ハノイの日本人

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新中野 イル ヴェッキオ ムリーノ。

イタリアンのシェフになりたいという人がおられたら、新中野の「イルベッキオ・ムリーノ」を覗いてみてはいかがでしょうか? 私が東京にいた頃、田中シェフはコックの見習い、もしくはホールの募集をされていました。問い合わせてみてください。
連絡先:03−3380−0275 
住所:東京都中野区本町4−21−9 京マンション1階

東京の新中野にいた頃、毎週2回イタリアン・レストラン「イル ヴェッキオ ムリーノ」でおいしいランチを食べていました。前菜3種+生野菜、パスタ、デザート、コーヒー、、、これだけ盛りだくさんで1500円! しかも、前菜の3種はそれぞれ丁寧につくられた料理でしたし、コーヒーもデザートも、もちろん、メインのパスタも、田中シェフのこだわりを感じられる料理でした。
これはどなたかが書かれたブログ。写真が私よりうまいので、、、
http://blogs.yahoo.co.jp/jurimarie1968/37418007.html#37418007


田中隆紀シェフは24歳のとき、イタリアで飛び込み修行をした経験をお持ちです。そのときイタリア語はまったく出来なかったそうです。ベトナム移住を前に不安になっていた私は、田中さんの経験から学ぼうと思いインタビューをさせていただきました。これから何回かにわたって当ブログに掲載しようと思っています。ご近所の方は、ぜひ新中野の「イル ヴェッキオ ムリーノ」に足を運んでみてください。

田中隆紀(たなか たかのり)S49年東京生まれ

——いつもおいしいランチを食べさせてもらって感謝しております。実は私もむかしコックになりたいと思ったことがあったんですけど、両親に反対されまして。中学生のとき「辻料理師専門学校に行きたい」と言ったら、近所のフランス料理店に連れて行かれて、そこのシェフから「あんなとこ行ったら、いらん知恵ばかりついて、使い物にならない」とか言われたんですよ。
田中:それは確かにあるんですよ、、、、やっぱりこう、いい素材を使ってとか、、、僕も専門学校は行ってないんですよ。
——「美味礼讚」って本はご存知ですか? 辻料理師専門学校を創設された方の伝記本なんですけど。それを読んだとき、あのとき行っておけばよかったと思ったんですけど、、、

美味礼讃 (文春文庫)

美味礼讃 (文春文庫)

田中:僕の場合は、なんで料理の世界に入ったかというと、食いっぱぐれがないじゃないですか。食べてる限りは死なないですから。戦時中じゃないんですけど、自分で生活して行くことを考えたら、、、、。だから、最初は料理に興味がなかったんです。
——会社辞めたのは何年ですか?
田中:95年ですかね。日本で3年半修行してるんですよ。21から24くらいまで。**にあったイタリア料理の「コロンブス」というお店です。そのオーナーシェフが有名な人で、夏目雅子とか阿部静江とかをイメージした料理を作って話題になったこともある人なんですよ。実家の近くで探したら、たまたまそこだったんです。最初は皿洗いですよね。
——じゃあ、飛び込みですか?
田中:そう、電話して、、、、
——食べには行ったんですか?
田中:行ってないです。だから、最初は本当に料理に興味がなかったんです。「専門学校どこですか?」って聞かれて、「いや、僕はなにも行ってないんですよ、、、」って言うと、やっぱり躊躇されて。「エコール」って辻の系列が国立にあるんですよ。フランス料理専門で。みんなはそこを出てたんです。でも、「まあ取りあえず面接に来てくれよ」と言われて、行ったら採用になったんですよ。後からわかったのは、そのとき皿洗いがいなかったそうなんです。だから入れてもらえたんですけど。
——何人くらいが働いてるお店だったんですか?
田中:調理場が7人、、、、表が5人くらいかな、、、、
——じゃあ、結構大きなお店だったんですね。
田中:ええ、80席くらいはありましたから。そこで3年半イタリアに行くまで修行していました。
——そのお店ではどのくらいまで出来るようになっていたんですか?
田中:一応、前菜とか、、、、パスタというのは、イタリア料理ではメインの扱いなんですよ。魚や肉というのは、ある程度時間で焼けるというのが、、、もちろん、焼き方はあるんですけど。パスタは一番微妙な、、、、
——日本料理でいうとお椀ものみたいな感じですか? 一番難しい、、、、
田中:そう、難しいんですよ。だから、その手前まで、肉や魚まではやって、イタリアに行ったんです。

<田中さん、イタリアへ>
——じゃあ、そのお店をでていくきっかけはなんだったんですか?
田中:その「コロンブス」というお店は共同経営だったんです。シェフと出資者、車の販売やってる社長が一緒に経営してたんです。凄く流行っている店だったんです、月に1千万円くらいの売上はありましたから。それがある日、出資者がいきなり店の鍵を閉めて電気も切って、入れなくして、、、なんか2人の間であったんでしょうね。
——じゃあ、店自体がなくなったんですか?
田中:店はいまでも続いているんですけど、やはりシェフが代わって味が違うので、、、。シェフもいまは荻窪でお店をされているんですけど。それで、、、忙しかったから、なかなかイタリアにも出れなかたんですけど、それを機にイタリアに。
——一生懸命やっておられたでしょうから、3年半もあっという間でしょうね?
田中:あっと言う間ですよ。営業が毎日11時まであって、そこから明日の仕込みがありますから、帰ったらいつも3時、4時ですよ。それが毎日ですから。でも、そこで基本を身につけた。僕にとっては原点と言える場所でした。イタリアから帰ってからも、一度、荻窪コロンブスで働いてるんですけどね。
——イタリアにはいくらぐらいのお金を貯めて行かれたんですか?
田中:悲惨なことに、30万円で行っちゃったんですよ。当時はまだユーロじゃなくてリラでしたから、物価はもっと安かったんですけど。
——それは大胆ですね。でも、日本で働いてる間、使う暇がなかったでしょ?
田中:使う暇はなかったですけど、やっぱり、見習いの給料っていうのは少ないものですから。普通は何百万と貯めて、イタリアではただ働きをして料理を習う人が多いんですけど、僕の場合は働いたらその分はお金をもらえるだろうと勝手に思って行ったんです。
——素人じゃないですもんね。
田中:ええ。でも、イタリア人は、日本人には料理の技術は教えてあげるけど、お金は払わないよって感覚だったんです。だから、そこが最初の難関でした。
——じゃあ、お金がない状態でどうされたんですか?
田中:ローマに降り立って、すぐにフィレンツェに行ったんです。高校の野球部の友達がフィレンツェにいたんで。彼も料理をやってるんですけど。そこに住んで語学学校と部屋探しをしたんです。実は、イタリア語できるようになるまでは、日本料理屋でバイトしながらって計画としてはあったんですよ。あの、、、梶芽衣子って知ってますか?
——あっ、はい、「女囚サソリ」。
田中:はい? 僕、全然知らなかったんですけど。
——めちゃめちゃ有名な人です。

梶芽衣子全曲集

梶芽衣子全曲集

田中:その人の弟さんのお店がフィレンツェのど真ん中に開くということで、そこで働くことになってて、東京でも一度お会いして話を聞いてたんですよ。でも、イタリアの工事って遅くてなかなか進まなくて、僕が行ってからも工事をしてたんです。だから、少ししか働けなかったんですけど。オープンくらいはいました。で、イタリアンの仕事を探しだしたんです。でも、お金はその時点ですでに底をついてました。
——レストラン以外の仕事をしようとは思わなかったですか?
田中:言葉がねえ、、、
——いや、例えば、穴掘るだけなら言葉はいらないでしょうし、、、
田中:ああ、それは、料理以外のことをしに来たんじゃないって、どっかであったんでしょうね。フィレンツェのレストランに片っ端から飛び込みで行って、仕事を探して、でも、なかなかなくて。あるとき、友達とフィレンツェの郊外まで食べに出かけたんですよ。そのとき店のオーナーに働きたいと言ったら、「いまひとは足りてるけど、そういうことならお店を紹介してあげるよ」と言ってもらって。それがこの店の名前の元となった「イルベッキオ・ムリーノ」というお店だったんです。(つづく)