Youtube上で放送されている社会学者・宮台真司とそのゼミにも通うラッパー・ダースレイダーの『100分de宮台』の3回目。ものすごく濃厚な対談。現在私が書いている「エンタメは孤独を救えるか?」では「貪るな」というキーワードが出てきており、仏教の本を読んだりもしていました。そして、今回ここでも倫理と宗教の話がされています。倫理がどういう物であるか、その重要性が語られています。1時間ほど過ぎたあたりから文字化させてもらいます。
ダース:(前略)宮台さんがさっき言ってた今の子供たちは、今のこの状況がスタートだった場合、全然違う進化をしていく可能性があって。そうすると、僕とか宮台さんがここで「時間を積み重ねるのがよかった」「散歩するのがよかった」という、いい悪いじゃない、いい悪いに進化していく可能性があると思っていて。
宮台:うん。
ダース:それがガンダム的に言うと、オールドタイプとニュータイプに別れる分岐点みたいのが。要は、昔一緒に散歩していた人類と、ずーっとZOOMで話してた人類で、全然違う人類になる分岐点にいまいるんじゃないかっていう気もちょっとするんですよね。
宮台:うん・・・。そこはもう1960年代からニューウェイブっていうSF が扱ってきた大問題なんだよね。つまりテックのプラットフォームが変わると、我々の感受性も変わるんですね。10年、50年、100年経ったら、すっかり変わってしまう可能性がある。
ダース:うん。
宮台:すると100年後のプラットフォームをよくSF は批判するけど、批判するときの感受性はいまの感受性なんだよ。
ダース:そうですよね。
宮台:100年後のそのプラットフォームを生きている人間、それはいま僕たちが持っている感受性を持っていないんだよね。そうすると、いまの僕たちが100年後のプラットフォームを批判することに、どんな意味があるんだって。これはあのジェームズ・グレアム・バラード(J・G・バラード)っていう人が最初に問うた大命題なんだけど。これはまだ解決していない問題であるし、解決できない問題で。
ダース:うん。
宮台:これは僕なりに、倫理とはなんなのか?っていうことを意味していると思う。倫理は、いまある僕たちの時空間における生活をベースにした倫理である他はない。もちろん、状況が変わったのであれば、こういう抽象度で、同じ倫理の原理や核、コアは維持できるってことはある。そういう意味での倫理のコアを変えないってことについてのこだわりが倫理でしょ?
ダース:うん。
宮台:そうすると、例えば50年後であれ100年後であれ、僕らが倫理的であるというのは、僕らがいま大事だと思っている、これは変わらないように子供たち、孫たちに述べ伝えていくことが倫理なんですよ。
ダース:うん。うん。
宮台:実はいろんな物は変わっていくけど、いまのままである必要はないけど、抽象的なコアにおいて変わってはいけない物はこれなんだというふうに、僕らが主張しなければ、ただアモルファスにぐちゃぐちゃになっていく。これは全くダメだと。
ダース:そのベースになるのが倫理だという話で、今回のテーマに戻ろうと思いますけども。例えば、キリスト教が2000年続いてきたというのは、西暦ゼロ年前後にイエスという人物が語っていたことは、今でも倫理であるとする、継続のための仕組みが、キリスト教全体として、カソリック、プロテスタント、いろいろあったとしても、あのときイエスが言った言葉っていうのこそが、僕らが守らなければならない倫理なんだよってことだと思うし。もっと言えば、ユダヤ教に戻れば、モーセがシナイ山で聞いたことこそが、今でも守らなければいけないことなんだよっていう考え方なんだと思うし。仏教でいえば、釈迦が弟子たちに言った考え方。仏教の方は考え方の話になると思うんですけど。ああいう考え方は、今でも持ってなきゃいけないんだよっていう意味での、倫理の保持が宗教のひとつの役割だと思うんですけども。
宮台:うん。
ダース:それが今後どう機能していくのか。宗教がそれをできるのかというのも、だから・・・
宮台:ああ・・・ダースさん、それがすごく重要な問いかけだと思っているんですね。今日もっとも語りたかったことの一つなんです。さっき倫理や宗教のコアって言い方をしたけど、これは結構重大な物で。いろんなパラフレーズが必要になると思う。
ダース:うん。
宮台:さっきイエスの言葉とおっしゃった。でもね、さっき僕が紹介した田川健三っていう人はね、確か1972、3年から『イエスという男』という文章を書き始めて、これは1980年に本になるんですけども、素晴らしい本なんです。それはね、もう一口で短く言いますけど、イエスはどういう存在だったのか? どういう人間だったのか? でイエスは実在した。そこは彼は譲らない。そこでポイントはどうなるかというと、イエスは32歳のときにたった1年間だけしか活動してないんだです。
ダース:うん!
宮台:それで世界を変えてしまったわけでしょ? キリスト教がなければ近代世界もないわけだし。たった1年間で世界を変えてしまう男って凄かったに決まってるわけ。
ダース:うん。
宮台:だからもっとも大きな存在だよね。なので、**に大事なことは、イエスの言葉といっても結局他の人が述べ伝えている物でしょ?
ダース:うん、うん。
宮台:述べ伝えている人たちは、どう考えてもイエスより小さいじゃん! わかります?
ダース:うん。それはそうですね。
宮台:だからイエスはこう言った。これはこういう意味だろうと後年に述べ伝える人たち、使徒も含めて。その言葉を間に受けちゃダメだよ。その言葉からイエスという人がどう浮かび上がってくるのか? イエスとはたぶんこういう男だったんだ。こういう人間だったんだというところに感染しろと言うんですよ。
ダース:うーん。
宮台:それは僕が言ったコアという言葉のもっとも重要な部分なんだけど。もうダースさんには伝わってると思うんだけど。結局、そこまで抽象化すると、初めて継承するに足る・・・簡単に言うと、時間的な耐用性、あるいは免疫ができてくるんですよ。例えばモーセの十戒のようなシナイ山での、ある種の神からの垂訓にしてもね。
ダース:うん。
宮台:あれは例えばヘブライズム的な家父長制を前提にした物言いだから。我々は生活形式が全く違うんで、あの言葉通り生活することはできません、となる。それでも生活しようっていうのがユダヤ教徒の一部だったりするんだけど。田川健三さんの発想からすると、ちょうど憲法の立憲意志について、憲法学者のローレンス・レッシグが言ったのとおんなじ。ファウンディング・ファーザーズがいま生きていたら、憲法をどう書くか? それを想像する。それが立憲意志なんだ。
ダース:うん、うん。
宮台:おんなじようにイエスという男が今生きていたら。あるいはモーセ。神を媒介するモーセがいま生きていたらに何を言うか、抽象化して考えることが、宗教や倫理の中核なんだと。
ダース:コアなんだと。
宮台:うん。
ダース:いまの話の題材になるかと思うのが、NETFLIXで最近作られたドラマの『メシア』っていうドラマがあって。
宮台:ああ、素晴らしかったね。
ダース:これはまさに、いまのこの社会にイエスがいたらどう振舞うかというのを想像してつくったドラマ。よくわかんないんだけど、あのドラマもモヤモヤを残したまんま終わって、結局こいつなんなんだ?っていう終わり方をあえてしているんだけども。それこそ宮台さんが話していた、そういうハードルを乗り越えることこそが理解に近くという構造を制作者がわかっていて、つくっているという意味も含めて、すごくよくできた作品だと思うんですけど。もう一つは、いま言った使徒が語っていることは、ヨハネがこう言いました。パウロがこう言いました。っていうのは断片で、それぞれはイエスよりも小さいに決まっているわけで。これは宮台さんがよく言ってるベンヤミンの、バラバラに砕け散った世界全体はわからないけれども、砕け散った断片から一瞬こういうもんじゃないかという想像はできるという意味では、いま残っている聖書だったり、発言だったり、そういう断片全部から立ち上がる何かの状態だったり、それを想像することが宗教的な構えだったりに繋がるかと思ったんですけど。
宮台:そう。本当に繋がるんだけど。そこで先ほどのネット環境が完全に当たり前になってしまったときに、いまここで僕とダースさんが話し合ったような、宗教的な正義や倫理のコアに当たるような部分、あるいは掟のコアに当たるような部分。これは具体的な行為の外形ではなくて、もっと抽象度が高い。つまり、イエスがいま生きていたら何をするか? 以前やっていたことは当然しないし、以前言ってたことも当然言わないんですよ。しない、言わない、変わってしまったにも関わらず、しかし、一貫していることはなんなのか? それがつまり時間軸の感受性なんだけども。
ダース:うん、うん。
宮台:そういうものを、いまの若い世代、あるいは子や孫の世代に、どうやって受け渡せるんだろう? 世界はいいとこ取り、チェリーピック、できるようになっていく。例えば、宗教に探らなくても苦しいものを紛らわすようなドラッグや仮想現実、拡張現実を享受できるようになっていく。全部、断片、断片、断片。しかし、断片をトータルに串刺しにするような力というか、「串刺しにせよ!」という力は、オンラインでは絶対に働かないんだよね。まあ、いまの状態では働かないと言っておきましょう。それがオンラインでも働くようにできるのかどうかっていうのがポイントかなと思ってるんですね(さらに「痛み」の話、ドラッグ+拡張現実が世界の代わりにならない話に続くので動画でどうぞ。)