ハノイの日本人

アイドル、ジャニーズ、サッカーなど。

震災・新海・シンゴジラ。

ゲンロン批評再生塾、第二期の最終選考会が豪華ゲストを迎えて行われました。受講生の提出した作品に震災をテーマにしたものが多かったことを受け、講師陣が語った部分を10分ほど文字化しておきます。ちょうど2時間過ぎたあたりです。


◉【無料生放送】高橋源一郎×菊地成孔×東浩紀×佐々木敦「『XX批評宣言』を起草せよ。」(ニコ生)
http://live.nicovideo.jp/watch/lv291355300?ref=top&zroute=index&kind=top_comingsoon


◉山下 研「界面批評宣言――『ゴジラの命題』と近現代日本サブカルチャー」(第二期総代の作品)
https://goo.gl/m0e5Za


佐々木敦:最終的に「総代」を決めるうんぬんについては、別室に移動してからにするとして。まず、どうしましょうか?
東浩紀:全体の総評をしますか。
佐々木:そうですね。総評を伺って行きますかね。
東:じゃあ、僕から言いますと、とにかく東日本大震災ばかり考え過ぎなので。こういうことを言うと問題なのかもしれませんが、やはり、もう少しコンテクストを複雑化する・・・って言うかですね、震災についての理解が単調なんですよね。
佐々木:取り上げることの問題よりも、取り上げ方の問題ですよね。
東:そう。それに今の僕たちの社会、震災後ってすごくいろんなことが起きてるわけですけど。この5、6年でも。日本だけではなく、世界的にも、震災で起きたことを、災害の悲劇をどう記憶するかだけではない、いろんな観点で切れるはずなので。それがなにか災害を共有するにはどうしたらいいのかという問いだけになってるのは、震災の理解として貧しいと僕は思いました。それが共有されてるのは問題だと思いましたね。
佐々木:まったく示し合わせたわけでもないのに、本当に同じ・・・
菊地成孔:震災・新海・シンゴジラ(笑)。
佐々木:(笑いながら)そうそう、そういう「シン」問題が出て来ちゃったのは、僕もわりと意外と言うか。ただ、一番最後の最終課題で、1年の総まとめということで大きな問題に取り組む前提を無意識的に生んじゃった感じもあると思うんですよね。それ自体が悪いわけじゃないんだけども、今言われたように、震災を考えること自体にバリエーションがないと。しかも、それを論の入口にしたり、論の大きな枠組みにしてる人が多いので、そうすると中身もそれに拘束されて行ってしまうというのが全体にありましたよね。ここまで「シン」が浸透するとは思ってなかったので意外ではありましたけどね。
東:佐々木さん、授業でそんなに震災の話してたの?
佐々木:全然してない。まったくしてない。しかも、後半に先生方が繰り返し言ったというのもないので、これはさっきも言ったように、最後だということが大きな主題を引き寄せたのかなと思います。
菊地:震災は・・・言葉を悪く言うと魅力的で。
佐々木:そうそう、まあね。
菊地:魅力的である上に、魅力的であるということはすごく危険なことで。複合的な、コンプレックスな魅力があるわけですよね、震災には。で、震災を語ろうとしたときに、社会的な・・・特に社会倫理ですね。それによって震災の語り口が相当削ぎ落とされて、形成されてしまっていることに対する怯えと言うか、タブーを感じずに、パッと震災を手に取ってしまった感じがあるんですよ。だから、本当は批評というのは、なんか小さい方法論があって、今回は特に方法論をだして、それによって全部のことを語れるようにすればいいんだって・・・
佐々木:まあ、そうです(課題は「◎◎批評宣言」)。
菊地:例えば、人を殺そうとしたときに地面が揺れた人もいると思うわけ。その人は地震がきたおかげで殺人者にならなくて済んだ。しかも生き延びた人にとって震災はいいことかもしれないというような想像力が・・・今、パッと言ったから適当ですけど。とにかく、震災が誰もが考える一面的、誰もが考えるステレオタイプな悲劇だとなってしまっているのを土台にして、批評の軸ですか? みんがパッと手をだす素材になっているのは・・・ そもそも枠取りされたものがみんなの素材になっているのは問題だと思いますよね。もし震災を扱うんだったら、震災がわれわれに課してる拘束感、倫理的な拘束感や、理論的な拘束感、いろんな拘束を外す力を持つ震災感がないと批評にならないとは思います。
高橋源一郎:もう、東さんと菊地さんが言った通りで。震災から6年が経って、僕は2011年の夏に『恋する原発』という小説を書いて。
佐々木:最近、文庫化されましたよね。
高橋:あのときに思ったのは、書くのが難しい、どう書いてもいいかわからない不安感。で、これは正しいかどうかもわからないけど、とりあえず、まあ、手を出すしかないと言うかね。不安があったんです。そのときに考えたんです。同じように、いわば闇の中に「こうかな?」って手を出した一人。東さんの話もあるかなと思うんですけど、批評っていうのはひとつ知性を必要とする。知性というのは野蛮なものだと思うんですよね。つまり優等生というものではなくて、それは頭がいいということだけども。それはどういうときに発令するかわからないけど、準備のないときに書きだすとか。そういう畏れとか、怯えとか、そういうものが批評には欲しい。今回、みなさんに不満に思ったのは、菊地さんがおっしゃったように、畏れとか、怯えとか、恐怖とか、書けないとか、これは難しいというのが感じられなくて、震災というテーマを書いてやろうと。で、そもそも書けるのか?という怯えとかはなかった。つまり、それは6年経ったからじゃなくて、本当の批評的知性というのは、そういう怯えを感じてしまって、人が見えないものに反応するとかね。そういうのが批評的知性だと思う。そうすると、うまく書けてるのもある。でもなんか不満を感じるとしたら、そういうものがあまり感じられなかった。震災を「フッ」と扱って、こういうやり方があるって、その前に怯える・・・
佐々木:どうしたらいいかわからないと言うか・・・
高橋:うん。そういうことが別に直後だけじゃなくてね。
菊地:震災をガソリンみたいな第一次的エネルギーと考えて、それをつかってる作品を批評しましょうってことで『シン・ゴジラ』が引っ張りだされる、『君の名は。』が引っ張りだされるという構図が多かったと思うんですけど。震災ということ自体に肉薄しようとしたときに、高橋先生がおっしゃったような、もっともっと我々には悪の想像力があるわけだし、善か悪かもわからないような想像力もあるわけで。長い間いいものだとされていた有鉛のガソリン。有鉛のガソリンがよくなったり、無鉛のガソリンよくなったり、ガソリン自体がダメになったり、ガソリンがよくなったりといった根本的なエネルギーに関する問いがなくて。震災ってことに関して誰もが共有できる、意味が1個しかないエネルギー源として使っちゃって。それをどうやってメタファーとして持ってくる作品が売れたかって現象になってると思うんですよね。でも、それは無難と言うか、批評ではない。誰でも考えつくことだと思うんです。
東:そうですよね。これ、逆説的だと思うんですけど、震災が風化してきたことの現れですよね。
菊地:そう、そう! その通りだと思う。
東:震災についてはこう語ればいいというコンテクストが共有されてしまっている。
菊地:その通り!
東:だからこそ『君の名は。』と『シン・ゴジラ』はみんな安心して観れて。それを論じる評論がいっぱい出て来ると。
佐々木:その延長線上に、今回の最終候補もだいぶハマってしまったってことですね。
東:そうですね。
佐々木:本来であれば、それを前提にしてひっくり返すということをやってほしかった。(一同:そうです!)
菊地:震災の家畜化、栽培化が5年経って行われてるという発想がまるでなかったんで、そこが残念でしたね。震災が家畜化されてしまって、一義的になりすぎたの。もっとびっくりしてたときの方が、人のイマジネーションを揺さぶってたと思うんだよね。なんだかしらねーけど、どっかの動物園から逃げたトリが国道を走ってたりする画を観て、現代美術だなと思ったりしたわけよ(笑)。あのときの一時的に発狂してるような状態。そういうときのイマジネーションからだいぶ家畜化されて、震災というのはこうやって扱うものだ。メタファーとしてもなぜ家畜化されているとかと言うと、ヒットした映画が家畜化されてるからで。そういう話に取り込まれちゃってるからと思う。
東:だから、6年経つとこうなるんだなって感じですよ。つまり、震災をどう記憶し続けたらいいかというテーマになってるんですよね。だから忘れてるんですよ。
菊地:そう、そう。
東:「あの日」とかになってるわけでしょ? 
佐々木:「あの日」って出て来るしね。
東:そう。「あの日」っていう、本来だったら私たちは忘れちゃってるものとして捉えられてるんですね。書き手にとって。



このあと、菊地さんがドラマ『最高の離婚』が震災についてぎりぎりのラインで表現してるという話をされてます。高橋源一郎さんも「へえ、そんなドラマが」って感じで聞いてたんですけど、あなたはそのドラマの脚本家・坂元裕二の最新作『カルテット』第3話に登場してるじゃないですかw ちなみに『最高の離婚』はNetflixで観れますよ。