ハノイの日本人

アイドル、ジャニーズ、サッカーなど。

吉本隆明『共同幻想論』を読もうと。

 

最初はゲンロンカフェのイベントから。断片的にしか観れてないんですけど、今は観てる時間がないので、気になったことだけ書きます。的外れだったら無視してください。「音像」の話。「音像」をフェティッシュという言葉で片付けるのはどうなのか? それで言えば、DUB でも 4つ打ちでも、変拍子でも、フェティッシュで片付けることはできる。「音像」が観えてない人から「ノイズを聴け」とか言われるんだけど、サウンドがノイジーかクリアかってことは、まったく関係ありません。テクノロジーがどうとかも関係ない。一番「音像」が観えやすいのはクラシックだと思う。指揮者が一つ一つの楽器の音を聴き分けられるのは「音像」がはっきりあるから。たくさんの「音像」の集まりを束ねてどのように形作るか? それが指揮者の個性なんでしょう。

 

予告で言ってるサウンドをキャラで語る話で言えば、「音像」はサウンドが脳内で色に変換されてイメージとして観えたりする。でも「音像」が観えない人がほとんどだってことは、もう十分にわかってるんですよ。だけどもそれを体験すると、身体中が痺れるような感動が得られるんです(それをフェティッシュだと言われるのか)。この前のハロプロの武道館でも、「音像」が立ち上がってきたときに、なんかプチプチ弾ける音がするって気づいて。しばらくして空間がサウンドに浸される感覚で満たされました。それは宮台真司さんが言う「表出」だと思うんです。技術の積み重ねによって現れるサウンド。でもそれを感じるためには受けて側の訓練も必要なんでしょう。モーニング娘。'20 の佐藤優樹さんはそれを感じれるようで、以前コンサートのサウンドについて言及されています。

 

例えば、ワールドカップの体験。私はその空間に放り込まれれば、自分ではコントロールできない圧倒的な「何か」に触れ、世界の見え方が変わる体験を誰もができると思っていました。でもそういう人ばかりではないようです。まあ楽しみ方は自由です。仮装してテレビに映ることがワールドカップだと思ってる人も結構な数いるので。

 

 

ヒプノシスマイク『Gangsta's Paradise』という曲が出たとき、「かっこいい」と書きました。それは「 ♪  力任せに  のさばる正義  ここは中王区以外の場所」という歌詞があったからです。出だしなので聴いてみてください。大麻を想像してもらうのがいい。芸能人が大麻で逮捕されると、テレビで袋叩きにあいます。「力任せにのさばる正義」という言葉を聴いて、それを連想しました。でも私たちは既にテレビをほとんど観なくなっています。その「外」にいる。そんなことをイメージしたんです。そういう歌詞って J-POP にはない。少ない言葉数でそういうことを表現する。素晴らしいと思いました。

 

ヒプマイのアニメ版は少し観ましたが、私が期待したのとは違いました。『おはようイケブクロ』の世界観で日常系のアニメを作って欲しかった。ラップなしで『おそ松さん』みたいな。みんなライムを書いたりしてるんだけど、その姿はチラッと雰囲気しか見せない感じ。

 

 

あとヒプマイとヤンキーについてだけど、LDHは関係なくて『フリースタイルダンジョン』ともう一つ語るならやっぱり『おそ松さん』だと思う。人気声優という絶対的なカードに何を掛け合わせるか。ヤンキーについては、90年代後半に近田春夫さんがラップやめてハウスミュージックに行ったとき、ヒップホップのライブって結局 族の集会と変わらないと発言されてる。来年になったらまたちゃんと観ます。ところで Creepy Nuts日曜日よりの使者』はアンチ・リアルをラップしてるの? それは気になってる。

 

私は批評のことをよくわかってないけど、わかろうとはしてるんです。やっと『共同幻想論』の話。「対幻想」という言葉が気になって、これまでも何度も読もうとしました。でもさっぱりわからなかった。そんな私に救世主。NHK『100分de名著』で放送された『吉本隆明 共同幻想論』回のテキストをゲンロンカフェでもおなじみ先崎彰容さんが書いていました。ありがとうございます! これを頑張って読んで、なんとなく輪郭はわかりました。なぜ東浩紀さんや宮台真司さんが賞味期限切れと言ってるかもなんとなくわかりました。それでも『共同幻想論』をなぜ読む必要があるかと言うと、佐藤優×斎藤環反知性主義ファシズム』という本で、濱野智史前田敦子はキリストを超えた』につて言及されてて、アイドル語るなら『共同幻想論』くらい読めと書かれてるんです。読まないといけない。(つづく)