今回はファンにも知られていない「SMAP」の本当の意味についての文章です。まあ、グループ名の由来についてはいくつかあるんですけど、一番大事なのはジャニーさんも言ってません。これが本命だと思うんですけどね。そう言えば、この前『ナカイの窓』で陣内さんが中居くんのことを「ハナ肇」って呼んだでしょ? あれ、ドキッとしましたよ。SMAPの結成当初のコンセプトは「平成のクレージーキャッツ」だからです。木村拓哉が植木等なら、中居正広はハナ肇でしょうw
◉ジャニーズの教科書。第2章「硝子の少年」①〜⑤
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20150406/1428325419
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20150413/1428932089
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20150420/1429533329
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20150427/1430141160
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20150504/1430728854
◉平成のクレージーキャッツ SMAP
現在のジャニーズ事務所の繁栄を築いたグループSMAPです。彼らはデビューから数年あった人気低迷期に「脱アイドル」の道を歩みます。そして、苦境を脱して成功したことによって、SMAPのみならずジャニーズもNo.1芸能事務所となったのでした。
しかし、SMAPの挑戦はギャンブルにも似たところがありました。おバカな真似をして笑いを取らなくてもいいのが二枚目です。恥ずかしさを捨て、かっこよさを捨てて笑いを取りに行くアイドル。当時、そのようなアイドルは存在していませんでした。落ち目と思われ軽く扱われる可能性だってあったわけです。SMAPはなぜそのような挑戦をすることになったのか? 結成時にさかのぼって見て行きましょう。
SMAPが結成されたのは1988年4月です。光GENJI『ガラスの十代』のバックで踊るジャニーズJr.、スケートボーイズの中から6人が選出されました。ティーン向けの月刊誌『POTATO』での登場時には、メンバー6人の写真と、その見出しとして「SMAP時代のスケートボーイズ」がありました。ところで「SMAP時代ってなに???」。ファンの前に唐突に出現したその言葉「SMAP」がグループ名だったのです。
実はそのグループ名には、ジャニーズ事務所の未来を左右する重大な指針が刻み込まれました。「S」と「M」を軸に、SMAPのみならず 90年代ジャニーズの「脱アイドル」路線は展開されたからです。ジャニー社長は「脱アイドル」という事務所の根幹を揺るがしかねない方針転換をSMAPのメンバー6人に托しました。美少年アイドルを武器に発展して来たジャニーズの大勝負がここから始まったのです。
SMAPは、第2章で紹介した北公次著『光GENJIへ』発売よりも少し前に結成されています。なので、この本の影響を受けずにグループは結成されました。これは案外重要な話です。まだジャニーズが人気絶頂だった時期にその挑戦が始まっているからです。スーパーアイドル光GENJIの絶頂期に、なぜ、ギャンブルとも言える「脱アイドル」への挑戦が始まったのでしょう?
まず、その勝負を任されたメンバーを見て行きましょう。結成時の平均年齢は13.7歳です。ジャニー社長は少年の頃に将来までを見通し決断を下しています。ついでに事務所に入ったきっかけも書いておきます。
中居正広(15歳)自ら送った履歴書が宛先不明で戻ってきたが母が再送
木村拓哉(15歳)叔母が勝手に履歴書を送る
稲垣吾郎(14歳)姉が内緒で事務所に写真を送る
森且行(14歳)兄と共に事務所に履歴書を持って行く
草磲剛(13歳)友人の誘いで履歴書を送る
香取慎吾(11歳)母が事務所に履歴書を送る
次にグループ名です。メディアに公表されている SMAPのグループ名の由来はご存知でしょうか? 「Sports Music Assemble People」という4つの単語の頭文字を繋げてSMAPです。「スポーツ」も「音楽」もできる人たちという意味で、ジャニー社長が名付けたと発表されています。しかし、アイドルのコンセプトが所属事務所から公表されたとしても、それが真実とは限らないのです。ましてやジャニーズ事務所の発表です。簡単に信じてはダメですよ(笑)。
社会現象と言われるほど大成功したSMAPです。これまでにも彼らがどのような方法でブームを起こしたかを分析する書籍が数多く出版されています。それらを参考にSMAPがどのようにして国民的アイドルになったかを振り返っておきましょう。SMAPの全体像が見えやすくなるはずです。以下に簡単にまとめてみました。
1段階目 メンバー6人をドラマ班とバラエティ班にわけて歌以外の活動を広げた(メンバーのバラ売り)
2段階目 注目を浴びる過程でSMAPの楽曲を大人向けにシフトした
3段階目 木村拓哉主演ドラマが社会現象と言われるまでの人気を獲得。また、中居正広がバラエティ番組の司会者としてのポジションを確立した
番外 事務所に見捨てられたSMAPを敏腕マネージャーが支え、売れっ子にした
1〜3までは普通に納得してもらえるのではないでしょうか? また、番外に入れたマネージャーの話も数々のSMAP分析本で語られているので、ファンなら誰もが知っている話です。CDが売れずに事務所から見捨てられたSMAPを飯島マネージャーが辛抱強くバラエティ番組に売り込み、活路を見出したというものです。これは重要な話なので後ほど考えたいと思います。
ではまず1段階目の「メンバー6人をドラマ班とバラエティ班にわけて歌以外の活動を広げた」。森且行、木村拓哉、稲垣吾郎をドラマ班に、中居正広、草磲剛、香取慎吾をバラエティ班にわけ、なくなってしまった歌番組の代わりに、他の分野でのテレビ露出を増やします。これはメンバーのバラ売りとも言われています。グループアイドルが個人で活動することは、それまであまりなかったからだと説明されています。
しかし、これまでのジャニーズでも、ドラマやバラエティで活躍したタレントは数々いました。例えば、たのきんトリオです。田原俊彦、野村義男、近藤真彦の3人は、『3年B組金八先生』(1979年、TBS系)や『ただいま放課後』(1980年、フジ系)のドラマ出演をきっかけにして、一気にスーパーアイドルに駆け上がりました。
中でも、田原俊彦はデビュー後もドラマ出演を続け、それにより1987年になってコメディ・タッチのドラマ『ラジオびんびん物語』(フジ系)に出会います。そして、翌年びんびんシリーズ第2弾として『教師びんびん物語』が高視聴率を獲得。田原は生徒役ではなく、今度は教師として出演し成功したのです。主題歌の『抱きしめてTONIGHT』もヒット。当時、田原のレコード売上は下降気味であったので、ドラマによって息を吹き返したという印象がありました。
さらに1989年に放送された『教師びんびん物語Ⅱ』では、最終回の視聴率がついに30%を超えました。主題歌『ごめんよ涙』も1位に輝く大ヒットを記録しています。この田原の成功がジャニーズの他のタレントにも影響を与えて行きます。少年隊や男闘呼組のメンバーもドラマ出演を増やします。田原俊彦、東山紀之はドラマのヒットによりOL層の人気も獲得。東山のスッキリした顔を表現する「おしょうゆ顔」という流行語も生まれました。これはSMAPが結成された時期の話です。
すでにアイドル、俳優、お笑い芸人の垣根はなくなっていたのかもしれません。誰がなにをしてもいい時代になっていたのです。俳優からも吉田栄作、織田裕二、江口洋介などがシンガーとしてヒットを飛ばした時代でした。
とにかく、ドラマに関して言えば、それまでのアイドル像とそれほど違うわけではありませんでした。一方、バラエティ番組については、SMAPの本気度はこれまでになく高かったと言えるでしょう。例えば、たのきん時代。人気アイドル総出演のバラエティ番組『たのきん全力投球』(TBS系)は、木曜日の19:00からという時間に放映され高視聴率を獲得しました。しかし、人気のあったこの番組にしても、アイドルがコントや漫才に挑戦しているという域を超えていませんでした。
SMAPの場合は違います。デビュー後もお笑い芸人に混ざってコントをするなど、芸人と同じレベルで笑いを取ることを目指しました。場合によっては、それまでのジャニーズ・アイドルを貶すこともあったのです。これはSMAPの「脱アイドル路線」を決定的にする出来事でしょう。代表的な番組は『夢がMORIMORI』(フジ系)です。
松竹芸能の人気タレント森脇健児と、バラドル(バラエティ・アイドル)の森口博子が司会をする土曜日23:30からの番組でした。この時間はウッチャンナンチャン、ダウンタウンをスターにした『夢で逢えたら』と同じ枠でした。そこにSMAPのメンバー6人で出演しています。それだけではなく、赤塚不二夫の人気マンガ『おそ松くん』のパロディ『音松くん』のコントにも取り組みました。コスプレをしてまでのコントの本気ぶりに驚いたファンも多かったようです。
SMAPがファン以外から初めて注目された番組『夢がMORIMORI』に出演した経緯が気になりました。その番組のプロデューサー佐藤和義の著書や、雑誌のコラムにそのことが書かれていました。
1990年にジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長から、「SMAPを平成のクレージーキャッツにしたいので、笑いを教えてほしい」という依頼を受けた。『バラエティ番組がなくなる日』(2011年)
クレージーキャッツは60年代、70年代に芸能界を制覇した芸能事務所、渡辺プロダクションの国民的人気グループでした。1961年にはハナ肇とクレージーキャッツ『スーダラ節』が大ヒット。「♪ スイスイ スーダララッタ スラスラスイスイスイ」と歌う、ボーカル植木等の人気が急上昇します。さらに、翌年には東宝クレージー映画第一弾として『ニッポン無責任時代』を公開。主演の植木はこれ以降国民的スターとして大活躍します。その映画の大ヒットにより、以降クレージー映画は30本も作られました。
また、渡辺プロダクションは、日本において最初に芸能事務所を近代化させたと言われています。まだまだヤクザが介在するのが当たり前だった地方興行で、ヤクザを介在させない公演を成立させました。そして、芸能事務所で初めて月給制を導入しています。これはブームに左右されずにタレントの生活を安定させるためでした。
それだけではありません。初代ジャニーズが渡辺プロのお世話になっていたという話も第1章で紹介しました。クレージーキャッツは、ジャニー社長にとって思い入れのあるグループだったのです。もしかしたら、SMAPを平成のクレージーキャッツとして成功させ、ジャニーズも平成の「ナベプロ」・・・つまり、芸能界を制覇しようと考えたのかも知れません。光GENJI で大成功し、次の段階に進むために SMAP をデビューさせたのでしょう。
しかし、SMAPのバラエティ出演はなかなか実現しませんでした。ウッチャンナンチャンの番組『やるならやらねば』のディレクターが了解してくれたものの、メインパーソナリティーの2人に「アイドルとはイヤだ」と言われたこともあったようです。最後に新番組『夢がMORIMORI』のディレクター荒井昭博が、SMAPがお笑い修行をするのを条件に、やっとOKしてくれました。荒井は、当時フジのバラエティ班で一番若いディレクターでした。
第1章で『心の鏡』がジャニーズで初めて努力の大切さを歌った曲だと書きましたが、そのシングルをレコーディングしていた頃、SMAPはまさに「努力」の真っ只中にいたそうです。荒井ディレクターによって、SMAPメンバーは毎日のように「お笑い」の特訓を受けていました。そして、『心の鏡』が発売された次の月、1992年4月からフジテレビ土曜日の深夜枠で『夢がMORIMORI』がスタートします。新しいSMAPの誕生でした。
佐藤元プロデューサーは「『“平成のクレージーキャッツ”にしたいからお笑いを勉強させてほしい』と1年くらいオファーされてた。」と語っていました。しかも、しつこかったそうです(笑)。人気タレントがいない状況がいかにツラいか? まさに、ジャニーズ事務所「冬の時代」を象徴するエピソードです。光GENJIの人気が90年代に入って急落。ジャニーズと関係の深いフジテレビですら何度頭を下げても、SMAPを出演させてもらうのに1年の歳月がかかっているのです。
ですが、注目したいのはその厳しい状況の方ではありません。SMAPがデビューする前から、このバラエティ路線は予定されたものだったということです。佐藤が別のコラムで書いた言葉で言えば「ジャニーズのアイドルをお笑いタレントに改造するアイデア」です。デビュー曲が売れなかったから路線変更したわけではありません。ジャニー社長は最初からSMAPにお笑いをやらせるつもりだったのです。もうSMAPの名前の由来がわかってもらえたのではないでしょうか?
「お笑い」も「音楽」もできる人たちです。SMAPの「S」は「笑=Shou」です。スポーツができるジャニーズ・タレントなんて珍しくもありません。ジャニーズは所属タレントに「お笑い」をやらせることで、これまでのアイドルのイメージを刷新することにしたのです。その切り込み隊長がSMAPでした。