ハノイの日本人

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作詞家 阿久悠と スター誕生! その1

女性アイドルの歴史を振り返っています。前回は「最初の女性アイドル歌手 南沙織」というタイトルで、アイドルが誕生した前後の話を書きました。そして、アイドルとファンの関係が宗教化していく最初の曲が、麻丘めぐみ『女の子だもん』であることを確認しました。


◉最初の女性アイドル歌手 南沙織
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20130511/1368274042


今回はすでに伝説、日曜日午前11時のオーディション番組『スター誕生!』を中心に書きます。山口百恵ピンクレディーを生んだ番組としても知られていますよね。最初のアイドル 南沙織デビューと同じ年にスタートしています。教科書は番組の企画者であり、そこから誕生した歌手たちのプロデューサー的役割もした 阿久悠さんの本です。この本は凄いですよ。ももクロ の誕生にも大きく関係していると私は考えます。



◉ 1971年6月 南沙織『17歳』(CBSソニー)でデビュー
◉ 1971年10月 オーディション番組『スター誕生!』(日テレ)開始
◉ 1972年7月 森昌子『せんせい』(徳間)でデビュー
◉ 1973年2月 桜田淳子『天使も夢見る』(ビクター)でデビュー
◉ 1973年5月 山口百恵『としごろ』(CBSソニー)でデビュー
◉ 1973年12月 カラーテレビが白黒テレビの普及率を上回る


まずは番組誕生の経緯から。オーディション番組は『全日本歌謡選手権』など、それまでにもありました。しかし、この番組ほど切羽詰まった状況でスタートした番組はありません。当時、芸能界で絶対的な力を持っていた渡辺プロダクション日本テレビが戦争状態になったことが企画の発端でした。


この頃、人気歌手の多くは渡辺プロ所属でした。制作番組も多く絶大な力を持っていたのです。その中で日本テレビの看板歌番組『紅白歌のベストテン』の裏に渡辺プロ制作の歌番組がスタートすることが決定。『紅白歌のベストテン』にナベプロ系の歌手は一切出さないと通告されたのです。


日本テレビ音楽班のプロデューサー池田文雄は「貸さないと言うなら、こちらで作るまで」と、ナベプロと全面対決する道を選びます。そして「どうせやるなら、日本一のタレント・スカウト番組にしたいんだ」と 阿久悠に声をかけたのでした。阿久は逆境を好機に変える。新時代のスターをつくると燃えました。



番組はコント55号として人気のコメディアン萩本欽一を司会に据え、1971年10月にスタートします。当初は主に萩本の活躍で視聴率を上げて行きました。しかし、番組本来の目的である新時代のスターがどのような者であるかはまったくイメージ出来ず、阿久は苦しみます。のど自慢的な歌の上手さや、プロを目指す歌手の苦節ウン年的疲れを嫌い、それくらいなら「できるだけ下手を選びましょう」とさえ言ったのでした。ようやく光が見えたのは第7回。森昌子の登場でした。


 ⇒何一つ光るものを持たない地方の中学生と見たのは、全くぼくの不明で、何か彼女の登場で、これまで六回、モヤモヤとしていた気分が晴れていく気さえしたのである。(中略)これをきっかけにして、応募者の個性も年代層も一変し、少女の時代を見せつけるようになるのである。(P47)



『スター誕生!』の通常回は 阿久悠をはじめとした作詞家、作曲家たちを中心に、レコード会社、明星などの雑誌編集者が審査員として参加しました。そこで合格すると、今度は3ヶ月に1度ほど行われる決戦大会に進みます。すると今度は、客席にいるレコード会社、プロダクションのスカウトマンたちを前にして歌うのです。そして「森田昌子(本名)、十三歳です。一生懸命歌いました。よろしくお願い致します」というように、出場者がスカウトしてくださいと呼びかける方式が取られました。


第一回決戦大会では、森田昌子に13社が獲得の意志を表明するプラカードをあげ、第一回グランドチャンピオンに選ばれています。しかし、欽ちゃんが「どうぞ!」とスカウトたちに促しても、プラカードがまったくあがらない場合も多くありました。このタレント候補の明暗をそのまま見せる演出は、マスメディアによって「奴隷市場の人身売買」とも書かれたそうです。なぜ、そのような方式が取られたのでしょう?


 ⇒「(前略)ぼくは、今度のオーディションは、芸能界に何とはなしの畏れを抱いている人を、どのくらい取り込めるかが勝負だと思う。だから、みんな見えるようにしたい。合格した人を、誰と誰が関心を持ち、誰がスカウトし、どういうトレーニングを受け、今どんな状態にあって、いつ世の中に出て行く予定があるのか、関わった人の顔が全国の人々にわかるようにしたいんだ。(後略)」


阿久は審査員やレコード会社など、タレントのデビューに関わった人たちが責任と義務を持つことを全国に表明する形式として、プラカードをあげる方法を取ったのです。皮肉にも、そのことが芸能界の残酷さを示すことにもなりました。これは おニャン子クラブモーニング娘。を生んだ、デビューまでの過程を見せる方式「リアリティーショー」型アイドルの最初でした。(つづく)