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ジャニーズの教科書。第3章「SMAP、そして父になる」②

前回、SMAPの「S」は「笑(shou)」だと話しました。「お笑い」も「音楽」もできる人たちです。SMAPがこの戦略で成功したことで、今に続くジャニーズの繁栄はあるわけです。しかし、その成功は簡単に成し遂げられたわけではありませんでした。修業時代を観て行きましょう。



◉ジャニーズの教科書。第3章「SMAPそして父になる」①
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20150511/1431325930


興味深いのは結成前のエピソードです。萩本欽一がプロデュースする男性アイドルグループ「茶々隊」のオーディションに、後にSMAPになるメンバー6人全員が参加しています。そして、6人の中では木村拓哉草磲剛の2人が合格しました。




萩本欽一は天才芸人と呼ばれてきた人です。1966年に坂上二郎に誘われコント55号を結成。コント55号は、1968年フジテレビのお昼の帯番組『お昼のゴールデンショー』をきっかけに知られるようになり、『コント55号の世界は笑う』や野球拳で有名な『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』などで大人気となっています。


さらに、70年代に入ると萩本は「欽ちゃん」として数々のバラエティ番組に出演し、個人としても大スターとなりました。中でも人気アイドルを次々に生んだ『スター誕生』で司会をしたときには、欽ちゃんが会場に訪れた少年たちをステージに上げ、その中からクロベエ西山浩司などのタレントを輩出。テレビを使えば普通の子がそのままテレビタレントになれると証明して見せたのです。欽ちゃんはテレビの時代のお笑いを追求した芸人でした。


こんな番組もあります。「連合赤軍あさま山荘事件を中継する番組は、なぜ、なにも起こらないのに高視聴率を記録するのか?」と考えた欽ちゃんは、「視聴者はなにが起こるかわからないドキュメンタリーが好きなのだ」と結論します。そして、街に出て行き、道行くおばちゃんに話しかけました。テレビの人気者欽ちゃんが突然現れたことに、おばちゃんは驚き様々な反応を見せます。その会話をカメラで収めるだけで笑いが起こりました。



これはNHKの人気番組『鶴瓶の家族に乾杯』を思わせます。現在につながるバラエティ番組のパイオニアとして知られています。『欽ちゃんのドンとやってみよう!』で、タレント自身が企画・構成・演出を手掛けたのも最初のことでした。


SMAPのメンバーがオーディションを受けた欽ちゃんのアイドルグループ茶々隊は、88年4月スタートの『欽きらリン530!!』(日テレ系)という番組のために用意されたグループでした。番組開始を前に欽ちゃん自らが指導する厳しい特訓が行われたそうです。その中で木村拓哉はあまりにも理解しがたい特訓に嫌気がさし、番組スタートを前にメンバーから外れています。


欽ちゃんの厳しさとはどのようなものであったか? テレビ黎明期にバラエティ番組の放送作家でもあった作家の小林信彦は、バラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!』(テレビ朝系)の番組収録を見学に出かけたときのことを書いています。


 スタジオに観客を入れていないときの萩本欽一は、きわめて厳しい演出家である。この番組は始まってもう五年になるが、以前の萩本欽一は、出演者の動きにこまかい注文をつけていた。わずか一分の動きの演出が、三十分ぐらいかかることがあった。『笑学百科』(新潮社、1982年) P115


そして、草磲剛もそのアイドルグループがCHA-CHAとしてCDデビューする88年9月を前にメンバーを脱退しています。ジャニー社長がデビューを許さなかったようです。


欽ちゃんはそれ以前にもパロディとしてのアイドルグループをプロデュースしています。1981年に『ハイスクールララバイ』デビューした「イモ欽トリオ」です。これはもちろんジャニーズ事務所のアイドル「たのきんトリオ」のパロディでした。グループ名だけではありません。近藤真彦のデビュー曲『スニーカーぶる〜す』の作詞をした松本隆を起用したのです。これは本物を使ったパロディでした。ちなみに、作曲、編曲は当時 YMO として大人気だった細野晴臣でした。



この件があったため、欽ちゃんはグループを作るにあたって、ジャニーズ事務所に声をかけたのかもしれません。欽ちゃんが作るアイドルグループにジャニーズも関わって行くのです。1986年に結成されたおめで隊、これは少年隊のパロディでした。そして、そのグループにはジャニーズ事務所から、後に忍者としてデビューする正木慎也と中村亘利が参加しています。


お笑い芸人のアイドル化を少なからず脅威と思っていたであろうジャニー社長も、参加するメリットがあると考えたのでしょう。天才芸人・萩本欽一をリスペクトしてのことかもしれません。・・・そのように私は考えたのですが、お笑い評論家の西条昇が著書『ジャニーズお笑い進化論』(1999年、大和書房)において、以下のような証言が記録されていました。


 女性の視点で「可愛い」と思える〈笑いのアイドル〉を送り出す方法を確立した萩本は、80年代の前半に『週刊欽曜日』(TBS)で風見慎吾、『欽ドン』シリーズの「良い先生・悪い先生・普通の先生」で柳葉敏郎を、相次いで人気者にする。
 萩本の〈笑いのアイドル作り〉の手腕に着目したジャニー喜多川は、早速、アプローチを開始。
「欽ちゃん、ウチにも若いのがいっぱいいるから、良かったら見て使ってよ……」(P167)


パロディとして使われたことを怒るどころか、ジャニー社長の方からアプローチしていたのです。驚きました。ジャニーズがライバルとなるようなアイドル・グループに協力するなんて、今では考えられないことです。おめで隊、CHA-CHAには、そのためジャニーズJr.が参加していたわけです。結局、ジャニーズ事務所からは後に忍者としてデビューする中村亘利と、ダンサーとして活躍する木野正人がCHA-CHAとしてデビューしています。そして、『いわゆるひとつの誤解デス』(1988年)などのヒットを飛ばし、成功を手に入れました。1992年に解散、メンバーの中から現在もバラエティ番組で活躍する勝俣州和を生んでいます。


SMAP はデビュー直後の1991年10月にも、関東ローカルでバラエティ番組『愛ラブSMAP』(テレ東)がスタートさせています。そこではすでに、かぶりものや女装も披露されていたそうです。篠原沙里著『SMAPクロニクル』(作品社、2008年)では、当時の番組プロデューサー川端浩に取材しています。川端は歌番組を想定していたが、ジャニー社長の「この子たちにはお笑いのセンスがある」という一言で、お笑い中心のバラエティ番組になったと語っています。つまり、歌番組がなっかたからバラエティ番組に出たのではなく、SMAPにお笑いこそをやらせたかったのです。


◉再び平成のクレージーキャッツ


SMAPメンバーがお笑い修行を開始した1988年は、クレージーキャッツを大スターに育てた渡辺プロダクションの創業者、渡辺晋が亡くなった翌年でした。渡辺は1987年1月、59歳という若さでに亡くなっています。ジャニー社長は、これを機に「平成のナベプロ」として芸能界を引っ張って行く存在になろうと考えたのかも知れません。SMAPメンバーの「茶々隊」への参加という思い切った行動も、それと無関係ではないでしょう。


そして、初代ジャニーズの頃に語った「本当のエンターティナーは30歳を過ぎてから」という言葉にも立ち返ったのです。10年、20年と芸を磨くことで本物のエンターテイナーになれる。初代ジャニーズが結成された頃には、繰り返し語られた言葉でした。十代の輝きが失われたあとも、お笑いの技術があれば人気は持続すると考えたのです。



さらに、SMAPがデビューする前年、1990年はクレージーキャッツの中心メンバー植木等の大ブームがあった年でした。この年のNHK紅白で、植木は64歳にして歌手別最高の視聴率を記録しています。植木の豪快な笑いと景気のいい歌声は、世代を超えて支持されました。とても感動的なステージでした。


さらに、SMAPはお笑いの修行を続けます。1993年には関西ローカルのバラエティ番組がスタート。『キスした?SMAP』(朝日放送)です。出演者には、漫才師の和泉修中田ボタン、関西のタレント遥洋子や歌手の円広志などがいました。


SMAPのメンバー2、3人が毎週出演することになっていましたが、木村拓哉稲垣吾郎は収録済みの歌のシーンや、それを収録しに来た回でしか見れなかった記憶があります。主に、中居正広のしゃべりを鍛えるために用意された番組と言えるでしょう。1996年9月まで番組は続いています。


SMAPの「お笑い」も「音楽」もが結実したのは、4年後、1996年4月にスタートしたバラエティ番組『SMAP×SMAP』でした。これはかつて渡辺プロが制作した『シャボン玉ホリデー』を思わせる、歌とコントを中心にした、まさに「平成のクレージーキャッツ」を実現させるバラエティ番組でした。


SMAP×SMAP』の構成作家として活躍したのが鈴木おさむです。鈴木はラジオ番組『木村拓哉WHAT’S UP SMAP! 』(1995年1月〜、TOKYO FM)に番組スタート時から関わっていました。そこで信頼を得て『SMAP×SMAP』の作家にも抜擢されます。この番組が当時のSMAPにとって、どの程度の大きさの挑戦であったか? 同じく人気構成作家高須光聖との対談で番組開始前の様子を語っています。


高須光聖オフィシャル
http://www.mikageya.com/yu/04/index2.html


高須:…俺はなー、ぶっちゃけた話、 「スマスマあかんやろなぁ」と思ててん。
鈴木:いや、それは高須さんだけじゃないですよ。スマスマが始まる当初、僕もいろんな人に言われましたもん。こけるんじゃないか、いや、きっとこけるだろうって。
高須:この番組には責任を持ってやる作家が果たして居るのかな、というのも、俺はどこかで思ってたしね。言い訳を考えながらやっている作家もいるし、簡単な作りになってしまうんじゃないか、と。
鈴木:スマスマがまだ始まる前の会議で、僕は 「ショートコントやりましょうよ」って言ったんですよ。 そしたら、それは今でも覚えてるんですけど、明らかに会議全体のムードが「できるわけないだろ〜、アイドルに〜」ってなっちゃって。みんなが口に出さないんだけど、 そういう空気が明らかに伝わってきて、僕はなんでだろう??と思いました。 (後略)



SMAP×SMAP』は「古畑拓三郎」「竹ノ塚歌劇団」「計算マコちゃん」など、コントで話題を集めました。人気のピークにあたる1999年から2002年には、何度も視聴率30%前後の数値を記録しています。すでにスタートから19年が経過、立派な長寿番組となっています。



SMAPの「S」は大成功を収めました。しかし、ジャニー社長はお笑い芸人を育てようとしたわけではありません。あくまでも「S」と「M」の両方をやる必要があったのです。SMAPの「M」、音楽を見て行きましょう。(つづく)