ハノイの日本人

アイドル、ジャニーズ、サッカーなど。

YMO とピンクレディーの関係。

 

昨日『変身型アイドルはどのように誕生したか?』という文章を書きました。BEYOOOOONDS のようなアイドルが誕生する過程についての文章です。その2回目。きょうは YMO について考えようと思います。YMO も変身型アイドルの仲間だと私が思っているからです。YMO が活動初期のライブではピンク・レディー『ウォンテッド』のカヴァーをしていたという話もあります。しかし、そのことについて現在語られることはないですよね? なぜ YMO はその曲にこだわったのか? 当時めちゃくちゃ売れてた曲ですよ。ミリオンセラー。それをカヴァーすることの恥ずかしさはなかったのか? その選曲には理由があるはずです。

 

  

1972年12月 細野晴臣大瀧詠一松本隆鈴木茂のバンド、はっぴいえんど解散

1975年6月 細野晴臣『トロピカル・ダンディー』発売

1975年8月 ヴァン・マッコイ『ハッスル』日本発売

1976年7月 細野晴臣泰安洋行』発売

1976年8月 ピンク・レディーペッパー警部』でデビュー

1977年9月 ピンク・レディー『ウォンテッド』*変身を歌う

1978年4月 細野晴臣&イエロー・マジック・バンド『はらいそ』発売

1978年7月 映画『サタデー・ナイト・フィーバー』日本公開

1978年11月 大瀧詠一プロデュース『LET'S ONDO AGAIN』発売

1978年11月 細野晴臣高橋幸宏坂本龍一YMOイエロー・マジック・オーケストラ』でデビュー

1979年5月 ピンク・レディー『Kiss In The Dark』(シングル)世界40か国で発売

1979年9月 YMO『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』発売

1981年3月 ピンクレディー解散

1982年3月 大瀧詠一『A LONG VACATION』発売

1983年12月 YMO散開

 

まず YMO がカヴァーした曲が『ウォンテッド』であることに注目しました。この曲でピンク・レディーは好きになった彼が変装の名人であると歌っています。 それは片岡千恵蔵が演じた映画シリーズ『多羅尾伴内』、別名「七つの顔を持つ男」へのオマージュでした。そして、多羅尾伴内という名前は大瀧詠一がアルバム『LET'S ONDO AGAIN』の編曲のクレジットで使った名前でもあったのです。大瀧は YMOがデビューした同じ月にそのアルバムを発表します。このアルバムは大瀧が日本コロンビア内に設立したナイアガラ・レーベルの不振を解消するために、コミックソングやパロディソングを中心に作られたと語られているものです。

 

 

しかし、本当にそうなのでしょうか? 確かに、 A面の最後の曲が『ピンク・レディー』という曲名で彼女らを讃える曲であったり、B面1曲目『河原の石川五右衛門』がピンク・レディー『渚のシンドバット』の替え歌であったりする。かなりめちゃくちゃな作品です。それでもただのパロディであるはずはないのです。そのセールス惨敗のあと、大瀧は松本隆とタッグを組みアルバム『A LONG VACATION』の制作に取り掛かります。そのアルバムは後にミリオンセラーを記録しています。

 

レジェンドクラスのミュージシャンである YMO大瀧詠一ピンクレディーをカヴァーしたのは偶然ではない。何かが彼らを引き寄せたのだと私は信じます。ヒントは高護著『歌謡曲』に書かれていました。阿久悠が「非日常のエンターテイメント」路線で楽曲を制作するときに必ず組んだ作曲家、都倉俊一には狙いがあったのです。当初、阿久はピンクレディーに乗り気ではなかったそうです。そのグループ名を考えたのも都倉でした。

 

都倉俊一が目指したのは「歌謡曲とディスコ・ビートの本格的な融合」である。ディスコ・ダンス向けの16ビートやハネたリズムを体現できるビート感は時代の要請だった。

 

歌って踊るその音楽をやるのにピンク・レディーの二人が必要だった。要するに、ピンク・レディーの楽曲は才能あるミュージシャンをも引きつける魅力を持っていたということです。それに加えて、大瀧は石川五右衛門が日本における変身ヒーローの最初の人物だと言いたかったのかもしれません。一方で、YMO にはグループのコンセプトと合致するものがありました。世界的なブームだったディスコ・ミュージックを取り入れたのもそうだし、彼らも西洋人から観た東洋人に変身したと言えるからです。

 

しかし、実のところそれだけではないのです。YMOピンクレディーの繋がりはもっと深かった。それに気づいて私も驚いています。(つづく)