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ジャニーズの教科書。第4章「少年から大人へ」②

今回はフォーリーブスです。子供の頃、彼らが歌う『ブルドック』の歌詞「♪ にっちも さっちも どうにもブルドッグ WAO!」が流行しました。この曲の作曲、編曲は都倉俊一ですよね。そう、いま話題の新国立のデザイン案を選定した有識者会議のメンバーですw 見識のあるところを示して欲しいものですね。



◉ジャニーズの教科書。第4章「少年から大人へ」①
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20150706/1436192971


フォーリーブス年表
1967年7月 ジャニーズの最後のミュージカルとなった『いつかどこかで』において、フォーリーブスの4人が原宿族役の中谷良の子分として出演。
1967年8月 『日劇エスタンカーニバル』でジャニーズのバックダンサーとして、フォーリーブスも出演
1967年10月 バラエティ番組『プラチナゴールデンショー』(日テレ)にフォーリーブスの名前でジャニーズJr.の4人が出演。当初は小学生の永田英二がメンバーだったが、これを機に青山孝が加入
1967年12月 ジャニーズ解散公演が渋谷公会堂で行われる
1968年9月5日 フォーリーブス、シングル『オリビアの調べ』でデビュー
1969年?月 ジャニーズ事務所のあるマンション前で追っかけ一斉補導
1970年1月 ジャクソン5『I want you back』ビルボード1位に
1970年12月 紅白初出場、プロマイド売上1位
1971年9月 郷ひろみ、入所
1971年10月 EPIC1号アーチストとしてハイソサエティ、デビュー
1972年1月 郷ひろみ大河ドラマ『新・平家物語』に出演
1972年10月 フォーリーブス、シングル『あなたの前に僕がいた』発売
1972年11月 郷ひろみ、シングル『男の子女の子』でデビュー
1973年12月 フォーリーブス、米ティーン誌で外国人アーチスト人気No.1に
1977年6月 34枚目のシングル『ブルドック』発売も売れず、紅白落選
1978年5月 7月26日から予定されていた全国ツアーを解散ツアーにすることを確認。
1978年7月 最後のシングル『THE END-思いがけず出会ったら-』発売
1978年8月 新宿厚生年金会館でラストステージ。フォーリーブス解散



フォーリーブス北公次を中心にジャニー社長がスカウトしてきた4人のグループです。歌って踊れるグループというのは初代ジャニーズと同じですが、雰囲気はもっと現在のグループに近いものとなっています。ジャニーズのさわやかな若者風に比べて、メンバーのルックスが中性的なかわいさを持っていたからです。メンバーは以下の4名です。(生年月日/入所年/デビュー時の年齢)


北公次(1949年1月20日/65年1月入所/19歳だが17歳で公表)
 ⇒ジャニーズを観に来た北をジャニーさんが一目惚れしてスカウト

青山孝史(1951年8月10日/67年10月入所、16歳)
 ⇒スクールメイツにいた実力派の彼をジャニーさんがスカウト

江木俊夫(1952年6月4日/66年*月入所/15歳)
 ⇒『マグマ大使』などに出演した子役出身、テレビ撮影時にスカウト

◎おりも政夫(1953年7月4日/66年*月入所、14歳)
 ⇒モデル経験者。彼はどこでスカウト?


フォーリーブス・シングル・リスト
1. オリビアの調べ(1968年9月)9.3万枚
2. 涙のオルフェ(1968年12月)8.0万枚
3. 恋するジャック(1969年3月)8.8万枚
4. シャボンの匂いの女の子(1969年8月)6.2万枚
5. ひとりぼっちになった時(1969年10月)圏外?
6. 君にこの歌を/ 課外授業(1969年11月)7.0万枚
7. 若者は旅をつづける(1970年2月)9.3万枚
8. ある兵士の賭け(1970年5月)5.2万枚
9. あしたが生まれる(1970年7月)10.4万枚
10. 人生は一度きりだから(1970年11月)4.3万枚
11. 約束(1971年3月)5.8万枚
12. 夏の誘惑(1971年7月)17.4万枚
13. 地球はひとつ(1971年11月)15.0万枚
14. はじめての世界で(1971年12月)10.4万枚
15. 新しい冒険(1972年3月)12.0万枚
16. フォーリーブスヤンヤン体操(1972年7月)4.2万枚
17. 夏のふれあい(1972年7月)13.0万枚
18. あなたの前に僕がいた(1972年10月)16.8万枚



フォーリーブスはGSブームの最中にデビューしています。そのため、楽器こそ持っていませんが、GSが持つ雰囲気は積極的に取り込んでいました。デビュー時の平均年齢は15.5歳でした。レコード会社はCBSソニーです。数々のスターを生み出した酒井政利プロデューサーがフォーリーブスを担当しています。酒井の著書には以下のような文章がありました。


「舞台、雑誌、テレビに登場させ、人気が沸騰したところでレコード・デビューさせたいと考えているの」
 事務所のメリー喜多川さんは、そんなマネージメント方針を打ち明けてくれた。今や、ジャニーズ系と言われるくらいの流行語になっているが、そのジャニーズ事務所の原点とも言うべき、方針だった。
「それじゃ、ぜひCBSソニーの第1号歌手としてデビューさせるのはどうでしょう」
 この交渉は即座にまとまった。メリーさんもそろそろ彼らをレコード・デビューさせる時期だと思っていたのだ。実にタイムリーであった。(酒井政利著『プロデューサー』時事通信社2002年、P52)


フォーリーブスのときには、すでに人気のピークでデビューさせるという方針がはっきりとあったのです。デビュー曲『オリビアの調べ』はGS3大作曲家(©黒沢進)の一人・鈴木邦彦が手掛けています。タイトルの「オリビア」は、大ヒット映画『ロミオとジュリエット』の主演女優オリビア・ハッシーから酒井が付けたそうです。CBSソニー邦楽部の最初のヒット曲でした。


ちなみに、作詞は北公次とクレジットされていますが、後に北自身によってジャニー社長が作詞したと語られています。これ以降もすべてそうです。初代ジャニーズの結成のきっかけは映画『ウエスト・サイド物語』に4人が感動したことでした。そして、その映画は、シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』をベースにして作られたものでした。ニューヨークを舞台に、人種対立をテーマに書き換えられた物語だったのです。フォーリーズスのデビュー曲にもジャニーズ事務所の原点が刻まれていました。


フォーリーブス『オリビアの調べ』(1stシングル、1968.9、CBS
   作詞:北公次、作曲:鈴木邦彦、編曲:森岡賢一郎
⇒ジャニーズの物語の源流に『ロミオとジュリエット』がある。


フォーリーブスは大ヒットこそなかったものの、1970年に『NHK紅白歌合戦』に初出場して以降、7年連続出場を果たしています。当時、紅白出演は芸能界でのステイタスであったことを考えると、立派なスターであったと言えるでしょう。また、ジャニーズが登場することがなかった月刊『明星』の表紙にも登場しています。


劇作家・寺山修司作詞の『涙のオルフェ』、阿久悠作詞、筒美京平作曲の『約束』、そしてジャニーさん作詞のセリフも面白い『地球はひとつ』など。他にも『踊り子』『急げ!若者』『ブルドック』他、現在でも評価されている楽曲を数多く残しています。フォーリーブスは78年に解散するまで、ジャニーズ事務所の兄貴分として慕われてきました。しかし、トップグループ制で言うと、72年11月の郷ひろみデビューを機にトップの座を降りています。


♪ いつの間にかめざめた 僕の恋のものがたり
  なやみのふえることばかり
  秋の前には夏があったのさ
  あなたの前には 僕が 僕がいた


上の歌詞は、郷ひろみデビューの前月に発売されたフォーリーブスのシングル『あなたの前に僕がいた』のものです。すでに書いたように、作詞はジャニー社長ですが、北公次の名前で出されているのです。郷ひろみの前には僕がいた。なかなか意味深な歌詞と言えそうです。この歌詞をトップ交代を示す歌詞と考えるのは、私の深読み故でしょうか? しかし、郷ひろみの前には確かにフォーリーブスがトップに君臨していたのです。初代ジャニーズのときには、舞台でトップグループの交代が示されました。そして、フォーリーブスから郷ひろみへの交代では、このように歌詞で示されたのでしょう。


フォーリーブス『あなたの前には僕がいた』
  (18thシングル、1972.10、CBS
   作詞:北公次、作曲:都倉俊一、編曲:都倉俊一
⇒トップ交代を示した最初の曲? 作詞はジャニー社長。


フォーリーブスは1978年まで活動しています。その後、2002年を初めとして何度か再結成し、ステージでファンを喜ばせています。しかし、2009年に青山孝志、2012年2月に北公次が亡くなり、もう4人揃った姿を観ることは不可能になりました。