ハノイの日本人

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ジャニ友・宅八郎 インタビュー。 前編

今回の「ジャニ友インタビュー」はオタク評論家の宅八郎さんにご登場いただきました。89年「宮崎勤の連続幼女誘拐殺害事件」により「おたく」という存在がバッシングを受けていたなか、森高千里のフィギュアやマジックハンドを持って「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」などに登場。世間の「おたく」のイメージを反転させた「元祖・オタク」が宅さんです。


現在は評論だけでなく、バンドやDJ、リミキサーなど音楽活動も平行しているとのこと。それも意外かもしれませんね。ですが、今回は宅さんのあまり知られていない一面、「ジャニーズ・ファン」の側面にスポットを当ててインタビューさせていただきます。なお、このインタビューは宅さんの書類送検が行われる前に収録されたものです。宅さんの「言い分」は以下でどうぞ。


宅八郎書類送検も「謝罪はしない」「起訴も覚悟の上」
http://www.menscyzo.com/2009/10/post_444.html


——お忙しい中、ご登場ありがとうございます。久しぶりに宅さんのジャニーズ話を聞けてとてもうれしいです。では、さっそく。最初に好きになったジャニーズのタレントは誰ですか? また、どの曲ですか?
宅さん:大変御無沙汰しております。こういう形で『再会』できて大変嬉しいです。積もる話もありますが、質問に対してお応えする形で(読者様に)お話ししていきます。
それはボクが小学生の頃の話になります。まず、ボクは「昭和の人間」です。読者様、そこから理解をして読んでいってください。ボクはもう47歳なので若い方にはあまりに古い話になってしまいますよ(苦笑)。ほぼ昭和40年代後半(70年代初期)ですね。フォーリーブスの印象はもちろん強いですが、もっとも鮮烈だったのは少年時代、17歳で歌手デビューした郷ひろみさん。昭和47年、つまり72年デビュー曲の「男の子女の子」です!



——やはり郷ひろみ。どういう印象を持ったんですか?
宅さん:タイトルを含めた楽曲(作詞作曲)の魅力に加えて、少年時代の郷ひろみの不思議な声やキャラクター。当時の小学生でも女子には「カワイイー」と人気がありましたが、男子には「うわー、メチャメチャ気持ち悪い」と不気味がられていまして(失礼)、ある意味で危険すぎる魅力があったんですね。


——不気味ですか、それは驚きですね、、、
宅さん:男子には、ですね。それは後々考えれば、まだ何も知らない同世代の子供心にも「一線を超えてはならない禁断のホモセクシャリティ」のような何かが感じ取られたんじゃないでしょうか。


——いきなり出ましたね(笑い)。
宅さん:これはジャニー喜多川さん御自身の「萌え」におそらくつながるので、後に資料を提示して詳しく迫ります。それが「ジャニーズとは何か」を解体することにつながると思うのです。


——そのときは「ジャニーズ事務所」の存在を意識されていたのでしょうか?
宅さん:フォーリーブス草創期(演奏をしないグループ=GSと似て非なるもの)からの印象はボクにも(後年得た知識という意味でなく)原体験としては忘れている面がありますが、事務所にも何らかの意識はあったかと思います。


——まあ、40年も前の話ですもんね。
宅さん:しかし、バックバンドやバックダンサーなど、ジュニアが投入されていったりしたので、同じ事務所というのはだんだん強く理解していきました。たとえば、あおい輝彦元祖ジャニーズ)が歌うテレビ画面には応援しているフォーリーブスの面々が映っていたり、また「弟分」の郷ひろみがテレビ出演した際には、フォーリーブスが見守っていたこともありました。さらに、北公次が非業の死を遂げるフォーリーブスの映画があったんですが、当時のジュニア何人かも出てましたし、死んだコーちゃんの代わりに何と郷ひろみフォーリーブスのメンバーになってしまうような「フィクション」さえあったんです。


——明らかにファンにショックを与えようとしてます(笑い)。見たいなー。
宅さん:諸問題がからんでいるので現在観ることは出来ないと思います。ただ、当時そうした状況がありましたので、「ジャニーズ事務所」の存在には確かに意識がありました。
ボク自身、本気でジャニーズ事務所に入りたいと思っていたくらいです!


——小さい頃からそこまで思っていましたか! 当時としては珍しい感覚だったでしょうね。私がジャニーズに入りたいと気づいたのは20歳の頃、SMAPの紅白初出場をテレビで見たときでした。
宅さん:このインタビューの冒頭にまず言っておかなければならないことがあるか、と思います。それはボクの「ジャニーズ観」の基本です。ジャニーズとは、この日本が産んだ一つの「風土病」だということです。ボクはその難病研究に歳月を費やしてきたとも言えます。


——うん? ジャニーさんの「病癖」のことではなく、日本の「風土病」なんですか?
宅さん:ボクの「表現」はダブル・ミーニングや下手するとトリプルにしてしまうので、誤解を招いてしまうことが多いんですが(苦笑)。真意としては、セクシャリティは様々なので、人の性癖を「病気」と差別しているだけのつもりではないんです。留意するなら、ジャニー喜多川さんは日本を代表する大プロデューサーであり、その「作品」(人・モノ・コト)もまた日本のヒットチャートの最上位にあるわけです。そして海外(特にアジア圏)でもジャニーズ人気があるのは分かります。しかし、単に「Japanese Super Star」といった受け止められ方だけではボク困っちゃう。ボクは日本独自のモノだと考えているわけです。『伝統芸能』もある意味、風土病かもしれません(笑い)。


——それは、例えば「おすぎとピーコ」のような芸能人がテレビで大御所的なポジションを獲得しているような日本の状況をさして「風土病」と言われているのでしょうか?
宅さん:いえいえ、確かに大御所である「おすぎとピーコ」さんはゲイであり、そのことを誰もが知っていて認知されているゲイ能人だと言えます。彼らはゲイらしくゲイとふるまって、大衆が喜ぶようにゲイ(芸)を見せる。それを観て視聴者が笑い、楽しむ。それは大衆との「お約束」であるとも言えます。「想定内」であり、健全ですよね。それは風土病とは思いません。「想定外」=何かを超えてしまっていく(ゲイさえ超えていく)現象については、これからお話ししていきましょう。


——はい。ちなみに、最初に買ったレコードはなんですか?
宅さん:ジャニーズに限らずアイドルではなく、アニメや怪獣、特撮などの子供番組や映画のソノシートだと思います。レコードでなくソノシート(苦笑)。


——あははは。それは世間の宅さんのイメージと重なるでしょうね。怪獣やヒーローと同じようにジャニーズのタレントに憧れたって感じなんですか?
宅さん:まさにマンガやアニメ、特撮番組のヒーローにジャニーズは重なっています。そのあたりは分かりにくいと思いますが(苦笑)。少しでも読者のみなさんに分かりやすく例えれば、何年か前にTVCMで「科学忍者隊ガッチャマン」をSMAPが演じたでしょう。グッときませんでしたか(苦笑)?



——一方で宅さんは、最先端のカルチャーも好きだったんでしょう? どんな音楽を聴いていたんですか?
宅さん:どの時点かによりますね。高校生までと上京して大学生になってからでは、事情が異なってきたりします。境界は1980年頃とも言えます。70年代までのボクは間違いなく、オタク・カルチャーの人間なんです。たとえばアニメソングで知らない楽曲はなく、すべて歌えました。ところが80年頃を境に広い意味での文化への関心が変わっていきました。


——それは宅さん自身の環境の変化によるところが大きいんですか?
宅さん:やや微妙なんですよ。ボクにとっては、高校三年生から大学一年生までの個人史なんです。地元の浜松(静岡県)に住んでいたオタクどっぷりの高校生でありながら、例えば音楽状況ならテクノポップ・ブームやニューウェイヴの勃興へと時代は突き進んでいき、そこにも魅力を感じるようになっていった。
ところが、大学進学によって、それらの先端カルチャーは東京の地で「この目で、まの当たりに見ることが出来る環境」になった、というわけです。ここで誤解されたくないのは、「都市と地方」を差別的文脈で言いたいわけではないんです。ボクは大学ではメディア論を専攻していましたが、地方であっても、中央の文化は伝達し形成し成立します。ところが、いわゆる大手メディアに乗らないような、地方では手に入れにくい情報もあるということですね。


——自分の関心と環境の変化が、タイミングよくリンクしているように見えますね。そのあたりの80年代カルチャーの話は、また、どこかで聞きたい気がします。
宅さん:もし、機会があれば。さて「宅八郎=元祖オタク」でしょ、という多くの方々からの見られ方がある反面、wakita-Aさんを含めてかもしれませんが、「宅八郎」に誤解をしている方も世の中には多いんですよ。「いやいや宅八郎は偽オタクなんでしょ」みたいなね(苦笑)。


——あっ、私は宅さんが本当に「オタク」だってことは知ってますよ。その一方で、テレビにでていた宅さんが、普段の宅さんと違うように感じたことも事実なんです。もちろん、テレビなんですから普段の自分と違って当然かも知れないですけど。そのように言われるのは、宅さんの周りに「本物」「偽物」うんぬんを言ってくるヤツらがいるからですよね? 宅さんを「オタクの歴史」から排除したい人たちがいるらしいことは私も知っています。でも、その手の人たちは「あいつは俺たちの仲間じゃない」って言ってるだけでしょう?
宅さん:彼らにとってボクの存在は都合が悪いんですよ。「例外」的すぎたりして。その辺はいくらでもお話しできるのですが、テーマからあまりそれないよう、次のようにだけ言っておきましょう。「自分こそが真のオタクであって、宅八郎は偽オタク」ないしは、「宅八郎がオタクなら、自分はマニア。マニアのほうが偉いんだ」といった言説などなど。これらはすべて論理的には同じコトです。その心理は「同一視されたくない」という程度の幼稚なメンタリティでしょう。客観的にはね。これはどのジャンルの世界の人にも言える選民意識のようなモノかもしれませんね(笑い)。


——なるほど。それで話の続きなのですが、80年頃を境に文化への関心の仕方が変わって来たという話でした。
宅さん:音楽だけでなく、カルチャー全般の話です。映画、アートなど多岐にわたりますね。音楽では先端なのかもしれないジャンルへの傾倒についてお話ししましたが、ただ、ボクの場合は音楽ユニットやバンドでさえ、マンガやアニメ的理解だったとは思います。読者に分かりやすくメジャーどころで言えば、デビッド・ボウイにせよ、ジャパンやデュラン・デュランにせよ、「北斗の拳」みたいなものです。確かにボクは先端恐怖症気味で(神経症的には)、サブカルチャーが「サブカル」だなんて呼ばれていなかった頃の文化には詳しいものもあります。ところが、ボクの知識体系というのが非常にバラバラで、「広く浅く」でも「狭く深く」でもない。
「こんなにマニアックなこと(音楽)を知っているなら、このこと(音楽)を知らないわけがないだろう。なのに知らない」みたいな頭の中身なんです。音楽知識も同じ。YMOなんてそれほど好きでもなく、ぼんやり2曲くらいしか覚えてないですよ。なので、間違いなくオタクではあったと思いますが、最新の音楽を聴いていたり、そうでもなかったりと、あまりにバラバラなんです。
アニメソングを聴いていたかと思えば、ジャニーズを聴いていたり、またはキャブス(キャバレー・ボルテール)やスケルトン・クルーを聴いていたり・・・。どれもマニアックと言えばマニアックですが(苦笑)。



——キャバレーボルテール、中古で買ったBOXを持っていました。でも、さっぱりわかりませんでした。工場の音とかが延々鳴っているようなヤツですよね? POPからはほど遠いですね(笑い)。それはさっき言われた体系的でないという言葉につながると思うのですけど、なにか「ピン」と来る物があれば抵抗なくどんどんそこに行ってしまう感じなんでしょうか?
宅さん:本当、そうなんです。人から見ると良く分からないと思いますし、上手く合理的に説明しようとすると大変です(苦笑)。まあ、一般的に世間では隔たりがあるように思えてしまうジャンルや人・モノ・コトが自分の脳内ではつながっていたりします。宅八郎的にはすべて「POP」です!


——そういう人が聴いたときにジャニーズの楽曲はどう聴こえましたか?
宅さん:あまりにも素晴らしいものです。素晴らしすぎると言っても過言ではありません。ボクは音楽はサウンドだけではなく、ヴィジュアルも聴こえてきてしまうようなところがあります。


——ヴィジュアルが聴こえる! 凄い(笑い)。
宅さん:ジャニーズのヴィジュアルはマンガやアニメや特撮のヒーローのようでもあり、ボクはロックや洋楽に詳しくはないのですが、もはや「グラム」だとも「パンク」だとも「ニューウェーブ」だとも言える世界だと思ってました。


——私は宅さんより少し下の世代なんですけど、フィンガー5ピンクレディー沢田研二がそういう存在でした。つまり、阿久悠さんワールドです。でも、沢田研二なんかは明らかにグラムロックを意識してるわけですよね?
宅さん:まず、阿久悠さんについてですが、もちろん、彼は「歌謡曲の巨人」です。プロデューサーとして作詞家として、日本の歌謡界に残した功績には多大なものがありました。ボクは子供向きテレビ番組のソングを含めて、その世界を研究したこともあります。もし、wakita-Aさんの指摘に付け加えることがあるとしたら、都倉俊一さんと共同での「ピンクレディ構築」には第2期山本リンダでなした実験が前提にあったとは言えます。


——ああ、そうですね。
宅さん:ところが、放送作家でもあった阿久悠さんは世界観を作る方であり、病を受け止め理解し、発展させる方ではなかったために、ジャニーズとの親和性はじつはあまり良くはなかったとは私見します(作詞の提供はしていますが)。昭和の時代で言えば、ある時期のなかにし礼さんのほうがまだジャニーズ(というよりジャニー喜多川)を受容しうる部分はあったでしょう。風土病に対する理解で言えば。あ、思い出しましたが、セクシャリティに問題があったとされる寺山修司さんはジャニー喜多川さんに協力した事実、いくつかの詞を提供していた時期もありますね!


——「病を受け止める」か、、、
宅さん:また、ヴィジュアル面をスタイリストの早川タケジが手がけた時期の沢田研二は間違いなくグラム・ロックを意識していたと思います。ただ、それは意識し計算された演出上のグラムです。意識があるんです。ところが、ジャニーズは計算ではなく、結果論として、「症状」としてグラムになってしまっている違いがあるか、とは思います。だからこそ、ジャニーズはグラムともパンクともニューウェイヴとも、そのどれとも言えてしまう世界になっているわけです。もはや意識不明の重体です(笑い)。


——あははは、その感じはわかります。私の一度だけのジャニーズ体験『KYO TO KYO』を観たときの感想が「基地外の頭の中をソフトに見せてもらった感じ」というものでした。
宅さん:うふふ。今、思い出しましたが、フォーリーブス郷ひろみが共演して、ディープ・パープルの「ハイウェイ・スター」や「スモーク・オン・ザ・ウォーター」、などの楽曲を演奏したことがあったんですが、あまりに演奏が下手すぎて、セックス・ピストルズ以下だった。なのに女性ファンたちは黄色い歓声を上げて大喜び。もはや、ハードロックなのかパンクロックなのかさえ分からない、主客入り交じっての爆笑前衛芸術。ヨーコ・オノを超えた「ハプニング」でしたよ!



——あははは! 映像が残ってないのが残念ですね。でも、いまだから笑われていますが、観た当時は熱狂されたんですか? そうでもない?
宅さん:まず、一つ良いですか。プラスチック・オノ・バンドは確かにハプニングです。しかし、ジョン・レノンに(無理矢理?)頼まれて演奏しているアーチストの面々はそうそうたるものです。ボクは有名な方の名前知らなかったりしますけど(苦笑)。当然のことながら演奏レベルは最高です。リズムやビートが狂っているわけではない。そこにヨーコのヴォイスが入っている「ハプニング」です。
しかし、ボクが観たフォーリーブス郷ひろみによるディープ・パープル演奏はヴォーカルどころか、リズムやメロディ、演奏レベルすべてが・・・。要するに踊ることさえ、いや乗ることさえ不可能なレベルの前衛でした(笑い)。そこに観客(女性ファン)の熱狂が加わっているという、まさにハプニング・アートとしか言えないもの。ボク自身も取り憑かれてしまう感覚を抱いたのは事実ですが、女性が怖くなったし、自分の目と耳がどうかなってしまったのではないか、と最初は不安に思ったのを強く記憶しています。しかし、その後には自分の感覚が狂ってはいないと思えるようになりました。なぜなら自分が正気だと気づいたからです。


——あははは。母性についての研究もしておきたいですね(笑い)。たのきん時代は、高校生くらいですか?
宅さん:たのきんは高校生から大学生にかけて、です。田原俊彦デビューが80年でしょ。その年には松田聖子がデビューしています。またテクノポップ・ブームの幕開けでもあり、ニューウェイヴ隆盛にもつながる時代と言えます。


——ああ、そうですね。ジャニーズはテクノポップに背を向けてるんですね。
宅さん:また、たのきんと一言で言っても、じつは野村義男よりシブがき隊(バックバンドはシブ楽器隊)のほうが先にデビューしていたりもしますが・・・。


——『 待たせてSorry 』(笑い)。ジャニーズ事務所を特別視したきっかけなどありますか?
宅さん:やはり同性愛という禁断の果実の魅力ではないかな。そこが風土病であるゆえんです。ボク自身はノンケ(ヘテロ)でゲイではないのですが、女性的目線を持っているところがあります。ちょうどオタク腐女子で「やおい」好きみたいな感覚が笑えて大好きなんです。


——宅さんのなかに腐女子的感覚があるってことですか?
宅さん:この部分はより誤解を与えてしまうかもしれませんが、「笑い」に通じています。良くその毛のない友人(どちらかというとゲイなんて絶対勘弁と考えている男性)に、「ジャニーさんとジュニアの少年がいっしょにお風呂に入っているシーンを思い浮かべるとどう?」なんて言って嫌われたりしてます。
「ほーら、シャボン玉だよ。洗いっこしようよ」「こうされるとどんな気持ち?」「ジャニーさんやめてください」「ジャニーさんやめてください」「あ、気持ちいいです」みたいな一人芝居をすると引かれますね。惹かれるじゃなく、引かれる(笑い)。


——本当に腐女子じゃないですか(笑い)。
宅さん:そうかも(苦笑)。ただ、何だろう。誤解を恐れずに言えばね、マーケティングに基づいた大資本による商業音楽産業というものが確実に日本に(も世界にも)ある。そこに狂気に満ちた現在では70代後半の一人の小児嗜好性(!)同性愛者の老人がいて、すべてが動いている面白さでしょうか。


——宅さんのストレートな発言を聴いていると頭がクラクラします(笑い)。でも、その通りなんでしょう。普通ならレコード会社に削除されるような表現が普通にありますもんね。8割型つまらない J-POP の中で、私の中でテンションが上がるのは、やっぱりジャニーズだったりします。
宅さん:ジャニーさんの原点としては笠置シズ子服部良一の影響があって、それ自体が日本歌謡曲の風土とも言えます。そうした歌謡曲という日本独自の世界をJ-POPと言い換える、あるいはそうなってしまったことに、ボクは抵抗感があります。「昭和の人間」ですから。そして、ここからが風土病の症例ですが、オールド・アメリカ文化を昭和的に翻案した結果なのか、合体させた結果なのか、面白いことにジャニーさんが力を注げば注ぐほど、ユニット名や楽曲や歌詞などがダジャレのような奇妙なものになっていき、楽曲や世界観が昭和を回帰させるものになり、衣装も狂ったものになっていく魅力です。「もはや戦後ではない」ではなく、戦時下です(笑い)。ジャニーズでも逆に今どきのJ-POPにしか思えないユニットや楽曲はジャニーさんがあまり力を入れていない気がしますね。


——そのあたりは、はっきりと出ますよね。ただ、SMAP はどうだったんでしょう? ジャニーさん色がそれほど強かったようにも思えないんですが。どう思われていますか?
宅さん:「Sports Music Assemble People」の略という命名の部分はジャニーさんらしくはありますが、おそらくどうでも良かったでしょう。こういう言い方は反感を買うかもしれませんし、ファンの方に申し訳なくも思いますが、ボクは真剣にお答えしているつもりです。元フォーリーブス江木俊夫さんの発言要旨を紹介します。それは「ジャニーズ事務所に最大の経済的成功をもたらしたのは確かにSMAPだっただろうが、ジャニーさんが最も愛してやまなかったのは、『あの頃の』郷ひろみだっただろう」というものです。郷ひろみが事務所から去った後、ジャニーさんはしばらく寝込んでしまったという伝説もあります。ひろみの逃亡劇、事務所移籍の際のゴタゴタは詳しく触れませんが、75年くらいから79年くらいまではジャニーズ暗黒時代になってしまったとは言えます。
ジャニーさんの少年嗜好の好みには大きく分けると「はかなげな可愛い男の子」と「やんちゃな男の子」などがありますが、彼は少年時代の郷ひろみを最も愛していたであろうし(現在のHIROMI GOではなく)、その後も「あの頃のひろみ」の残像を探し続け、今も探し続けているのではないか、と思います。それもある種の「病」です。もっとも「思い出の人がいる」程度のことなら誰にでもあることかもしれませんが。


——「あの頃の郷ひろみ」ですか。難病ですね。
宅さん:ジャニーさんの特異な美意識は一代限りのセンスとも言えるので、後継者を立てられないんです。マーケティング的計算で人気が出るようにしてきたというより、ジャニーさん自身が萌えるように少年を演出していただけとも言えます。ただ、それが結果として人気につながっていくスゴさがあります。たとえば歌詞に「抱きしめて」とあると女性ファンは「キャー」って言うんだと思いますが、じつは抱きしめたい(抱きしめられたい)のはジャニーさんなわけです(笑い)。もしも、今後のジャニーズを微力ながら支えられるとしたら、この私くらいです。今は「崩御」が心配です。


——そうですね。ジャニーさんが生きているうちに、ひとつでも多く素晴らしい作品をつくってもらいたいと思います。後半にまだまだ続きます。


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