ハノイの日本人

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作詞家 阿久悠と スター誕生! その3「非日常性のエンターテイメント」

ドヤ顔でこの文章を書いています。なんでしょうね? 関西のカフェで MacBook Air を 使っていると「ドヤ顔で」って言われるそうなんですよw 東京だったらそんなバカなこと言うヤツはいないと思うんですけど。実際に「モテようとしやがって」みたいな感じで睨んで来るヤツもいます。そんなことでモテたりしないですよね? でも、もしかしたら・・・・あるのか? なにかあったら報告します!



◉最初の女性アイドル歌手 南沙織
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20130511/1368274042
◉作詞家 阿久悠と スター誕生! その1
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20130513/1368454198
◉作詞家 阿久悠と スター誕生! その2「花の中三トリオ、少女から大人へ」
http://d.hatena.ne.jp/wakita-A/20130516/1368709926



今回は『スター誕生!』から生まれた最大のスター、ピンクレディーについて書きます。根本美鶴代、増田啓子の二人はフォークソング調の曲を歌って合格したことで、当初、ビクター・レコードはその路線でのデビューを考えていました。「白い風船」というグループ名を提出しています。当時はフォークソングがブームだったのです。しかし、その案は 阿久悠 によって却下されています。それでは売れないというのが理由でした。


 ⇒だからフォークソングというのは一種の草の根運動のようなもので、歌の形式だけがそれに似ていても成立しない、そもそもテレビのオーディション番組でスタートして、それで草の根の支持を得ようっていうのはムシが良過ぎるよ、とぼくは言った。(P204)


ピンクレディーというグループ名を考えたのは、作曲家の 都倉俊一 でした。そして、その名前に決まったことで 阿久 は「非日常性のエンターテイメント」路線を採用することに決めます。それは 阿久=都倉 で作り上げた手法でした。


1971年12月 阿久悠作詞『ピンポンパン体操』300万枚の大ヒット
1972年6月 山本リンダ『どうにも止まらない』ヒット
1973年8月 フィンガー5『個人授業』ヒット
1973年5月 山口百恵『青い果実』がヒット
1976年8月 ピンクレディーペッパー警部』でデビュー


最初に「非日常性のエンターテイメント」路線が登場したのは、1972年の山本リンダでした。山本は15歳のときに『こまっちゃうな』(1966年)でデビュー。その曲は大ヒットを記録し一躍人気歌手になっています。しかし、その後はヒットに恵まれませんでした。その流れが変わったのは1971年、キャニオン・レコードへの移籍からです。



そこで山本リンダ復活プロジェクトが、フジテレビの吉田斎プロデューサーを中心に組まれました。そして 阿久 と 都倉 が作詞家、作曲家として呼ばれたのです。さらに、テレビの時代を意識して振付けの一宮はじめや、衣装デザインの椎名アニカがすでにいたそうです。阿久が用意した歌詞には、最初『恋のカーニバル』というタイトルがありました。ですが、エロチックな振付け、大胆なヘソ出しのスタイルを見て、タイトルを変更しています。歌詞にあった決め台詞「どうにもとまらない」をタイトルにしたのです。



山本はこの曲のヒットによって、少女歌手から大人の歌手へのイメージ・チェンジを見事成功させたのでした。その後も『狂わせたいの』『狙いうち』『きりきり舞い』などの大ヒットを生んだことで、阿久=都倉による「非日常性のエンターテイメント」路線が確立されます。さらに二人は次の年、今度は沖縄の兄弟グループの再生を手掛けます。フィンガー5です。これもまた大ブームを巻き起こしました。



 ⇒都倉俊一と組んでの、非日常性のエンターテイメント路線というのは、過去に相当な実績があった。ぼくらはそれを、テレビ時代の歌とも言い、歌のアニメーション化とも呼び、二人が開拓して、発見した路線だと、自信も誇りも持っていた。(P208)


この文章を見て驚きました。以前読んだときにはそれほど引っかかりを感じなかったのですが、今回は強くショックを受けました。実は、現在最も人気のあるアイドル ももいろクローバーZきゃりーぱみゅぱみゅの楽曲について考える中で、楽曲のアニメ化というテーマが浮かび上がって来たからです。その二組はそれぞれアニメやマンガの登場人物になったようなスタイルで歌っています。この二組は 非日常性のエンターテイメント路線の継承者なのでしょうか?(つづく)