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作詞家 阿久悠と スター誕生! 番外編「阿久悠神話を解体したい人たち」

今回は番外編として『阿久悠 神話解体』という本を取り上げます。2007年8月に阿久悠さんが亡くなり、それから1年半ほどが経った後に発売されたものです。この本は凄いですよ。テーマは「阿久悠作品の矮小化」です。お薦めなんて絶対にできません。


阿久悠神話解体―歌謡曲の日本語

阿久悠神話解体―歌謡曲の日本語


「神話解体」とタイトルにあるくらいですから、阿久悠が神話化することで、現在のヒットソングになんらかの悪影響を与えている。だから、一度解体して新しい歌の地平を開く・・・・そんな本かと思ったんですよ。でも、まったく違いました。下の説明、なんの曲だかわかりますか?


 ⇒〈壁ぎわに寝がえりうって〉という歌詞は意外にわかりにくい。それはこの詞が動作の途中からいきなり始まっているからである。また〈壁ぎわに〉とある〈に〉の意味が多義的だからでもある。〈寝がえり〉というのは位置の移動をそれほど伴わず、90度から180度の身体の回転をする動作であるが、この歌では〈壁ぎわ〉という場所への移動としての〈に〉の意味と、後続の歌詞で〈背中できいている〉とあるように、壁に向かって身体を回転させたという方向性を示す〈に〉の意味があり、どちらなのか迷うのだ。(P184)



これは 沢田研二レコード大賞を獲得した『勝手にしやがれ』の説明です。映像を見てもらえればわかるように、レコ大に権威があった時代の曲です。凄い緊迫感ですね。しかし、上の説明を読んで、この曲を聴きたいと思う人はいるでしょうか? あの派手で景気のいい曲が無惨! どんだけツマらない曲なのかと思わされます。


著者は『勝手にしやがれ』がカラオケの十八番と言いながら、「壁ぎわに寝返りうって 背中できいている」の部分を「立ったまま壁によりかかっているような状態」と誤解していたようです。そのため、読者にもこの歌詞をこねくりまわしただけの説明をしてみせました。でも、立ったまま寝がえりを打った経験がある人なんて、どれだけいるのでしょう? このような神話の解体方法があったなんて驚きです。


 ⇒ヒットメーカーとしての阿久悠は、八十年代には若干の余勢はあったものの、七十年代の一〇年間におさまっていると言えるだろう。(P9)


これは「はじめに」に登場する文章です。びっくりしますよね。八代亜紀『雨の慕情』、森進一『北の蛍』、小林旭熱き心に』、河島英五『時代おくれ』があるにも関わらず「若干の余勢」とこの人は切り捨てているのです。たしかに、70年代より曲数は減っていますが、80年代にも下に記録したような存在感のあるヒット曲を出しています。このレベルで知られている曲を10曲以上出した作家がどれだけいたでしょう?



◎1980年4月 八代亜紀『雨の慕情』*レコード大賞
◎1981年4月 西田敏行『もしもピアノが弾けたなら』
◎1981年6月 杉田かおる鳥の詩
◎1982年2月 ザ・タイガース『色つきの女でいてくれよ』
◎1982年7月 五木ひろし『契り』
◎1982年10月 木の実ナナ五木ひろし『居酒屋』
◎1983年5月 郷ひろみ『素敵にシンデレラ・コンプレックス』
1984年8月 森進一『北の蛍』
◎1985年7月 Toshi&Naoko『夏ざかりほの字組』*日本レコード大賞・作詩賞
◎1985年11月 小林旭熱き心に』*日本レコード大賞・作詩賞
◎1986年4月 河島英五『時代おくれ』
◎1987年4月 五木ひろし『追憶』*ザ・ベストテン年間1位
◎1994年1月 桂銀淑『花のように鳥のように』
◎2001年6月 小林旭『昭和恋唄』



 ⇒(前略)平成への違和感を語ることで阿久悠は自分の不遇に理由を見つけようとしたのではないか。時代に養分をもらった男は、時代が去り行くとともに舞台から降りるのである。(P60)


これは小林旭『昭和恋唄』について書いた阿久の文章に対して、著者が断罪している箇所です。つまり昭和という時代が持つエネルギーがあったからこそ、阿久の成功はあったと語っているのです。他の作家たちも同じ時代に生きてたと思うんですけどね。さらに・・・


 ⇒阿久悠が再びブームになることはあるだろうか。そうは思えない。理由の一つは、歌詞に描かれる人間観の古さにある。阿久悠の歌詞には、男ならこういうときこうするものだとか、女はこうあるべきだとかいった、固定した性役割に基づいた言葉が無批判に使われている。(P65)


この指摘はあってもおかしくないものです。著者は続けて、ピンクレディー『サウスポー』の「男ならここで逃げの一手だけど 女にはそんなことは出来はしない」という歌詞であっても、「男と女の役割が転倒しているが、従うべき規範があるという意識は変わっていない」と厳しく批判しています。


しかし、これは 1978年の曲です。男と女の役割を転倒させることでインパクトが生まれた時代の歌なのです。当時の女子は熱狂し、歌って踊りました。今でも踊れる人がたくさんいる程です。作詞家・阿久悠は時代にあわせて作詞して見せたのです。だからこそ熱狂を生んだわけです。25年経って「人間観が古い」という批判をする意味があるのでしょうか? 後だしジャンケンにも程があると思うんですけど・・・・



実は、今回私はこの本から酷い部分ばかりを抜き出して紹介しました。丁寧に分析してある箇所と、ここに取り上げたように「阿久悠神話」矮小化のためだけに書かれた文章が不自然に混在しているのです。これはどういうことなのでしょう? 答えは「あとがき」にありました。


 ⇒美空ひばりの代表曲である「川の流れのように」(作詞・秋元康)は不思議な歌である。サビではタイトルどおり〈ああ 川の流れのように〉と〈川〉の比喩が使われているのだが、それ以外の部分、つまり歌詞の多くの部分においては〈道〉の比喩が使われているのである。(中略)この不思議な接合はしかし、美空ひばりという偉大な歌手によって無理なく一つの歌にまとめあげられている。


でました。これは「あとがき」の冒頭部分です。これまで歌い手の存在を排除して、歌詞のみに注目して文章が書かれて来たのに、「秋元康」という名前が登場した途端に「美空ひばりという偉大な歌手によって無理なく一つの歌にまとめあげられている」なんて表現が登場するのです。やれやれ。阿久悠の神話を解体しなければならない理由はここにあったわけです。恥を知れ!


では、阿久悠の仕事は本当に現在では通用しないのでしょうか? 現在にいたるまで NHK紅白でも毎年のように阿久悠ソングが歌われていますよね。一部の歌詞だけを取り上げてそれを言うのはあまりに乱暴だと思えるのですが。私はそれに反論すべく阿久悠の「世界制覇」について次回書こうと思っています。お楽しみに。(つづく)