ハノイの日本人

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ジャニーズの教科書。第2章「硝子の少年」②

以前に電子書籍で販売していた文章を週一でアップしています。


◉ジャニーズの教科書。第2章「硝子の少年」①
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20150406/1428325419


◉硝子の少年をつくりあげた男
『硝子の少年』の作詞者である松本隆について見ておこう。松本は1969年にエイプリル・フールというロックバンドでドラマーとしてミュージシャンデビューしている。続いて、細野晴臣大瀧詠一鈴木茂とロックバンドはっぴいえんどを結成。ドラマー、作詞者として1972年まで活動している。はっぴいえんどの最初のアルバム『はっぴいえんど』は1970年に発売された。ロックミュージックに日本語を乗せるのは不可能だと考えられていた時代のことだった。そのため、全曲日本語詞で書かれたこのレコードは、他のミュージシャンにも衝撃を与えた。日本のロック史に名を残す人物となっている。



音楽誌『ニューミュージック・マガジン』の1971年5月号の特集「日本のロック情況はどこまで来たか」には、当時の様子がよくわかる鼎談が掲載されている。

ミッキー:もうすばらしい。(中略)日本語で全部やったのがゴキゲンなわけ。(中略)なんか普段話してるような言葉がそのまま歌になって、バッチリ乗ってるってとこが、すごくいいよね。


ここに登場するミッキー・カーチス内田裕也をはじめとする実力のあるミュージシャンたちは、インスト曲や英語の歌詞をうたうグループをプロデュースし、欧米でのライブも成功させていた。しかし、はっぴいえんどは最初から日本語のロックを演奏した。他のミュージシャンたちが、「ロックの精神をどうやって表現するか?」と考え、日本語ではできないと結論したときに、松本はロックのリズムにどうやって日本語を乗せるかという、単に技術的な問題だと考えていたわけだ。これは画期的なことだった。


内田 ぼくは去年の『ニューミュージック・マガジン』の日本のロックの1位が岡林で、今年ははっぴいえんどだと、そんなにURCのレコードがいいのか、われわれだって一生懸命やってんだ、といいたくなるんだ。


はっぴいえんどの音楽に、過剰反応を示したのはフラワー・トラベリン・バンドのプロデューサー内田裕也だった。上のような感情的な発言を残している。ジョー山中をボーカルに据えたフラワー・トラベリン・バンドは、その年4月に、カナダ、アメリカでアルバム『SATORI』を同時発売している。内田としては「評価されるべきはこちらではないか?」という思いがあったのかも知れない。この件は「日本語ロック論争」と呼ばれている。


はっぴぃえんどには一部で熱狂的な支持者がいたが、セールス的に成功したわけではない。早過ぎたロックバンドだった。松本が一般的な知名度を持ったのは、はっぴいえんどが解散してから。アイドル歌手を中心に歌詞を提供するようになって以降のことだ。これまでに作詞した歌詞、約2000曲。オリコン・ベスト10、134曲。1位52曲という膨大な作品を送り出している。


代表曲としては、『ポケットいっぱいの秘密』(アグネス・チャン)、『木綿のハンカチーフ』(太田裕美)、『ルビーの指輪』(寺尾聡)『赤いスイトピー』(松田聖子)などなど、人々の記憶に残る歌詞を数多く残している。最近では人気アニメ『マクロスF』の挿入歌『星間飛行』(中島愛)や、アイドルとしてバラエティなどでも人気の中川翔子『綺麗ア・ラ・モード』といったヒット曲もあり、若い世代にも知られている。



ここで少し私自身の話も少し書かせもらう。1999年のこと、小学生の頃からベストテン番組で見続けた名前、松本隆の作詞活動30周年記念作品集『風街図鑑』が発売された。私は事前に予約して購入した。7枚組のCDボックスで1万5千円だったはずだ。『風街図鑑』には、歌詞を掲載したブックレットが付いていた。そこでは収録曲にまつわるエピソードを松本自身が披露していた。この作品集にKinKi Kids『硝子の少年』が収録されていれば、謎は簡単に解けたかもしれない。残念なことに『硝子の少年』はこの作品集に収録されなかった。まだ、キンキのベスト盤が出る前だったからだろう。


実はその後2009年に『風街図鑑』は再発されており、そのとき新たに「マイ・フェイヴァリット・ソングス」という2枚のCDが追加された。そこにはKinKi Kids薄荷キャンディー』が収録されたものの、やはり『硝子の少年』は収録されなかった。しかし、『風街図鑑』にはとても重要な情報が提供されていた。近藤真彦のデビュー曲『スニーカーぶる〜す』についてのコメントだ。ちなみに、このコメントは2012年1月に亡くなったポップ中毒者・川勝正幸によってまとめられている。


スニーカーぶる〜す近藤真彦」:ある日、ご飯を食べながらボーっと『(3年B組)金八先生』を観てた。学ランを着ている生徒がいて、「この子、いいなあ」と思っていたら近藤真彦だった。でもう1回、「てぃーんず ぶるーす」の世界をやってみようと思ったんだ。ジャニーズ側はこんな男の子が悩む歌なんて気に入らないんじゃないかと思っていたんだけど。


松本は『スニーカーぶる〜す』について、原田真二『てぃーんず ぶるーす』を下敷きにしたと語っている。『てぃーんず ぶるーす』とはどんな曲だったか?


原田真二は、井上陽水吉田拓郎泉谷しげる小室等の4人のミュージシャンが立ち上げたレコード会社、フォーライフレコードがデビューさせた18歳のアーチストだ。かわいいルックスもあって、アイドル的な人気もあった。松田聖子がファンだったという話も後に告白している。そのデビューにおいて、プロデューサーだった吉田拓郎は、ずいぶん真剣に関わったそうだ。


作詞には松本隆、編曲には鈴木茂の名前もあった。作曲は原田本人が手掛けている。1977年に3ヶ月連続で発売されたシングル『てぃーんず ぶるーす』『キャンディ』『シャドーボクサー』は、彼が青山大学1年のときに作曲したものだ。ちなみに、この3曲デビューのアイデアは、原田が当時所属していた芸能事務所アミューズの社長大里洋吉が出したものだ。アミューズサザンオールスターズ福山雅治Perfumeなどの所属事務所として現在知られている。このときは、3曲同時にオリコン20位以内に入ったという記録が残されている。原田は一躍人気ミュージシャンとなり、Char、世良公則&ツイストと共に「ロック御三家」と呼ばれた。


松本が作詞した『てぃーんず ぶるーす』には、以下のような歌詞が登場している。


 ♪ 誰も知っちゃないさ 若さ それがこんなこわれやすいものだと


ここに存在するのは、まさにガラスの少年だった。この歌詞は『スニーカーぶる〜す』や『硝子の少年』の歌詞の原点とも言える1行だ。ここからガラスの少年の物語はスタートした。



原田真二『てぃーんず ぶるーす』(1stシングル、1977.10、FL)
   作詞:松本隆、作曲:原田真二、編曲:鈴木茂
⇒ガラスの少年が最初に登場した曲。ジャニーズではない。


もうひとつ、松本の『スニーカーぶる〜す』について語ったコメントで気になる箇所があった。「ジャニーズ側はこんな男の子が悩む歌なんて気に入らないんじゃないかと思っていたんだけど」という部分だ。これは歌詞が発注されたときに、すでにタイトルが決まっていたことと関係している。ジャニー喜多川の案でまず「スニーカー」が決まり、小杉が「ぶる〜す」をつけたというエピソードだ。松本は『スニーカーぶる〜す』というタイトルを見て、小杉が原田真二『てぃーんず ぶるーす』を想定して付けたタイトルだと察したことだろう。そして、そのアイデアに沿って歌詞を書いたわけだ。



松本が最初に書いた『スニーカーぶる〜す』の歌詞はどのようなものだったか? シングル『ふられてBANZAI』のB面に収録された最初のバージョンを聴いてみた。最初の編曲者は戸塚修だった。その出だしの部分の歌詞を紹介しておく。


 ♪ ラジオが すすりないてた 膝を抱えたRoomで
   君の言葉が きこえない
   昔の彼のところへ 戻りたいのと 泣かれて
   これじゃ 格好もつかないよ


かなりメソメソした歌詞になっている。原田真二『てぃーんず ぶるーす』は明るい曲調だったので、歌詞の内容は同じ方向だったとしても爽やかな感じがある。しかし、『スニーカーぶる〜す』のマイナー調には合わなかったのだろう。これをやり直したのは当然かもしれない。


スニーカーぶる〜す』には「ガラス」という言葉こそ登場していないが、たしかに繊細な少年の心を描いた歌詞となっている。例えば、以下の箇所がそのあたりを表現しているように思う。


 ♪ 街角は雨 ブルースのようさ
   胸でファズギター かき鳴らすようさ


この歌詞は最初のバージョンにも登場している。実は、この歌詞は後にKinKi Kids雨のMelody』で本歌取りされているが、まあ、その話は別の機会に・・・・ 次に『スニーカーぶる〜す』が発売された当時のことを見て行こう。


◉1980年 ジャニーズ冬の時代の終わり たのきんブーム
現在、ジャニーズ事務所の最年長タレントとして知られる近藤真彦は、1979年に放送されたドラマ『3年B組金八先生』(TBS)の生徒役として出演。同じくジャニーズから出演していた田原俊彦野村義男とともに「たのきんトリオ」として大ブームを巻き起こす。


TBSのドラマとしては、1977年に放送された『岸辺のアルバム』がホームドラマの常識を打ち破った名作と言われている。「一億総中流」という言葉もあった当時の日本において、ごく普通の中流家庭の崩壊を描いた最初のドラマだったからだ。脚本を書いたのは『ふぞろいの林檎たち』『北の国から』などで知られる山田太一だ。


その流れがあったからだろうか? 同局で2年後に放送された『3年B組金八先生』も、普通の学園ドラマと一線を画していた。クラスで起こる問題を通して、先生と生徒が共に成長するという学園ドラマの本流からは外れてはいないが、当時実際に学校で問題になっていた、解答するのに難しいテーマを取り上げている。例えば、中学生の妊娠問題だ。最初のシリーズでは、杉田かおる鶴見辰吾が中学生でありながらセックスをし、そして、親になるというストーリーがメインに据えられていた。


ドラマの刺激的な内容は大きな反響を呼んだ。裏番組には、昭和の大スター石原裕次郎が出演する刑事ドラマ『太陽にほえろ』(1972年〜、日テレ)や、スポーツ界の大スターアントニオ猪木の『ワールドプロレスリング』(1973年〜、テレ朝)など強力な人気番組があった。だが、それらに負けない視聴率を記録している。『3年B組金八先生』はシリーズ化され、これ以降もジャニーズのタレントが出演する人気シリーズとなった。


当時、小学生だった私も、先生たちがこのドラマを話題にしていたのを覚えている。最初にジャニーズ事務所を意識したのもこの頃だった。



70年代の後半、郷ひろみが他の事務所に移籍した後、ジャニーズ事務所には人気タレントが存在せず、苦しい戦いを続けていた。資金繰りに苦しんでいたという話もある。後に「冬の時代」と言われることになる。


しかし、中村雅俊主演の学園ドラマ『ゆうひが丘の総理大臣』(日テレ)に生徒役で出演していた井上純一も人気だったし、後にカイヤという恐妻を持つタレントとして有名になる川崎麻世もいた。それでも、その頃のジャニーズには80年代、90年代ほどの華やかさがなかったということだ。そして、決定的な事実としてヒット曲を生み出せないでいた。その状況を打ち破ったのが「たのきんトリオ」だった。『金八先生』のプロデューサーだった柳井満は、生徒役を選んだときの様子を以下のように語っている。


杉田かおる鶴見辰吾ら指名したキャストを含めて30人が決まってやれやれという時に、ジャニーズ事務所から電話がかかってきて、“うちにも若い子が10人ぐらいいるんで会ってください”と言われて。当時は“ジャニーズ”って言われてもよくわからなかったんだけど、会ってみたら児童劇団の子と違ってびっくりした。勉強は全然出来ないけど歌と踊りでやっていくという吹っ切れた感じが清々しくて、結局3人選んで、採用するつもりだった1人を落として32にしました。(古沢保著『3年B組金八先生 卒業アルバム 桜中学20年の歩み』(同文書院、2000年)


「勉強は全然出来ないんだけど」・・・・ そのコメントは必要なのか・・・・ ま、それはいいとして・・・ 後に、たのきんトリオとして売り出したのはジャニーさんだが、最初に3人を選んだのはTBSのプロデューサーだったのだ。3人の人気は事務所の想像を超えるものだった。最初に行ったイベントでは想像以上のファンが集まり中止になっている。


3人のなかで一番最初にデビューしたのは田原俊彦だった。1980年6月に発売した『哀愁でいと(NEWYORK CITY NIGHTS)』は70万枚のセールスを記録している。そして、一番人気があった近藤のデビューはその年の12月に決定した。それが先にも書いたミリオンセラーを義務づけられた曲『スニーカーぶる〜す』だ。(つづく)


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◉ジャニーズの教科書。第5章『嵐からHey! Say! JUMPへ』(パブー)
http://p.booklog.jp/book/97021
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