ハノイの日本人

アイドル、ジャニーズ、サッカーなど。

ジャニーズの教科書。第4章「少年から大人へ」①

きょうの試合はショックでしたね。前半16分で0−4。私がスマホで途中経過を観たときにはもう2−5になってました。さっき、再放送を観てたんですけど、うーん出だし、寄せが甘かった。そのままずるずる下がってしまって。でも、アメリカはすでにピークを過ぎたチームだと思ってたんですよ。GKのソロがいなかったら決勝まで来てなかったと思うし。でも、きょうは完璧な強さでしたね。大儀見のゴールは最高だった。澤さんもさすがの活躍。お疲れさまでした!



第1章でトップグループ制のことを説明しました。この章ではその成立過程を見て行こうと思います。本格的にスタートするのは郷ひろみからですが、それ以前の状況も簡単に書いておきます。まずは初代ジャニーズです。


◉ジャニーズ・シングル・リスト
1. 若い涙(1964年12月)
2. 若い夜(1965年5月)
3. 焔のカーブ(1965年6月)
4. ガール・ハッピィ(1965年6月)
5. 栄光のマーチ(1965年10月)
6. 君が若者なら(1966年1月)
7. 泣いていたジョニー(1966年4月)B面:涙くんさようなら
8. バットマン(1966年5月)演奏はジャッキー吉川ブルーコメッツ
9. オーイわーいチチチ(1966年8月)
10. 太陽のあいつ(1967年4月)
11. いつか何処かで(1967年12月)
12. 若い日本の歌(1967年12月)


ジャニーズ以前にはスリーファンキーズという人気グループがありました。彼らも歌って踊るグループでしたが、ジャニーズのダンスはジャズダンスなどを導入したより本格的なものでした。他に彼らのようなグループがなかったため、ジャニーズは順調に仕事を増やして行きます。『ホイホイ・ミュージックスクール』(日テレ)『ジャニーズ・セブンショー』(日テレ)などレギュラー番組も決まりました。そうなると、ファンからは「レコード発売はいつか?」と問い合わせが殺到するようになったそうです。ジャニー社長の発言を書籍『ジャニーズ・ファミリー』(1975年)から引用します。


 確かにレコードをだせば発売と同時に、売り切れたかもしれない。だが、そんなことはあまり重要ではなかったんです。我々は、ミュージカルが最終の目標だったんですから、その目処がはっきりするまでは、レコードは出さない心ずもりでした」ジャニーさんはそう語る。(『ジャニーズ・ファミリー』P50)


レコードを出すことは当時のタレントにとって重要な活動だったはずです。自分の持ち歌があるかないか? そのことは決して軽い事柄ではないでしょう。では、なぜジャニー社長はレコード契約を断っていたのか? 現在では「人気のピークになるまでデビューさせない」という方針がファンの間にも知れ渡っています。それは KinKi KidsKAT-TUNのデビュー時によく語られたことでした。しかし、それは最初からあったものではないと思うのです。


恐らく、ジャニー社長には実現したいクオリティというものが、最初から設定されていたのではないでしょうか? それは「世界に出しても恥ずかしくないレベル」というようなものだったかもしれませんが。結果的にはミュージカルよりも早くレコード・デビューが決まります。レコード会社やテレビ局が、その人気を放っておかなかったからかもしれません。デビュー曲のために用意された作家陣を見れば、断ることが出来なくても無理のないメンバーであることがわかります。


ジャニーズがレコードデビューしたのは1964年の8月でした。レコード会社はビクターです。彼らがレギュラー出演していた音楽バラエティ『夢であいましょう』の今月の歌として作られた『若い涙』でした。作詞は永六輔、作曲は中村八大。そう、坂本九の全米ヒットで知られるコンビの作品でした。ジャニー社長は最初からこのコンビの作品を狙っていたのかもしれません。ジャニーズは結成時の約束として、アメリカに行くことが決められていました。なので、アメリカ人にも通じる名刺代わりの作品が必要と考えていた可能性があるのです。


日本を代表する名曲『上を向いて歩こう』が発売されたのは、1961年10月でした。その曲はその後アメリカでも発売され、1963年6月15日、ビルボード・チャートの週間1位を記録。また、1963年の年間チャートでも10位になっています。ジャニーズのデビュー曲が制作されたのは、その次の年のことでした。まだ、高校生のグループのデビュー曲であるにも関わらず、当時もっとも勢いのある作家陣が名前を連ねました。ジャニー社長がこの作家陣にこだわったため、ジャニーズのデビューはここまで時間がかかったのかもしれません。音楽評論家の榊ひろとは、以下のように書いています。


 特筆すべきは老舗ビクターの所属にもかかわらず(テレビ発の作品?とはいえ)、レコード会社の専属ソングライターではなくフリーの作家を起用している点であろう。『歌謡曲 名曲名盤ガイド』(Hotwax


GSのブーム以前には、作詞家、作曲家はレコード会社に所属し、他のレコード会社の歌手に作品を提供することはほとんどありませんでした。専属制だったのです。新人は専属の作家に弟子入りし、そこで修行するとこからスタートしました。その中で例外的に存在したのが、中村八大と永六輔です。2人は東芝を中心に活躍しましたが、フリーの作家だったのです。それは以下のような事情によるものです。


東芝のディレクター草野浩二が坂本九などを使って和製カヴァーポップスを出したのは)東芝はレコード会社としては後発であり、他社のように作詞・作曲の専属作家が殆どいなかったことから、洋楽の日本語カバーを積極的に出すことになり、この発想は他社にも大きな影響を与える。結果として、後のGSブームが専属制度を打ち破る下地を作ったという見方も出る。(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ公式サイト、橋本淳インタビューの補足より)



◎ジャニーズ『若い涙』(1stシングル、1964.8、VIC)
   作詞:永六輔、作曲:中村八大、編曲:寺岡真三
⇒記念すべきジャニーズ最初の曲は『上を向いて歩こう』の作家陣が制作。


当時、4人のメンバーは高校生で、学業を優先した芸能活動をしていました。中谷良堀越学園の芸能人入学第1号だったそうです。中退はしていますが、4人は日大芸術学部にも進んでいます。またジャニー社長の言葉を抜粋。

 本当の芸能界で働けるのは、本物のエンターティナーになるのは30歳をすぎてからじゃなくては無理なんだ。だから、あせっちゃいけない。あせる必要はちっともないんだ。その日が必ずやって来る。君たちが今の気持ちを捨てずに、少しずつ育てていったら、必ずその日が来る。その日のために、現在の努力を惜しんではいけないんだよ。(P53)


80年代以降は「美少年アイドル」の代名詞ともなったジャニーズ事務所ですが、最初からそうだったわけではりません。その後の変化は、テレビによって求められるタレント像が変化したことによるのでしょう。なので、SMAPが時間をかけて育てられたのは原点回帰とも言えるのです。


64年にはジャニー社長が運転する8人乗りのクライスラーを目印に「追っかけ」が登場したそうです。ジャニーズには大ヒットこそありませんでしたが、熱狂的なファンがついていました。結成から3年目に入った1965年4月、ジャニーズの念願は叶います。舞台は日生劇場石原慎太郎原作『焔のカーブ』というミュージカルで主演を果たしました。


ジャニーズ事務所が設立したのは、渡辺プロから独立した1965年でした。ここから育成とプロデュースはジャニー社長、マネージメントはメリー副社長という体制になっています。順調に活動を続けているように見えたジャニーズは、1968年12月、活動期間5年9ヶ月で解散しました。平均年齢20.3歳でした。「30歳を超えてからが本当の勝負」ではなかったのでしょうか? 一体何があったのでしょう? 


◉ジャニーズは世界に通用するグループだった

1966年夏、ジャニーズはジャニー社長とともに渡米します。数あるレギュラー番組があったにも関わらず、それを断ってのアメリカ修行です。メンバーであった真家ひろみの著書には、番組スタッフもハワイまで一緒に旅行したと書かれていました。結成当初の約束は守られたのです。


当時、芸能界で食べて行くというのは、夢のような話でした。芸能人がまっとうな職業であるという認識もなかったのです。その中で、4人のメンバーの両親を説得するために、ジャニー社長はいくつかの条件を飲んだようです。例えば、学業を疎かにしない。そして、アメリカでのダンス修行。ジャニー社長はその日のためにアメリカ大使館からの給料を米ドルで貯金していたと言います。


日本人が自由に海外渡航出来るようになったのは1964年からでした。まだまだ海外が遠くにあった時代。ロサンゼルスにあるジャニー社長の実兄の家に滞在し、ダンスレッスンとミュージカル観劇の日々を過ごします。そして、ジャニーズは全米デビューのチャンスを掴みました。現地でアルバムのレコーディングをしたのです。当時は1ドル=360円の時代です。お金で買った全米デビューはありません。ジャニーズはエンターテイメントの本場であるアメリカの芸能関係者から観ても、魅力的な存在だったのです。もちろん、坂本九の大ヒットと同じ作家の作品を歌っているグループというのは、売り込むのに役だったことでしょう。


しかし、ジャニーズの全米デビューは幻に終わりました。レコーディングを済ませて、日本に一時帰国した彼らは、再びアメリカに戻ることはなかったのです。なぜでしょう? これは今もなお謎のままにされている部分です。


それでもジャニーズの実力が認められたことには変わりありませそん。その証拠に、ジャニーズに提供された楽曲は素晴らしい作品でした。そのうちの1曲、あおい輝彦が歌った『ネヴァー・マイ・ラブ』は、後に西海岸のソフトロックのグループ、アソシエイションの作品となり、全米1位に輝いています。Youtubeで簡単に聴くことができます。ぜひ、聴いてみてください。もし、ジャニーズのレコードが発売されていれば… そう考えられずにはいられない出来事です。



1967年1月、ジャニーズはアメリカから戻って来ました。当時、日本の芸能界は激動期でした。長髪、ラッパズボン、エレキギター・・・GSの大ブームが起こっていました。日本語ロック最初のムーブメントです。かつてシングル『バットマン』『ガール・ハッピィ』でジャニーズのバックバンドを務めたブルーコメッツ、『焔のカーブ』でバックを務めたスパイダースが大人気となっていました。



お笑い芸人ですらスーツに蝶ネクタイという姿でテレビに登場していた時代です。GSグループの不良性は、テレビには向かないという声もあったようです。これまでのジャニーズ関連書籍では、GSブームでジャニーズの居場所がなくなったことが解散の理由だと書かれています。


1967年7月には、ジャニーズ最後のミュージカルとなった『いつかどこかで』が開催されています。そこでは次のトップグループ、フォーリーブスがお披露目されているのです。物語は、卒業を控えた四人(ジャニーズ)が、その記念にアングラ・レコードを製作する。それを同級生の女子生徒がひそかに、ラジオ局のDJ番組にしのびこみ、本番中にレコードをすりかえてしまう。偶然にラジオで流れた、そのレコードはたちまちのうちに評判をよんで、リクエストが山のように集まる。


 ディスク・ジョッキーは、この幻のレコードの四人組をさがしだす。グループ名は『フォーリーブス』四人がばらばらに去って行くという意味で。(ジャニーズ・ファミリー、P67)


物語の前半は以上のようなものでした。ここまで読んだだけでも、ジャニーズ解散を匂わせる内容だとわかります。このミュージカルが開催されたとき、ジャニーズの解散はまだ発表されていませんでした。そして、次のトップグループ、フォーリーブスの名前はこのミュージカルから取られているのです。


このミュージカルの内容は、すでにジャニー社長の関心が次のグループ、フォーリーブスに移っていたことを証明しています。一体、なにがあったのでしょう? 元メンバー真家ひろみ(立花正太郎として)の著書『ハイ!どうぞ-ジャニーズ・タクシー奮走記』(1993年、マガジンハウス)には、以下の記述があります。


 昭和四十二年、ジャニーズは民音主催の和製ミュージカル『いつかどこかで』を全国公演。新グループ[フォーリーブス]を前面に押し出すこの舞台を最後に、その年の暮れ、約束通り解散した。(P25)


文中の「約束」という言葉が意味深です。ジャニーズの解散を条件にこのミュージカルは行われたとも読み取れる内容です。ミュージカル『いつかどこかで』は、ジャニーズ事務所で最初に行われたトップ交代の儀式でした。さらに、元メンバー中谷良の著書『ジャニーズの逆襲』(データハウス、1989年)を入手したところ、決定的なことが書かれていました。


 とにかく私は、本心から解散などしたくなかった。少なくともあの時点では。本当に最盛期でこれからという時だったのですから。
 真家がどうしても辞めたくなった理由は、後から聞いたことではメリーさんとの金銭トラブルということですが、理由のひとつとして、ジャニーさんのあのこともあったのではないかと思われるのです。


その話し合いは、アメリカで行われたそうです。そろそろ一度日本に帰国しようかという時期でした。しかし、1967年の11月までは仕事の予定も詰まっていたそうです。それまでは解散を口にせず、やり通すことを約束して、真家の「独断」を認めるしかなかったと書かれています。真家が書いた「約束」という言葉も、このことを指しているのでしょう。ジャニーズは解散を決意して、日本に帰国していたのでした。


ジャニーズ事務所が50周年を大きく祝わないのも、ジャニーズ解散がこのような内紛の結果としてあったからでしょう。ジャニーズはこれからという時に解散したのです。ジャニー社長はそれを「裏切り」だと思ったのかも知れません。ジャニーズの楽曲は現在に至るまで、まとまった形でCD化されていません。(つづく)