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宮台真司、なぜ暴走でしか世の中は変わらないのか?

 

 

足立正生監督作品『REVOLUTION+1』の上映後に行われたイベントから、宮台真司さんが話された内容の一部についての文字起こしをします。イベントは IWJ で中継されています。動画をご覧ください。

 

 

 

宮台真司7月8日の銃撃事件の1週間後くらいですかね、『朝日新聞』にある記事を出した。で、最も重要な部分について朝日新聞』から削除され、すったもんだあったんですけど、まあ、出ないよりはマシだと記事は出ましたが、そのあと J-CASTニュースでどこが削除されたか2回にわたってバラしました。

 

 

(中略)僕がこの記事で言いたかったのは、国家権力がまともに働かないときには、自力救済しかない、ということなんですね。これは17世紀半ばにトーマス・ホッブスという人がリヴァイアサンという本で書いていることなんです。政治学社会学の古典なんですね。

 

どういう本かと言うと、だいたいみなさん間違って理解してるんだけど、こういうことです。僕らは昔から自力救済でやってきた。やられたらやり返す。盗まれたら盗み返す。殺されたら殺し返す。犯されたら犯し返す。同害報復といいます。ずっとこれでやってきている訳ですが、そこで我々が国家権力をつくる、統治権力を容認するというのは、どういうことかと言うと、自力救済をやめて、国家の暴力を信頼する代わりに、自分たちは経済活動や、社会活動に勤しみます、と、こういう図式なですね。

 

僕は読んだ当時から、裏を返せば、統治権力がまともに機能せず、信頼不可能なときには、自力救済しかない。という議論なんですね。で、もちろんこれは無政府主義にも一部つながる発想なんだけど。例えば、スペイン、バルセロナなどから出てきた「ミニスパイズム?」。共同体自治という発想は、国家は頼れないから、我々は我々を、小さなユニットで統治して行こうということなんですね。

 

でもこれには条件があって、コミュナリティ(共同性)と言いますけれど、ある程度の分厚い仲間意識がなければ、共同体自治って無理なんですね。日本はどの国よりも真っ先に、地域も家族も、すっからかんに空洞化したので、共同体自治の基盤がないんですね。だから個人が自力救済するしかない。

 

個人が自力救済するときには、もちろん怨念を抱いているだろうし、絶望もしているだろうから、暴走しがちなんです。なので、この記事だけでなく以前から、無差別殺害事件、日本だけじゃなくて、アメリカでは毎日のように起こってますけど。これも実は自力救済。共同性、仲間意識が無くなった中での自力救済が、暴走になるという摂理を示しているのであって、だからこれからも暴走は続くのだということを『朝日新聞』にも書いてきました。

 

ということは、道は2つしかないんです。統治権力が信頼されるようになるか、それは(映画の中で)妹さんが最後に言ったことだけども、もう一つはコミュニティ・ミニスパリズム。みんなが連帯して、国家はどうでもいいや。俺たちは俺たちを統治すると言って、小さなユニットの自治的な共同体を各所に作って行く。それと矛盾のない形で上のレイヤーを構成して行くしかないでしょう。と、考えると、日本は本当に絶望的だというのが『朝日新聞』の記事の趣旨だったんですけどね。

 

(中略)安倍というのは、ある種の日本の切り口であってね、日本全国どこを切っても、安倍の顔なんですよ。映画の世界だろうが、芸能の世界でもあったじゃないですか。詳しいことは言いませんが、電力の世界だろうが、大学のアカデミズムであろうが、横をキョロキョロ観、キョロ目ですよね。まさに三島が言う、空っぽな人間たちが無様に蠢いている。これを日本人の劣等性と僕は言ってきましたけど。

 

まあ、いまいろんな形で、オリンピック疑獄、自民党統一教会のズブズブ、という形で、表に出たのはいいことでね。なぜこれは表に出たんですか? 安倍晋三の死で瓶の蓋が取れたからでしょ。

 

なので、これは山上徹也容疑者が何をどこまで想像していたかは横に置くとして、機能としてはね、、、いいですか、機能としては世直しとして機能してますよね。山上を美化するのか? 違うよ! なんでこの山上の事件で、世直しが初めて作用するようなこの体たらくを、我々が、政治家が、市民が、とりわけ『朝日新聞』などのマスメディアが放置してきたのかが問題でしょ?(足立監督が拍手、会場に拍手が広がる)『朝日新聞』が僕の記事を削除したってことで明らかじゃないか!

(さらにイベントは続く)