた松本隆なのか? それともジャニーズ事務所の意向があったのか? なんのために? 


さらに、『硝子の少年』に登場するガラスの少年は、『ガラスの十代』に登場するガラスの少年とどのような関係があるのか? ガラスの少年とはジャニーズにとって、一体どんな存在であるのか?(つづく)


◉ジャニーズの教科書 まとめ
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/searchdiary?word=%2A%5B%A4%AA%A4%B9%A4%B9%A4%E1%5D