ハノイの日本人

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2006年 ドイツ ワールドカップ。前編

ドイツ大会は私が一番熱狂した大会でした。前回の日韓共催トルシエ 監督が嫌いだったので、試合には熱狂したものの、心から応援できないなにかがあったのです。今から思えば、そこそこ優秀な監督だったわけですが。でも、ドイツ大会は違いました。一次予選からダメダメの 日本代表 を観ても「いやいや、選手は必ずやってくれるはず」と応援しつづけたのです。それだけに、あの結果は…  それを書く前に、きょうはワールドカップを追いかける 日本代表サポーター の体験談 を集めた本を紹介します。


日本サッカー狂会

日本サッカー狂会


上の本は日本で初めてできた サポーター集団『日本サッカー狂会』の歴史本です。1964年の 東京オリンピック を前に「静かなスタンドに活気を与え 日本チームを応援しよう」と有志が集まってできたグループでした。その最初の集まりに 愛知のサッカー和尚こと 鈴木良韶さんが持参した横断幕には、「日本サッカー狂会」という文字が入っていたのです。グループのリーダーだった東京の 池原謙一郎さんは、その旗を見て即決。グループ名はこれしかないと思ったそうです。1962年 12月のことでした。呼称は「きょうかい」だったり「くるうかい」だったりします。当時、「日本サッカー協会」は「日本蹴球協会」を名乗っていました。こちらのネーミングの方が早かったわけです。それ以降、日本各地から海外へと活動の場も広がって行きました。1978年には軍事政権下のアルゼンチン・ワールドカップにも狂会員は参加しています。


ワールドカップ出場にあと一歩まで迫った 1985年のメキシコ・ワールドカップ最終予選をきっかけに、狂会のメンバーも飛躍的に増えて行きました。徐々に力をつけてきた 日本代表選手。それに追いついていない協会、監督。1990年、日本で初めての「監督解任運動」が萩本良博さんを中心に行われました。イタリア・ワールドカップ一次予選敗退、つづけてアジア大会敗退、にも関わらず 横山監督が解任されなかったことを受け、萩本さんは署名運動を開始。サッカー専門誌、大手新聞を巻き込んで、このままではいけないという危機感を共有してもらう活動を続けました。結局、バルセロナ・オリンピック予選敗退後、やっと 横山監督 は辞任しました。なぜ、この方は長く監督であり続けたか? まだ予算が少なかった日本サッカー協会。この方の給料は所属する会社がだしていたそうです。それほど協会も貧乏な時代だったのです。



1992年は日本サッカーの転換期でした。初の外国人監督オフトの登場です。翌年の J リーグ 開始を前に、ナビスコカップの熱戦も繰り広げられました。日本にもプロサッカーの時代が訪れたのです。サポーターの世界も激変しました。秋に広島で行われたアジアカップで、植田朝日さんを中心としたサポーター集団「ウルトラス」が注目を浴びたのです。サッカーの人気が上昇し、狂会が活動していたバックスタンドも座席指定となり、狂会員は思うような活動ができなくなっていました。その時期に活動を活発化させたのが ウルトラス でした。彼らは会場にいる人全員を巻き込むアクティブな応援を始めたのです。それ以降、日本代表の試合には必ず ウルトラス の大きな旗が見られるようになりました。詳しい話は『日本サッカー狂会』を御覧ください。最初の写真ページを見るだけでも楽しいと思います。サガン鳥栖の監督をしている 松本育夫さんの現役時代の話も伺っています。これ、私が制作したんですよ。


フランス大会のときから、ワールドカップの時期には書籍を制作してきました。しかし、このときは間に合わなかったのです。なにしろ40年分の資料があったので。それを消化するのに必死でした。結局、上の本が発売されたのはワールドカップが終わって1年近くが経ってからでした。そう、ハノイで行われた アジアカップ の前にやっと発売できたのです。もちろん、その後、日本代表を追ってハノイに来ました。オシムさんの指揮するチームはこれからが楽しみになるワクワクできるチームでした。その幸せな経験があったので、私は次の年ハノイに移住したのです。しかし、オシムさんは重病を患い、代表監督から離れてしまわれました。まさか、その最終的な作品がこのような無惨なものになるとは想像もできませんでした。長い日本サッカーの歴史のなかでは、こういうこともあると思うべきなのでしょうか?