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特集2. 映画『花束みたいな恋をした』。3

 

 

第3章『花束みたいな恋をした』解読

 

クリエイターと消費者。

 映画『花束みたいな恋をした』まで来た。この映画は冒頭で2つのことを描いていると告白した。最初に書いた「イヤホンの寓話」のことだ。1つはもちろん出会いから同棲に至り、そして別れるまでのストーリー。もう一つは何か? それはクリエイターと消費者の関係だ。菅田将暉が演じる麦はイラストレイターだった。そして、有村架純が演じる絹は、最初に麦の能力を評価したファンでもあった。

 

 映画『花束みたいな恋をした』(2021年)

 監督:土井裕奏

 出演:菅田将暉有村架純、他

 配給:テアトル、リトルモア

 

 

あらすじはこんな感じだ。ある日、終電に乗り遅れた4人の男女が駅の改札で出会う。深夜営業のカフェバーで時間を潰すことにするが、麦は近くの席に押井守がいることに気づき興奮する。だが、会社員の男女は映画通を自称しながらも押井を知らない。絹だけは押井に気づいていた。そのことで二人は意気投合する。お互いの趣味を語り、二人は麦の家に向かう。何度目かのデートの後、付き合うことになった。そして、絹が就活に失敗する中、二人は多摩川が見える部屋で同棲を始める。それはとても幸せな時間だった。だが、その部屋にお互いの親が来たことを契機に、二人はすれ違い始める。麦が就職したことで親密な関係は崩れてしまうのだ。そして···

 

 

麦(菅田将暉):ネットに取り込まれたクリエイター

絹(有村架純):広告代理店の価値観で育てられた消費者

押井守2000年代前半「クールジャパン」と言われた時代の象徴

ガスタンク:FC東京の試合(前身は東京ガスだった)

オダギリジョー:加持さん(大人の男性)

トラックの事件:時期は違うが秋葉原事件? ➡︎映画未来のミライ』(2017年)

ヘッドフォンおじさん:分断の時代を憂いている?

ファミレス:ネット空間?

観覧車:プリエールの名曲『cupsule』の歌詞に登場する

 

 

 登場人物をリストにした。まず、麦はGoogleストリートビューに自分の姿を見つけ、友だちに自慢していた。手書きのイラストというアナログな表現をしていた彼が、ネットに取り込まれたことを示している。ネットが主戦場になる中でギャラの単価は下がりに下がる。クリエイターに厳しい時代になった。

 

 次に絹の両親は広告代理店に勤めている。なので、絹は広告代理店の価値観で育てられた消費者。つまり、私たちのことだ。しかし、ネットに取り込まれた麦と付き合い始めたことで、その影響下から外れて行く。ネット利用が日常化して、旧世代と違う価値観を持ち始めるのだ。だが麦は逆に、絹の両親に会って就職を勧められ、古い価値観に流されて行く。それが二人の将来を暗いものにするのだ。

 

 既に書いたように二人の出会いは2015年1月15日だ。その日は坂元が脚本を書いたドラマ『問題のあるレストラン』(フジ系)の放送開始日だった。このドラマでは職場でのジェンダー平等の問題が描かれていた。なぜそのドラマと二人の出会いが関係しているのか? それはグローバリズムと関係している。グローバルスタンダードに合わせて、日本人の意識も変革の必要が迫られていた。当然、テレビ業界にもその影響は入り込んでくる。

 

 

好きな時に好きなだけ。

 実は、その時期には日本のテレビ業界を脅かすある計画が進行中だった。好きな時に好きなだけドラマ、映画が楽しめる NETFLIX が、2015年9月に日本でサービスを開始すると発表された。フジテレビがFODを開始したのも同じ年だ。それは脚本家である坂元にとっても事件だった。そして、2019年にはついに、テレビメディア広告費はインターネット広告費に追い抜かれる。それは二人が別れた年のことだ。新しい価値観と古い価値観の間で二人は引き裂かれた。

 

 NETFLIX Amazonプライムなどのサブスクによって、クリエイターと、視聴者の関係がどうなって行くか? それをテーマにして脚本にしたのがこの映画のもう一つのストーリーなのだ。だから消費者である絹は元気なままなのに、クリエイターの麦は労働者としてすり減って行った。

 

 別れを決めた日。これまで乗ったことがなかった観覧車に二人は乗る。これは不思議なシーンだ。観覧車は動いていなかった。ゴンドラの中に二人がいるにも関わらずだ。やはり、クリエイターと消費者の関係は、押井守が活躍した頃のようには戻れないという表現だろう。麦と絹もなんの感情も湧かず楽しめない。

 

 二人は最後に思い出のファミレスに行く。そこで別れ話をしようとするが、麦は別れたくないと絹を説得し出す。恋愛とは違うが家族にはなれるかもしれない。絹もその言葉を受けて「結婚だったら、家族だったら···」と、一旦は受け入れる気持ちに揺らいで見せる。だが、そこで決定的な出来事が起きる。近くのテーブルに、出会った頃の自分たちを思わせる若いカップルがやってきた。登場する固有名は変わったが、4年前の自分たちの姿そのものだ。それを観た絹は打ちのめされる。その場にいることが辛くなり泣きながらファミレスから飛び出した。今度こそ二人は別れを決めた。ずっと一緒(サブスク)よりも短くも美しい関係(映画)を選んだのだ。

 

 麦は再びGoogleストリートビューに自分の姿を見つけた。そこには素敵な恋をしていた頃の二人の姿があった。2020年に入り、コロナ禍で多くの人々がサブスク利用を開始した。二人の姿は映画に記録され、サブスクで公開されることも決まった。映画の制作費にはサブスクで得られる収入も盛り込まれている。再びクリエイターに戻った麦にも彼女ができた。ファンがついたのだ。

 

 

秘すれば花なのか?

 坂元裕二は、二つ目のストーリーを探るのは、品のない行為であると、この映画で告発しているのだろうか? つまらない大人になるのも嫌だが、ファミレスで説教するヘッドフォンおじさんだって迷惑な存在でしかない。だが、彼が言っているのは、実のところ音楽のことではないかもしれない。左右の分断について語っているのだ。それは政治のことだけではない。苦しくても苦しいと言えずに孤立している人々が沢山いる。そんな時代について熱心に語っているのだ。しかし、皮肉にもヘッドフォンで両耳を塞ぎ、他者の意見に耳を塞いでいるかもしれない。

 

 演劇はどうか? 私がこれまで観てきた演劇では、必ず表層に流れているストーリーとは別に、作者の主張、考えたいテーマが存在した。しかし、それらはあまり語られることがない。気づく人もいるだろうに、それを書いている文章を観かけない。秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず、なのか?

 

 松尾スズキ作、大根仁演出の舞台『マシーン日記』を2021年3月に京都ロームシアターで観た。関ジャニのメンバー横山裕が主演する舞台だ。とても面白い舞台だった。ストーリーはこんな感じだ。親から受け継いだ部品工場を営む兄弟がいる。弟(横山裕)がある日女子工員(森川葵)をレイプした。それに激怒した兄(大倉孝二)は、敷地内の小屋に弟を鎖で繋ぎ監禁する。そして、自分はその女子工員と結婚するのだ。

 

 3人は毎朝一緒に食事することになっている。弟の面倒を見ているのは兄の妻となった女子工員だ。そして、彼女は兄よりも弟の方に執着している。そんな狂った状況が煮詰まって、最後にはあることが起こる。彼女は弟との関係を強引に断ち、解放(?)されるのだ。以上が表のストーリー。

 

 では、これは何を描いたドラマだったのか? 私の見立てでは日本と韓国の関係を描いたドラマだ。弟を鎖でつないだ兄はアメリカだろう。日本を罰するという名目で軍隊を持てない国にした。

 

 恨36年、かつて韓国は日本に支配されていた。現在もそうだが、韓国は日本の侵略を恨む一方で、いつまでも日本に執着し、被害者という立場に身を置く。もちろん、日本には果たすべき責任がある。だが、K-POPがそうであるように、日本への執着をやめて、もっと広い世界を観たとき、韓国は解放感を味わった。自信を獲得したのだ。

 

 このように演劇には、まず先に作家が考えたいテーマがある。そして、坂元のドラマにもそのようなテーマが存在するのだ。それがあることで坂元のドラマには奥行きのようなものが存在する。ドラマに惹きつけられる視聴者層は幅広くなっている。社会問題を正面から考えることが苦手な日本では、このようなスタイルのドラマがもっと必要なのではないか? 若者だけではない。みんな先行きの不安を感じている。みな正解を求めてネット上を彷徨っている。でも正解なんて目指す必要はない。自分のやりたいことを見つけた方がきっと楽しい。

 

 脚本家・坂元裕二が取り上げるテーマは、現在の日本で起きている現象そのものだ。登場人物はそれを直接語ることはしない。笑いを交えて楽しめるドラマを作る。登場人物の決断は、間違いもあるし、失敗もする。でもそれでいい。日々考えて生きて行く。坂元が書く2つのストーリーをこれからも楽しみたい。(脇田 敦)