ハノイの日本人

アイドル、ジャニーズ、サッカーなど。

渋谷系とデータベース消費7。

ひと月以上書けませんでした。その間ずっと東浩紀著『動物化するポストモダン』の1と2を読んでたんです。読んでると「なるほど!」って思うんですけど、その後自分の言葉で説明しようとしても、まったく出来ない。たぶん、私が思想のデータベースを持っていないからなんでしょう。でも、凄い本ですよ。緻密に書かれているから、読む度ごとに発見があります。多少の間違いはあるかもしれませんが、今回、このシリーズのまとめを書いてみます。当然ですけど、私の文章を読むより、東さんの本を買った方がいいですよ。これはあくまでも自分の理解を深める為に書いてる文章ですから。


動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)


渋谷系とデータベース消費1〜6
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20160618/1466189435
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20160621/1466466582
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20160626/1466906658
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20160701/1467326435
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20160705/1467684666
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20160712/1468268461


『物語消費に支配されたオタク系文化においては、作品はもはや単独で評価されることがなく、その背後にあるデータベースの優劣で測られる。そしてそのデータベースはユーザーの側の読み込みによっていくらでも異なった表情を現すのだから、ひとたび「設定」を手に入れてしまえば、消費者はそこから原作と異なった二次創作をいくらでも作り出すことができる。この状況を表層でだけ捉えれば、オリジナルの作品=原作が無秩序にシミュラークルの海に呑み込まれていくように見える。しかし、実際には、それは、まずデータベース=設定があり、その読み込み方によって、原作もできれば二次創作もできるという現象だと捉えたほうがよい。
つまりオタク系の消費者たちは、ポストモダンの二層構造にきわめて敏感であり、作品というシミュラークルが宿る表層と設定というデータベースが宿る深層を明確に区別しているのだ。』(『動物化するポストモダン』P54)


この「シミュラークル」という言葉は、フランスの社会学ジャン・ボードリヤールが使った言葉です。ポストモダンの社会では、作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない「シミュラークル」が支配的になると予測していたのです。東さんの上の説明ではっきりとわかりますよね。渋谷系だけでなく、HIPHOP、ハウス、テクノ、アイドル・・・・みんな二層構造になっています。


例えば90年代、HIPHOP渋谷系、アイドルが好きだった私は、その理由として「どんなものを放り込んでもOKな器の大きさが好きだ」と言ってました。ジャニーズもそうですよね。アイドルが歌い踊るアイドル・ポップスという表層と、新旧問わないあらゆる音楽、過去のジャニーズを連想させる言葉、あらゆる要素が情報化されて存在するデータベースの二層構造。



ベリッシマ

ベリッシマ


渋谷系で言えば、音楽だけでなくジャケット・デザイン、タイトルや歌詞で引用される映画のセリフや小説の言葉なども重要な要素ですよね。ピチカート・ファイヴ小西康陽はその知識の豊富さと編集センスで、絶大な支持を受けたり、疎まれたりしてました。「こんなのいいとこ取りじゃないか?」そんな指摘もあったはずです。


『ルソーを持ち出すまでもなく、かつては、共感の力は社会を作る基本的な要素だと考えられていた。近代のツリー型世界では、小さな物語(小さな共感)から大きな物語(大きな共感)への遡行の回路が保たれていたからである。しかしいまや感情的な心の動きは、むしろ、非社会的に、孤独に動物的に処理されるものへと大きく変わりつつある。ポストモダンのデータベース型世界では、もはや大きな共感など存在しえないからだ。そして現在のオタク系作品の多くは、明らかに、その動物的処理の道具として消費されている。このかぎりで、オタク系文化における萌え要素の働きは、じつはプロザック向精神薬とあまり変わらない。そして同じことは、また、ハリウッド映画やテクノ・ミュージックなど、さまざまな娯楽産業の働きにも言えるのではないか。』(『動物化するポストモダン』P139)


厳しい指摘ですよね。でも、この文章に頷くミュージシャン、リスナーは案外多いのではないでしょうか? 私たちが音楽を聴いてテンションがあがるポイントは、結構、はっきり指摘できますもんね? 例えば、4つ打ちの曲が来たら飛び跳ねるとか。こういうのを動物化と言われれば頷くしかありません。自分の萌えポイントをひとつあげるごとに一歩ずつ動物に近づいた気がして来るのです。しかし、だからと言って好きな音楽に意味付けしても仕方ないのです。


『近代の人間は、物語的動物だった。彼らは人間固有の「生きる意味」への渇望を、同じように人間固有な社交性を通じて満たすことができた。言い換えれば、小さな物語と大きな物語のあいだを相似的に結ぶことができた。
 しかしポストモダンの人間は、「意味」への渇望を社交性を通して満たすことができず、むしろ動物的な欲求に還元することで孤独に満たしている。そこではもはや、小さな物語と大きな非物語のあいだにいかなる繋がりもなく、世界全体はただ即物的に、だれの生に意味を与えることもなく漂っている。意味の動物性への還元、人間性の無意味化、そしてシミュラークルの水準での動物性とデータベースの水準での人間性の乖離的な共存。』(『動物化するポストモダン』P140)


じゃあ、どうしたらいいの! たぶん、東浩紀著『弱いつながり』にヒントが書かれているんだと思います。発売時にも読んだんですけど、どういう意図で書かれた本かわかりませんでした。でも、今ならもう少し読めるのではないか?