ハノイの日本人

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若者は希望を捨てていますか?

「高度経済成長時代」というのを体験してみたくて、私はベトナムに移住することにしました(団塊世代の退職組でそういう人が結構いるのには驚きましたが)。これからベトナムが経済発展して行く中で、そこにいれば「自分にも何が起こるかわからない」と考えたからです。「予想不可能な未来」というのは、私が楽しく生きて行く上で必要なことだったのです。ベトナムには「希望」があると、経済誌のインタビューでも答えました。


以前、「希望格差社会」という言葉が流通していましたが、今度は「希望を捨てる勇気」という発言がでてきました。池田信夫さんのその発言は、読み進めて行くと「挑発」もしくは「皮肉」のようにも聞こえます。「実社会で闘うことをあきらめた若者」は「2ちゃんねる」で遊んでいればいい。それも長期停滞が継続するいまの現状に適した生き方だと。そんな生き方が「しあわせ」とは思えないが、たしかに、現状に適した生活の仕方であると。どうなんでしょう、これに対して反応する若い人はいるでしょうか?


そもそも「希望」というのは、経済成長を前提にしてあるものなのでしょうか? 私自身は「経済成長」を体験したくてベトナムに来ているわけですが、それとは別に生活レベルを無理矢理下げるためというのもあります。働かなくても2年程生活できる地域として、ベトナムを選びました。ベトナムでの生活費は東京にいたときの3分の1以下です。頑張ってる人たちは月4万円以下で暮らしています。


「経済成長」が望めない中での「希望」とはどういったものなのでしょう? 普通にあるようにも思うのですが。考えてみたいと思います。


◉希望を捨てる勇気(池田信夫 blog )
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/6f12938eaad206d10b7629456f0a051e
『90年代の「失われた10年」と現在はつながっており、そしてこの長期停滞には終わりがないかもしれないのだ。これを打開するには、生産性(TFP)を上げるしかない。特に雇用を流動化して労働の再配分を行なう必要があるが、それには非常に抵抗が強い。日本の産業構造が老朽化しており、これを再編しないと衰退する、と多くの人が90年代から警告してきた。20年間できなかったことが、これから数年でできるとは思えない。政治家にも、与野党ともにそういう問題意識さえない。

こういう状況は若者の意識にあらわれている、と城繁幸氏はいう。それは「希望のなさ」だ。かつては誰にでもチャンスはあり、一生懸命働けば報われるという希望があったが、もう椅子取りゲームの音楽は終わった。いま正社員という椅子に座っている老人はずっとそれにしがみつき、そこからあぶれた若者は一生フリーターとして漂流するしかない。だから彼らは意外に「正社員になりたい」という願望をもっていない。気楽なフリーターに順応すれば固定費も少なく、それなりに生活できるからだ。この状況から「派遣村」のように労働組合と連帯しようという方向と、赤木智弘氏のように「戦争」を求める方向の二つにわかれる。前者のほうが建設的にみえるが、実はその先には何もない。彼らが連帯を求めている労組は、椅子にしがみついている人々だから、同情して仮設住宅を世話してくれるが、決して席を空けてはくれないのだ。この椅子取りゲーム自体をひっくり返すしかない、という赤木氏のアナーキーのほうが本質をとらえている。

しかし残念ながら、若者にはその力はない。かつてのマルクス主義のような、彼らを駆り立てる「大きな物語」が失われてしまったからだ。こうして実社会の共同体から排除された若者は、仮想空間で共同体を築く。「2ちゃんねる」に見られるのは、似たもの同士で集まり、異質なものを「村八分」で排除することに快楽を見出す、ほとんどステレオタイプなまでに古い日本人の姿だ。世界のどこにも見られない、この巨大な負のエネルギーの中には、実社会で闘うことをあきらめた若者の姿がみえる。

これから始まる長期停滞においては、少子化とあいまって、ほぼゼロが自然な成長率になるだろう。こんな狭い国に1億3000万人も住んでいるのは多すぎるので、少子化は悪いことではない。しかし椅子にしがみついた老人たちは、退場するとともに椅子も持ち去り、将来世代には巨額の政府債務とマイナスの年金給付だけが残る。こういう将来を合理的に予測すれば、それに適応して生活を切り詰め、質実で「地球にやさしい」生活ができる。日本は現在の欧州のように落ち着いた、しかし格差の固定された階級社会になるだろう。ほとんどの文明は、そのようにして成熟したのだ。「明日は今日よりよくなる」という希望を捨てる勇気をもち、足るを知れば、長期停滞も意外に住みよいかもしれない。幸か不幸か、若者はそれを学び始めているようにみえる』