ジャニー社長が既に亡くなっているとネット上では騒がれています。発表は明日行われるようですが、落ち着かないのでジャニーズの歴史を彩る10名曲を選ぶことにしました。難しいですよ。人気グループを数えただけでも10組どころではないのです。ほとんどのグループは登場しません。特に最近のグループは。でも仕方ない。だって半世紀以上も前から人気グループを誕生させてきたのがジャニー喜多川社長なのですから。時系列でタイトルとその選出理由を書いていきますね。この機会に聴いて下さい。
1. Never My Love / ジャニーズ(1966年、未発表)
2. 男の子女の子 / 郷ひろみ(1972年)
前半はこんな感じになりました。どうですか? 郷ひろみファンにしか納得してもらえない気がしますね。80年代がマッチさんの1曲だけ。マズイな。でも、だったらどの曲を外して、どの曲を入れたらいいと言うのか? 納得行ったら入れ替えるのでコメントください。さて、1曲1曲簡単に理由を書いていこうと思います。
1. Never My Love / ジャニーズ(発売されず)
最初から未発表曲。これは最初のグループ、ジャニーズの名曲です。映画『少年たち』でも歌われたので、ファンのほとんどは知っていることでしょう。A.B.C-Zが舞台『ジャニーズ伝説』で歌ったことでも知られています。この曲はジャニーズの結成と解散にも繋がっている訳ありソングです。その理由はあとで書きます。まずは聴いてください。アメリカで録音されたのですがジャニーズが日本に帰ってしまったため、その後ソフトロックのバンド、アソシエイションによって発売されます。全米No.1、世界中で聴かれた名曲です。
ジャニーズ結成時に、ジャニー社長はメンバーの両親とある約束を交わしました。当時、歌って踊れるグループなんてものは存在しませんでした。本当にそんなグループが芸能界で食べて行けるのか? 心配する家族を説得する必要があったのです。そこでジャニー社長はテレビ出演で得たギャラをアメリカ修行のために貯金すると約束します。結成から4年後の1966年、その約束は果たされたのです。さらにそこで、アメリカデビューをワーナーレコードと契約。そして、録音されたのがこの『Never My Love』でした。しかし、なぜかそのレコードは発売されず、ジャニーズは日本に帰国して次の年には解散したのでした。ジャニー社長の夢、エンタテイメントの本場アメリカでのデビューという夢は果たされませんでした。
2. 男の子女の子 / 郷ひろみ(1972年)
郷ひろみはジャニー社長がスカウトしてきたタレントでした。郷はジャニーズ、フォーリーブスとは違いソロ歌手としてデビューしています。当時、自分もフォーリーブスのようにグループでデビューしたいと郷は主張したそうです。しかし、そのアイドルとしての才能見抜いたジャニー社長は、ソロデビューさせると断固ゆずりませんでした。
フォーリーブスのプロデュースを手がけていたCBSソニーの酒井政利は、歌がうまいのが歌手という当時の芸能界の常識を前に、アイドルをどう売り出していいか迷っていました。そこで劇作家の寺山修司を訪ね、二人はアイドルの手法を考案したのです(詳しくは私の作品『SMAP 王の物語』で書いています)。そのアイドルの手法は「私小説路線」と名付けられています。最初のアイドルと呼ばれている南沙織は、少女から大人の女性に成長していく姿をシングルレコードで連載するように歌ったのです。つまり、拙い少女歌手から大人の女性歌手へと成長する姿を見せる、それがアイドルだと酒井は打ち出したのでした。
そして、南の次に酒井がデビューさせたのが郷ひろみでした。ボーイ・ミーツ・ガール、そのままのタイトル『男の子女の子』で郷はデビューします。作詞は越路吹雪や加山雄三などの歌詞でヒットメイカーとしての地位を確立していた岩谷時子、作曲は筒美京平という万全の体制でデビュー曲が制作されました。郷ひろみはアイドルとして同世代の女子から熱狂的な支持を得ます。
シングルレコードでは異性との出会いの中、郷の成長が連載小説のごとく描かれていきます。そして、10枚目のレコード『よろしく哀愁』では、ついに大人への変身の姿が描かれました。一緒に住みたいと歌うように、性的な関係も既に築かれたと連想させる歌詞でした。作詞は安井かずみ、作曲は筒美京平です。郷ひろみはこの曲の大ヒットでアイドルからスターに脱皮して見せました。しかし、郷のタレントとしての成長は、ジャニーズ事務所で留まることを許さなかったようです。そこには、ギャラが極端に少ないこと、ジャニー社長の性癖なども影響していたことでしょう。
とにかく郷ひろみのこの曲によって、ジャニーズに受け継がれる「少年から大人へ」の物語が完成しました。その後の郷はセルフプロデュースの能力も発揮し、現在も活躍するスターとなっています。ちなみに、映画『少年たち』では、関ジャニ∞の横山裕がジャニー社長を思わせる看守の役で登場します。そこでは郷ひろみの移籍が骨折として表現されていました。映画をご覧ください。
郷ひろみが移籍したあと、ジャニーズ事務所には冬の時代が訪れます。井上純一や川崎麻世という、学園ドラマなどで活躍する人気タレントもいましたが、ヒット曲に恵まれず経営状態は厳しかったようです。その状況を打ち破ったのがドラマ『3年B組 金八先生』でした。そのドラマに登場した田原俊彦、野村義男、近藤真彦の3人は「たのきんトリオ」として熱狂的な女子の支持を得ます。その中から1980年6月に田原が『哀愁でいと』でデビュー。その大ヒットでようやくジャニーズの冬は終わります。それどころか、ここから10年間一分の隙もなくヒットを送り出し続けるのでした。
田原の次にデビューしたのが近藤真彦でした。当時、田原より人気あった近藤のデビュー曲は100万枚、ミリオンヒットというノルマが課せられて制作されたそうです。作詞は伝説のバンド・はっぴいえんどの元ドラマー松本隆、作曲はお馴染み筒美京平。そして、この曲でジャニーズ初のミリオンヒットが達成されています。この曲を起点に、郷ひろみ以来となる、少年から大人の男への成長がヒットシングルで描かれています。
近藤真彦から「私小説路線」を受け継いだのが光GENJIでした。デビュー曲『STAR LIGHT』はまだ大ブレイク前のチャゲ&飛鳥が手掛けています。その曲の大ヒットで一気に光GENJIは大ブレイクを果たします。ローラースケートが小学生に大流行するなど、社会現象とも言える人気でした。しかし、その人気は突然終わります。前作からの売上枚数が急減、3分の1に落ち込んだのが8枚目のシングル『荒野のメガロポリス』でした。前作『太陽がいっぱい』が光GENJIらしい明るさいっぱいの曲だったのに比べ『荒野のメガロポリス』は、その明るい世界の崩壊を歌った曲だったのです。
出だしの歌詞には「♬ 青い空が消えて行く 寒い寒い夢の中」とあります。光GENJIが描いてきた虚構の世界の終わりを告げているのです。それはもちろん少年から大人への変身を告げる歌ではあったはずです。しかし、それ以上の過剰さを見せるこの歌詞には、他の意味合いもあったと思うのです。ジャニーズの光と陰、その陰の部分を象徴するのがこの曲でした。そのことは『SMAP 王の物語』で書いています。ジャニーズ事務所は再び冬の時代に突入します。
後半はこちら。
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