ハノイの日本人

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私が母のリハビリに付き合った理由。

お葬式までにいろいろ書いてしまって、その後は切り替えて行こうと思ってます。きのう少し書いた「母と仲が悪かった私がなぜ母のリハビリに半年以上付き合ったのか?」を書きます。あれはいつだったかな? たぶん、大学を卒業する前だったんじゃないかな? 山田洋次監督『息子』って映画を弟と一緒に観たとこから始まっているんです。



この映画の筋を簡単に説明すると、田舎で一人暮らす年老いた父を、都会で働く3人の息子のうち誰が面倒を見るかというストーリーです。詳しくは映画を実際に観てもらうとして、この映画を観終わった後、弟に対して私は余計な言葉を残してしまいました。もちろん冗談だったんですけど「末っ子が親の面倒を見るって映画だったよな」と言ってしまったんです。うちも兄弟3人男ですから、どうしてもそのことを想像せずにはいれない映画だったんですよ。


しかし、そんな言葉なんてすっかり忘れた頃に仕返しをくらいます。もう東京で暮らしていましたけど、正月かなんかに実家に帰ったとき、母と二人で話すことがありました。唐突に真剣な顔をして「◎◎(弟の名前)が言ってたけど、あんたが将来親の面倒を見るんやてな?」。びっくりして「はあ?」と言う私。「お兄ちゃんも◎◎もまったく面倒を見る気ないそうです。可能性があるのはあんただけだって◎◎が言ってた」。なんて無責任な発言!


弟は兄弟で唯一実家から大学に通っていたこともあって、母としては期待する気持ちもあったんだと思います。それが崩れてしまいました。なので、結構真剣に私の言質を取りたい様子でした。もちろん、私はそこでの返事を避けました。そういうことが将来あるかもしれません。でも、まだまだ先の話です。それ以降、母との会話にはどこかしら緊張が漂うようになりました。


両親が大学教授だったこと、3人兄弟だったこともあって、小さい頃から私には養子に欲しいという話や、大学卒業前後には婿養子にほしいという話もあったんです。しかし、母は面倒を観てくれる可能性のある子として私を認識して以降、縁談の話を伝えなくなりましたww マジで。後からわかったことですが、ある料亭の婿養子にとのオファーがあったにも関わらず、それも私には伝えてくれなかったんです。


ちょうどベトナムに行く前のことです。両親がどこかで美味しい物を食べようと言ってくれました。そうなればやっぱり和食かなと、いつも親切にしてくれてる料亭のご主人と女将さんに挨拶も兼ねて伺いました。しかし、そのときは様子がいつもと違ったんですよ。食事のあとでお二方が個室に来られたとき、娘さんの話をしきりにされたんです。しかも、私がベトナムに行くと言うと「京都の料理人の集まりでいろんな国の料理を研究しに行っていますが、ベトナムはそんなに参考になりませんよ」などと言われたんです。「私は料理人じゃないのに、おかしなことを言うな」と思っていました。


帰りの玄関でも私だけ庭に案内され、お店の歴史について説明してくださったのです。それでも気づかなかったんですよ! そんな話が来てることは。気づいたのは数年後に帰国したときでした。また、あそこに行きたいと両親にいったところ凄く複雑な顔をされたんです。どうやら、その縁談のことで先方とケンカになっていたようでした。それでも私の希望を聞き入れ食事に出掛けました。階段の下の狭い部屋に通されたな。刺身も少し生臭さを感じたな。娘さんはすでに結婚されていました。


母とは最後には結局ケンカになるのですが、それでも台湾旅行やインド旅行にも誘われて行きました。そう言えば、このPCも母に買ってもらったんだった。帰国していたときミスドでコーヒーをぶっかけ、がっかりしていたとき、母がお金をだしてくれたんです。そして「あんたが面倒を見るんだったよな?」と一言w 返事はせずに「ありがとう」とだけ言ってお金を受取りました。でも、そうやって、だんだん絡めとられていたんでしょうね。母は政治力のある人だったんです。


そのとき書いてたのがジャニーズの文章でした。結局、本にはならなかった。私は面白いと思ったんですけどね。母はこの本が出るのを楽しみにしていました。ですが、兄が「あんな文章はもうすでに本になっている」と言ったそうで、そのことは凄くがっかりしていました。私がウソをついてると思ったようです。一体、誰がだしてるんだろう?


◉ジャニーズの教科書
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20150921/1442805451




2013年5月、母が脳出血で倒れたと聞いたとき、私は「出番が来た」となぜか思ったんです。まあ、兄も弟もちゃんと仕事がありましたしね。母は右側の麻痺があり、そこから数ヶ月が回復可能な期間と聞いてリハビリに付き添うことにしたのです。まあ、そのあたりはこのブログに書いた通りです。認知症もあって大変でした。リハビリ病院からは逃げ出そうとするので、当初の数日は車イスに拘束された状態でした。父と交代で母の側に居て、半年後にはなんとか歩けるようにもなりました。


きつかったですね。認知症の母といる時間は。同じことを何度もいいますしね。途中から週に一度は休みを取ることにしました。気分転換をしないとこっちが壊れそうでした。でも、私が休んだ日に母が徘徊して転倒。手摺りに顔をぶつけて青アザができるなんてこともあったんです。あっそうだ。その数日後に来たある客人が「あんたがやったんじゃないの!」と突然言って来て、びっくりしたことがありました。


この人は母が元気だった頃は親友と言ってたはずです。うちにもよく遊びに来ていました。でも、母が倒れてからは1回も見舞いにきてなかったんです。しかし、海外から母を見舞いにきた友人たちに誘われ、やっと顔を見せたようでした。そのときに私へのこの仕打ちですよ。それだけじゃなく「こんなとこにいないで、さっさと働きなさい!」って鬼の形相で言われたんです。「なぜ?」本当にびっくりしました。


まあ、母とはいろいろあったみたいです。いくつかのエピソードは聞いています。でも、母の意識が亡くなってからはまた親友に戻ったみたいですよ。身内だけでやる葬儀にも来るそうです。そして、故人を偲ぶ会はその人が呼びかけ人になるそうです。まるで韓流ドラマの悪役みたい。こういうヤツが出て来るよね? 今度はどんなことを言って来るんだろ?


母に付き添っている間、そんなことしてないで働けと言って来た人物は3人いました。もう、すっかり忘れてるみたいですけど。こっちは忘れらんないんだけどね。それぞれどんな思惑があったんでしょうね? あっ、思い出した! もう一人いる。母にも言われたことがあったんですよ。入院して3ヶ月ほど経った頃、兄が見舞いにきて、すぐに帰って行った後。「あんたも、いつまででもここにいたらあかん。しばらく日本で働いたどうや?」と言われました。


苦笑しながら言いましたよ。「働いてもいいけど、そしたら毎日病院にくるなんて無理だからね。それでいいの?」。「なんでそんな酷いことを言うんや!」と母は鳴き声で訴えました。やれやれですよ。このときくらい、母と濃密に過ごしたこともなかったですね。少し上にあるMVは病院にいたとき母がお気に入りだった曲。NHK BSでよく流れていました。「この曲はいいな。花は咲く。私は何を残しただろうか?」と呟いていました。いろいろ残したんじゃないの? 欲が深すぎるんだよw