ハノイの日本人

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吉本隆明『共同幻想論』を読もうと。後半

 

前回の文章を書いたあと集団ストーカーの電磁波攻撃を受けて、昨日は倒れていました。部屋にいると逃げ場がない。今日は夕方頃に起きて少し元気になったので映画を観てきました。『とんかつDJアゲ太郎』です。自暴自棄になってるわけではありません。最近、いくつか思うことがあります。上映前の予告を観て「誰がこんなクソ映画観るんだ?」と思うものでも、案外シンプルな物語の構造くらいは備えているんです。それは数年前までの状況と変わったと言えそうです。実写の『キングダム』のヒットもそれゆえでしょう。この映画もそうでした。大失敗してからもう一度やり直す話。簡単にまとめるとそうなります。そんな映画が価値を持つためには3人くらいの犠牲は必要です。伊勢谷友介さんに、伊藤健太郎さん、主演映画が大爆死した北村匠海さんも入れるべきか。現実も交えてちょっといい話になっています。

 

 

昔、角川春樹が監督した映画『REX 恐竜物語』が上映されたとき、春樹さんが逮捕されました。みうらじゅんさんが上映中止になる前に、駆け込みでこの映画を観に行きコラムに書かれたんです。安達祐実ちゃんの「逃げろ!REX」で大爆笑したと書かれていました。警察から逃げるREXが春樹さんの姿と重なって観えたのです。今回の映画で言えば、これでしょう。山本舞香さんの「私なんて今でも失敗ばっかりだよ」。胸を打たれました。切ない。なんで彼女は難関ばかりに挑んでいくのか? それが美少女の宿命なのか?

 

アイドルについて考えるために吉本隆明共同幻想論』を読もうとする話です。それを解説したNHK『100分de名著』のテキストを読みました。近代日本思想史の先生、先崎彰容さんが書かれています。難しい内容の話を、とてもわかりやすく説明してくださいました。吉本隆明が多くの思想家に影響を与えた理由が少しわかった気がします。先崎さんがまとめてくれたいくつかの文章を写しておきます。

 

史的唯物論」と呼ばれる歴史観からすると、経済構造以外の人間の諸活動は二次的なものとして軽視されがちになります。それを逆転させるために、個人と他者が生みだす関係性は「幻想」という概念でとらえるべきであると(吉本は)強調した。

 

国家や法だけでなく、宗教や土俗信仰にいたるまで、すべての共同体は「幻想」でつくられている。よって「共同幻想」の成り立ちを解明できれば、国家ばかりではなく、人間が他者と関係を結ぶことで起きるさまざまな現象をまるごと理解できるはずだ。吉本はこのように推察していたと言えるでしょう。

 

人間はしばしばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である。共同幻想もまたこの種の負担のひとつである。だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立する構造をもっている。そして共同幻想のうち男性または女性としての人間がうみだす幻想をここでは特に対幻想と呼ぶことにした。(『共同幻想論』「序」)

 

対幻想から共同幻想に向かう際、必ず「差異」や「矛盾」が存在する。それを乗り越える手段として農耕祭儀が始まった、これが吉本の考えです。

 

現代の私たちがつながりをつくる際、なぜ全面的に組織の方針を「信じて」しまうのか。小さなサークルの内部倫理「侵入」され、個人幻想を見失うのか。

 

他にもいろいろノートに書き写したのですが、ここではこれくらいにします。現代社会に生きる私たちからすると、国家や政治はそれほど重要な存在ではありません。本当にそれでいいのかは別にして、国政選挙の投票率の低さがそのことを証明しています。ポストモダン化が進み、共同幻想も変質しています。東浩紀さんが『動物化するポストモダン』で書いていた「大きな物語の衰退」が私たちの目にも見えるようになりました。昔のように生きる意味を社会が与えてくれません。輝かしい未来というような物語は、なかなか描けないのです。

 

その中で「新しい公共性」だったり「弱いつながり」という言葉を提出されているんだと、やっとわかりました。私のテーマである「エンタメは孤独を救えるか?」にも重要な示唆を与えていただきました。まだ『共同幻想論』は読んでいないんですが、頑張ります!