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兄が母の認知症治療を許さない! 女性史学賞?

母はかなり可哀想な状態です。今住んでいる施設に入ってもうすぐ1年が過ぎようとしています。その前にいたリハビリ病院では階段も昇れるようになっていましたし、島根県の古代文化賞の審査員もすることができました。本を読むことも会話することも可能だったのです。しかし、現在は自分で歩くことも出来ません。そして、短い言葉を発するのが精一杯です。なにを言ってるかわからないことの方が多いのです。


兄が8月に信州の別荘に両親を連れて行きました。私が予定を聞いたときには1週間ほどの予定と聞いたのですが、それでも「ヘルパーがいない状態で兄が面倒を見れるのか?」と心配していました。 私が淡路島への1泊旅行に同行したときは、母の徘徊が酷くクタクタでした。それでも両親は昨年も信州に行きたがっていましたし、止めるのは無理なようでした。


結局、両親が神戸に帰って来たのは3週間後でした。私にそれが知らされたのは、父が行く予定だった病院の予約をキャンセルしろというメールでした。母と再会した時、私は絶句しました。話すことも歩くことも出来なくなっていたからです。それだけではありません。顔に大きな青アザをつくり、表情がまったくなかったのです。感情が消失していました。特に目がビー玉のようになっていました。


ほとんど見守りしなかったのでしょう。身体はアザだらけです。父も母の面倒を見ることに疲れてしまったようで、もの凄く怒るようになっていました。こんな状態になっても、まだ兄はアルツハイマーの治療を許可していません。それどころか、アルツハイマーだと診断した医師は信用出来ないと言って別の医師に替えてしまったのです。当然のことですが、医師を替えてもアルツハイマーであることには変わりはありません。ただ、担当したばかりの医師に情報を与えず、コントロール可能だと思っているらしいのです。脱法介護・・・このまま施設や医師を巻き込み完全犯罪を成立させるのでしょうか?



私の要求は1年前から変わっていません。母の認知症治療を開始すること。そして、徘徊を抑える薬「グラマリール」の処方を再開すること。この薬はリハビリ病院にいたときにも服薬していました。効果があったにも関わらず、この施設に来てから兄が禁止してしまったのです。母は徘徊を止められないと泣いています。歩けようが歩けまいが徘徊しようとするのです。私がいるときは支えてあげながら徘徊します。最近も徘徊中に出会った看護師さんに「この子の足手まといになっている」と訴えていました。自分の意志ではどうにもならないのです。あんまりです。


兄はどうしてこんな酷いことの出来る人間になってしまったのでしょうか? 母が倒れるまでは仲の良い親子だったはずです。毎年のように一緒に旅行にも行っていました。とても、恨みがあるようには見えませんでした。私が知らないだけで、なにか大きな理由があるのでしょうか? まったく想像がつかないのです。でも、最近あることを思い出しました。


兄と同じように母が倒れてから態度を激変させた人物がもう一人いたのです。母の看病をする私に、兄と同じく「さっさと仕事につきなさい」と言った人物です。これってかなり異常な発言ではないでしょうか? この人は倒れるまでは母と親友として付き合っていたはずです。それが、倒れてからは忙しいと言って見舞いにも来ませんでした。母の教え子はその人物の影に怯えながら見舞いに来たものです。


海外に住む母の友人たちが見舞いに来たとき、その人物も誘われたらしくてやっと顔を見せました。しかし、富士山麓に建てた大きな別荘の自慢するとすぐに帰って行きました。母は女性史の研究者でした。私は研究内容をよく知りませんが、かなりの業績をあげたらしくその功績で文化勲章をもらっています。もしかしたら、脇田晴子という名前をご存知の方もおられるかもしれません。母がこのような酷い目にあっているのは、母が中心になって立ち上げたという「女性史学賞」と関係があるのでしょうか? まったくの的外れだったらごめんなさい。どんなことでもいいから突破口が欲しいのです。女性史の研究者たちは母の現在の境遇をどのように感じるのでしょうか?