ハノイの日本人

アイドル、ジャニーズ、サッカーなど。

アニメ映画は繰り返し「孤独と暴走」を描く。3

 

 

 

第3章『天気の子』

 

陽菜はアイドル、帆高はそのヲタ。

 新海誠監督の2019年公開作品『天気の子』。まったくの偶然だが、この映画は京アニ事件の翌日に公開された。新海は以下のツイートを残している。

 

僕たちは、世界がすこしでも豊かに、わずかでも良くなることを願ってアニメを作っています。僕は今は映画のプロモーション期間であり、今夜0時からこの3年間の成果をようやくご覧いただけます。表現することに怯んでもいけないし、楽しんでほしいと心から思います。ただ、あまりにも酷すぎる事件です。

 

 実は「孤独と暴走」というテーマでこの文章を書き始めたのは、京都アニメーションの放火殺人事件があったからだ。社員や遺族だけでなく、アニメファンも大きなショックを受けた。なのに、この事件はかつての事件のように語られることがない。宮崎勤の事件、地下鉄サリン事件酒鬼薔薇事件、秋葉原事件など、動機不明で衝撃的な事件の後には、その是非はどうあれ傷ついた国民を納得させるべく犯人がその犯罪を犯すまでの道のりがメディアに溢れた。もちろん、今回は火傷の治療で裁判が開かれていないという事情もある。現場で取り押さえられた男は、京アニが自分の作品をパクったと主張しているが、それは大量殺人を犯す程のことなのか。

 

 事件が語られない理由を書き連ねる代わりに、映画『天気の子』にも描かれた「孤独と暴走」について考える。京アニ事件の容疑者、青葉真司(事件当時41歳)も「孤独」な人生を送った人物だからだ。日野百草著『ルポ・京アニを燃やした男』(2019年、第三書館)には、青葉のこれまでが取材によってまとめられている。青葉は自立してコンビニや派遣で真面目に働いたが報われなかった。

 

 映画『天気の子』はどのような作品だったか。高校1年生の森嶋帆高は学校にも家にも居場所がなく、家出して離島から客船に乗って東京にやってくる。その旅の途中、ゲリラ豪雨どころではない突然の水塊の直撃を受けて客船の甲板から放り出されそうになる。滑り落ちる帆高に救いの手が差し伸べられる。その手は小さな編集プロダクションを経営する須賀圭介のものだった。家出の身で東京で働き口があるわけでもない帆高は、次第に持ち金を使い果たし追い詰められていく。24時間営業のマクドナルドで夜明かしする帆高に、また救いの手が差し伸べられる。そこでバイトしていた天野陽菜が見かねてビックマックをくれたのだ。

 

 結局、帆高は怪しい人物だと思っていた須賀を頼ることになる。彼の編集プロダクションに住み込みで働く。そこでの仕事は雑務全般だが、オカルト雑誌への執筆も含まれていた。そして、ネット上で噂になっていた「100%の晴れ女」を探すことになる。異常気象で毎日雨が続く東京で、天気を操る女がいるという到底信じることのできない噂だった。だが、その女は実在しており、それは陽菜のことだった。二人はネット上で「晴れ女」の仕事を募集する。3700円をもらいお祈りし、短い時間だけその場を晴れにする。フリーマーケットや運動会、花火大会など、それは好評だったが、次第に陽菜の身体が変調を見せ始める。晴れ女の能力は陽菜の命と引き換えだった。陽菜に与えられた能力は、異常気象を沈めるために選ばれた生贄が持つ能力だったのだ。2人はどうなるか? こんなストーリーが展開される。

 

『天気の子』は田舎の男子高校生がかわいい東京の女子と恋愛する話だったのか? 天気の話は恋愛を盛り上げるために用意された障害に過ぎないのか? そのように観ることもできるが、ラブストーリーにしては中途半端に終わっている。恋愛が成就するかよりも帆高や陽菜が生き残れるかが描かれた。結論から言うが、これはアイドルとそれを応援するファンの関係について描かれた物語だ。人々の悲しみの雨で沈みそうになっている東京で、一瞬の晴れ間を見せる能力を持つ存在、それはアイドルに他ならない。

 

 ラストで晴れ女の能力を失ったはずの陽菜がそれでも祈りを捧げているシーンがある。これが映画を観た者に混乱を与えるのだが、グループ卒業後のアイドルと考えれば謎は解ける(*4)。テレビにあれだけ露出していたアイドルが、卒業と同時にメディアに出なくなる。よくある話だ。天候との繋がりはテレビとの繋がりだと考えればいい。だが、メディアに出れなくなり1人になっても陽菜は祈りを捧げ続けている。そこに帆高が駆けつけるのだ。帆高は再び東京に来て現場復帰した陽菜のヲタだった。祈りのシーンでは必ず応援に駆けつける。永遠を象徴する指輪を受け取ってもらえなくとも、ヲタは応援を続けるのだ。

 

 

新海誠は、なぜアイドルをテーマに選んだのか?

 この映画において天気はキラキラ輝いて見えるテレビの世界だ。テレビはアイドルにとって雲の上の世界なのだ。帆高が東京を目指した理由も、その世界を垣間観たからだった。自転車でキレイな雲を追いかけるシーンがあった。陽菜はアイドル、帆高はそのヲタ。その見立てで映画を追って行く。

 

 

   天気:テレビ、マスメディア

 天気の子:テレビっ子

    雨:人々の涙、または、テレビの電波、情報

   陽菜:アイドル

   帆高:そのヲタ

   祈り:アイドルのパフォーマンス

   拳銃:孤独に起因するオタクの暴走(現在オタクは特別な存在ではないが)

 

 

 まず客船で巨大な水塊を受け、帆高が船から落ちそうになるシーン。この水塊はテレビや雑誌メディアによる情報の洪水のことだろう。情報を扱う仕事をする須賀に帆高は助けられる。次に帆高が陽菜と出会ったマクドナルド。そこで彼は有線から流れるアイドルソングを聴いたのだろう。そして、無銭イベント(ビックマック)でアイドルに救われる。帆高はその世界にハマっていく。

 

 陽菜はどのようにして天気を操る能力を手にしたか? 病院で母を看病しているとき、一箇所だけビルの上に太陽の光が注いでいるのを窓から見る。そして、その場所に行き、天気を操る能力を身に付けた。窓はテレビ画面で、光はステージを明るく照らすスポットライトだ。ライトに照らされる場所まで行きアイドルになった。アイドルは人気が出るほどにテレビなどメディアに登場する機会が増える。花火大会のステージで歌えば、翌朝ワイドショーで紹介されもする。

 

 2021年1月3日、映画『天気の子』は地上波テレビで放送された。ネット上では、それを観た視聴者が「無責任なラストだ」と騒いだ。能力を持つヒロインが、自己犠牲をもって沈み行く「東京」を救うラストを望んだのだろう(ナウシカは身を投げ出した!)。しかし、新海は確信犯的にそれを回避している。テレビが繰り返しメッセージとして送るような「正しさ」に背を向けること、それが描きたかったからだ。

 

 新海は天気なんて、狂ったままでいいんだ!」と帆高に叫ばせたが、この言葉を中心にして最初の企画書は書かれたとパンフレットで語っている。続けて「やりたかったのは、少年が自分自身で狂った世界を選び取る話。別の言い方をすれば、調和を取り戻す話はやめようと思ったんです」と語るのだ。それは結婚を望むような「正しい」人生ではなく、アイドルを追いかける「狂った」人生を、自分自身で肯定してもいいという強いメッセージだった。

 

 この映画は私たちを取り巻く厳しい「現実」をテーマにしている。私たちが足場とすべき「現実」は既に水没していると描かれているのだ。それこそが「不可能性の時代」であるだろう。ならば、ここで立ち止まって考える必要がある。押井守大塚英志が80年代に指摘したこと『「現実」への途を取り戻す』は、現在でも有効なのだろうか?

 

 細田守監督『未来のミライ』までは、「虚構」と「現実」の両方を行き来することが必要だと描かれた。「現実」も大事だが、逃避も必要だろうと。しかし、その次の年に上映された新海の『天気の子』では、「暴走」して逮捕される「現実」よりもアイドルを救う「虚構」を選ぶことで、二人は生還できたのだ。新海は自分を犠牲にしてまで向き合うほど、「現実」には価値がないと言っている。水没してるんだから。無理して古い価値観に縛られた「現実」に立ち向かい、自殺したり、殺人を犯す必要はない。

 

 細田作品のような映画も必要であるが、生涯未婚率は急激に上昇している。家族を持つことなど想像もできない人々は、現実の男性もしくは女性と仲良くなることを諦め、現実離れしたアニメの登場人物を愛するか、それでも3次元がいいと思う者は、半分架空の存在であるアイドルを応援する人生を選びもする。どちらにしても周囲の誰かに承認してもらうのではなく、自分のことを自分自身で承認する人生、もしくはある種のサービスに承認してもらう人生だ。人生を構成するいくつもの出来事は、サービスに置き換わり、ひとりでも生きていける環境が整いつつある。新海は初めから結ばれることを目的としない、ゆるい繋がりという欲望のあり方を描いてみせた。それが日本水没後の「現実」に対応した生き方なのだ。

 

 希望のない世界で、帆高はアイドルと共に生き抜き、青葉や加藤は自らの「怒り」を〈他者〉に理解させるため剥き出しの暴力、すなわち「暴走」を実行し自滅した。こんなことを書いていると、またしても「社会」のせいにするなという批判がくるだろうか。どんな境遇にあってもしぶとく生き抜く人間はたくさんいると。もちろん、その通りだ。だが、その一方で「社会」の「外」に出て行く、放り出される、そんな人物が誕生し続けるのも、また事実なのだ。その状況を改善するよりも経済を回すことが優先される。自殺者が増えるという理由もあるからだが。

 

 ここまで書けば、なぜ京アニ事件が語られないかがわかるのではないか。このような衝撃的な殺人事件すらも、私たちを取り巻くシステムに、リスクとして織り込まれているからだろう。それ故、いくら私たちアニメファンがショックを受けたと言ったところで、「社会」からの返事は返ってこない。せいぜい京アニ事件はテロではない」というような言説が繰り返されるだけだ。

 

 行き過ぎた資本主義を止めることは可能だろうか? 今のことろそのアイデアはない(私自身はベーシックインカムの採用を求めたい)。であるなら、私たちにできることはこれしかない。王蟲に戻ることだ。多少はこぎれいな格好になっていても、世界を浄化する腐海の森を守る王蟲に戻るしかないそれが「孤独と暴走」を描くアニメ映画がつくり続けられる理由だ。それは「暴走」する者たちに届く唯一の通信手段と言える。その者たちと「対話」できるのは、同じく「暴走」する資質を持ちながら、表現という武器を持つことで踏みとどまっている者たちにこそ可能なことなのだ。「孤独と暴走」を描く映画が、これからも誕生することを願う。私たちはそんな映画があることで「孤独」を抱えながら生きることができる。(脇田 敦)

 

 

*2:吉本隆明大塚英志による対談本『だいたいで、いいじゃない。』(2000年、文藝春秋)には、大塚によるエヴァ解説がある。一部私の読解と重なる部分があるのを見つけた。これは大塚の代表作『物語消費論』を何度も読んできた私のシンクロ率が上がったためだろう。

 

*3:社会学者の見田宗介は、現実を意味づける反現実によって、戦後を3つに分けた。大澤はそれを発展させ、1945年から1970年までを「理想と現実」から「理想の時代」。1970年から1995年までを「虚構と現実」から「虚構の時代」と名付けた。「理想の時代」の極点は大阪万博で、「虚構の時代」の極点は地下鉄サリン事件だ。

 

*4:陽菜は実際にはソロアイドルだ。新海が彼女をソロにした理由は、グループ内の過剰な競争を排除する必要があったからだろう。それは東京に降り注ぐ涙の原因でもあるからだ。

 

 

参考文献

太田出版編『Mの世代』(1989年、太田出版

宮台真司『終わりなき日常を生きろ』(1995年、筑摩書房

東浩紀動物化するポストモダン』(2001年、講談社現代新書

大塚英志東浩紀『リアルのゆくえ』(2008年、講談社現代新書

大澤真幸編『アキハバラ発』(2008年、岩波書店

雑誌『ロスジェネ別冊2008』(2008年、ロスジェネ発行)

中島岳史ほか『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』(2011年、金曜日)

津堅信之京アニ事件』(2020年、平凡社新書