ハノイの日本人

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特集3. 消えたアイドル Maison book girl。1

 

 

消えたアイドル 

Maison book girl

2021· 5·30 ブクガ消失。消えた楽曲派アイドルの謎を解く

 

 

Maison book girl が突然消えた。

 2001年5月30日、異端の楽曲派アイドル、Maison book girl(略称ブクガ)が消失した。解散は発表されていない。東京ディズニーランド敷地内にある舞浜アンフィシアターでのライブが行われ、それを最後にネット上のサイトごと消えてしまった。

 

 もちろん、メンバーが消されたわけではないし、どこかで生きているはずだ。メンバーの矢川葵は解散後初めて、キミノオルフェというバンドのMVに登場(*1)。このバンドのボーカリスト蟻が、ブクガのボイトレ講師をしていた関係で出演している。すべての楽曲を手がけていたプロデューサーのサクライケンタも、アイドルグループ、クマリデパートのプロデュース活動を続けている。ただ、ブクガについては活動終了は事実であるものの、その理由は関係者も口を閉ざしているのだ。

 

 現在、ファンは Maison book girl 最後の作品『Solitude HOTEL』(2021年8月18日発売、ポニーキャニオン)の発売を待っている。これは舞浜で行われたラストライブを収録したBlu-rayで、その限定盤にはライブのメイキングが収録される。ここで何らかの情報が提供されるとファンは期待しているのだ。メンバーからの挨拶があるかも知れない。今はそれを待ちながら、ブクガのこれまでを振り返ることにする。

 

 

 

楽曲派アイドルとは?

 Maison book girlは「楽曲派アイドル」だと冒頭に書いた。アイドルは主にファンとの関係を歌うが、この場合「楽曲派」を自認する者たちが好きなアイドルという意味になる。ブクガの楽曲では『bathroom』を聴いてもらうのがわかりやすい。少ない音数で変拍子のリズムが刻まれる曲だ。ブクガ1番の人気曲で、ライブの開演前やアンコールを求める際に、ファンがハンドクラップでこのリズムを叩く。現代音楽とポップスをかけ合わせたリズミカルな音楽だ。

 

「楽曲派」は誤解を招きやすい言葉である(だったら使うなって話もある)。例えば、写真家で編集者の都築響一は、自著IDOL STYLE2021年、双葉社)において、アイドルの自室と、そのアイドルのファンの自室を撮影し写真集にしている。そこには『「楽曲派」とは』というタイトルのコラムも収録された。都築にとって、アイドルを取材する中で知った一番驚いた言葉が「楽曲派」だそうだ。明らかに小馬鹿にしたその文章の最後の部分を記録する。

 

 

 ならば楽曲派は音楽に造詣の深いひととして一目置かれるかというと、「そうでもなくて、揶揄のニュアンスもあるんですよね」。

!? 

「ストレートにアイドルファンだと胸を張れない人の隠れ蓑としても『楽曲派』は使われていて、接触に興味がないと虚勢を張るイメージといいますか」……。ストレートにエロを好きと言えなくて、「エロじゃなくてエロスですから」とか言いたがるインテリスケベみたいなものでしょうか。

 

 カッコ内で解説しているのは、この書籍の担当編集者。少し取材して本を出しただけでこの態度。アイドルファンは、この手の人たちにとって見下して構わない存在だ。しかし、楽曲派アイドルでは、年数を経るごとにファンの男女比も半々に近づいて行く傾向にある。都築のエロを前提にして語る姿も滑稽でしかない。「私」を傷つけない安全な「他者」。アイドルにはそのような受け止め方もあるのだ。そのことは「特集1」で書いた。

 

 

 

「楽曲派」という言葉は、ミュージシャンの掟ポルシェが最初に使ったと言われている。小さな子供のアイドルの楽曲を評価した掟が、友人からロリコンと言われたのを受けて「俺は楽曲派だから」と冗談めかした発言で使ったそうだ。しかし、ライターのピロスエが主催し、ネット上で年末に開催される「ハロプロ楽曲大賞」(2002~)や「アイドル楽曲大賞」(2012~)の盛況を受け、その後、その言葉の使われ方も変化する。

 

 私が「アイドル楽曲派」(*2)を積極的に名乗るようになったのも、握手会をメインにした「AKB商法」という言葉が使われ出した2012年あたりだったはずだ。聴かないCD10枚、100枚と買う。曲なんて誰も聴いてないと言い出すアイドル運営さえ出てくる状況。新聞、テレビ、雑誌などのメディアはそれを「王道アイドル」と言い出した。バカなのか? そのような間抜けな状況を批判的に語るため「楽曲派」を名乗るようになった。同じCDは1枚しか買わない。握手会には行かない。エロを前提にしないと楽しくないという価値観は、よくわからない(*3)。

 

 もう少し私自身のことを書かせてもらう。最初に買ったレコードはフィンガー5『恋のダイヤル6700』(1973年、フィリップス)。当時、私の通っていた保育園の園児たちも熱狂していた。それ以来、ずっとアイドルを聴いている。もちろん、中学生、高校生になるとロックもHIPHOPも、ハウスもテクノも、いろんな音楽を好きになった。しかし、アイドルソングだけは馬鹿にされ続けてきた。ロックの方が偉い理由がわからない。そういう状況が変わってきたのは、渋谷系のミュージシャンがアイドルソングを評価し出したあたりだ。過去の音源をその楽曲の良さだけで評価する。いろんな音楽からサンプリングして楽曲を制作するDJのセンスが一般にも広がった時代。90年代以降はそうなっていないだろうか?

 

 

 例えば、既に解散している楽曲派アイドル sora tob sakana は、ポストロックのバンド、ハイスイノナサsiraph で活動する照井順政がプロデュースするグループだった。彼女らが歌う楽曲のクオリティは高く、アイドル楽曲派を自認するファンから喝采を浴びた。だが、それに対してメンバーは、「楽曲だけでなく、もっと私たちを見てほしい」とファンに訴えたことがあった。確かに、複雑なリズムの楽曲に負けずに歌って踊る、彼女たちのハードな練習なしにはクリアできない課題だったはずだ。2020年9月6日、日本青年館での最後のライブ『untie』で、照井兄弟ら技巧派ミュージシャンをバックに、自信に満ちたパフォーマンスを見せてくれた彼女らに、心から感謝したい。私たちはこれからも sora tob sakana の楽曲を聴き続ける。

 

 1998年にCDの売上はピークをつける。日本のレコード会社の劣化が徐々に姿を見せ始める。秋元康SONYを中心に、楽曲に力を注ぐよりも、握手会や炎上マーケティングで話題にして行くアイドルがメディアを席巻した。J-POPが時代のサウンドとずれて行く中で、2008年以降は K-POPサウンドクオリティで負けるようになった。2010年にはKARAや少女時代が大ヒットする。そして現在では、K-POPスターがティーンの憧れとなった。デビューを夢見て、韓国でレッスンを受ける者もたくさんいるのだ。

 しかし、日本にも独自の面白い音楽が登場していた。マスメディアで紹介されなかっただけ。sora tob sakana Maison book girl はその代表とも言えるグループだ。(つづく)

 

 

*1:キミノオルフェ『パパラチア』のティーザーが2021年7月15日に公開された。そこに矢川葵が出演。表記には(ex-Maison book girl)と書かれていた。ブクガ解散後に撮影された映像と思われる。

 

 

*2:現在私はSpotify で「アイドル楽曲派宣言」というリストを1~7まで公開している。年末にはアイドルソングBEST10 をブログ『ハノイの日本人』で公開している。2020年の1位はイヤホンズ『記憶」と、sora tob sakana のラストライブだった。

 

 

*3:握手会には現在も行っていないが、コロナ禍で厳しい状況に置かれたアイドルにお金を使いたいと思った。そこで、もう少し深くアイドルにハマろうと考え写真集を買い始めた。半分以上は今もビニールを解かずに積読状態だ。それでもいくつかはその魅力に気付かされるものだった。アイドルにも肉体はある。だからって、どうにもならないけどね。

 

特集3. 消えたアイドル Maison book girl 予告。

 

注意! 

これは Maison book girl についての文章ですが、ファンが求める文章ではないかもしれません。もし、自分の思うのとは違うブクガの話は許せない人は読まないでください。時間が経って読みたくなったときに読んでください。私はアイドルというジャンルについて文章化しようと試行錯誤しています。Maison book girl は明らかに突出した表現をしたアイドルで、それを後の時代の人にも理解してもらえるようこの文章を残します。

 

 

 

 

消えたアイドル 

Maison book girl 

2021· 5·30 ブクガ消失。消えた楽曲派アイドルの謎を解く

 

2021年5月30日に消失した Maison book girl はどんなアイドルグループだったか? もし聴いたことがない人がいるなら、Youtubeで公開されている『bathroom』『夢』『悲しみの子供たち』をまず観てもらいたい。「これはアイドルなの?」という感想を持つ人が多いのではないか。もちろん、彼女たちはアイドルであるし、アイドルでなければならなかったと言うべきかもしれない。4人が演じてきたのは何だったのか? それがこの文章に書かれていることだ。(次回から本文へ)

 

 

 

 

 

 

 

1989年8月 連続幼女誘拐殺人事件

1988年~89年にかけて、埼玉県から東京都にかけて4歳~7歳の女児4人を誘拐し殺害する事件が起きた。最初の事件以降、連日ワイドショーはその事件を取り上げた。連続で起きる事件に報道も加熱して行く。1989年7月、迷宮入りするかと思われた事件が一気に進展する。八王子市で幼い姉妹の全裸写真を撮っていた男を、姉妹の父親が取り押さえる。最初の事件から354日後、取り調べでその男、宮崎勤(当時27歳)が自供したのだ。宮崎の自宅には一斉に報道陣が詰め掛けた。このとき宮崎の部屋が全国に放送されている。そこには窓が見えなくなる程のビデオテープが積まれていた。ノンフィクションライターの大泉実成は『Mの世代』(1989年、太田出版)において取材を元にその様子を記事にしている。事件により「おたく」という言葉が一般にも広がった。取り調べが進み、宮崎は連続幼女殺人事件の犯人として再逮捕。2008年に死刑執行。宮崎が事件を起こした1988年は彼の祖父が亡くなった年で、その数ヶ月後から犯行は始まった。「犯行は覚めない夢の中でやった」と語った。

 

宮台真司さんが売買春について語ってる。

 

いま『深掘TV』を観てたら宮台真司さんが twitter で売買春について、いろいろやり取りしたと語られてたので観に行った。宮台さんがされたツイートがtogetterでまとめられている。上野千鶴子さんたちとのオンライン講座は金曜日まで視聴できる。いまから観る。

 

界隈のことを何を知らずに「売春は魂に悪い」などという空念仏を唱えるのはヤメにしませんか? 昔も今も一貫するのは「クズは魂に悪い」。むろんマルクス資本論』が言う通り、全てが市場で調達できるようになることで感情的劣化(共同性の破壊)が進みます。これは売買春に限った問題ではありません

 

火曜日24:00から日本 VS 中国。

 

 

いろんな方々がオマーン戦での敗戦を分析されています。結論としては、森保監督は実戦での選手の使い方が下手だと結論されています。杉山茂樹さんは選手交代が遅いこと、慎重さのあまり同じ選手を使い続けることなど挙げておられます。これまでにも弱い相手にすらヨーロッパで活躍してる選手を呼び寄せて、疲弊させてました。大迫選手はその犠牲者でしょう。東京オリンピックでの連戦の疲労も重くのし掛かっています。あとはサイドの連携が稚拙であるとも指摘されています。

 

 

サイドの連携について図表を使って解説してくれているのが Leo the footballさんです。選手の特性に合わせた配置ができていないから、攻撃が機能不全を起こしていると話されています。私も Leoさんの動画を観ながら勉強させてもらっています。あと気になったのは、大住良之さんと後藤健生さんのベテラン勢。流石に森保監督も自信を失っていると指摘されています。試合後の記者会見で何を言ってるかわからなかったそうです。それって菅総理が退陣表明する前の状態ですね。

 

 

火曜日の24:00キックオフの中国戦。中国の監督も、組織的なサッカーができる人ではありません。2002年に中国がワールドカップ出場したときの英雄だそうです。オーストラリア戦ではバラバラにプレーしてる印象でした。この相手であれば今の日本でも勝てそうです。速いパス回しがある程度復活してればですけど。どうなんでしょう。来月のアウェイ・サウジ戦、ホーム・オーストラリア戦の方が重要ですよね? 中国に負けたら流石に森保監督は解任される。そしたら、新たなチームで来月は挑める。しかし、中国に勝つと森保監督は残る。そこでライバルに2連敗したら致命的な気がするけど。川端暁彦さんはその2試合で、海外組と国内組に分けて試合する案を出されています。そんな思い切ったことができる監督って誰なんだろう?

 

 

 

あと、ベトナムかわいそうだった。頑張ってサウジの攻撃跳ね返してたのに、怪しいPK で同点にされた。ガックリだよね。そうだ、京都サンガについても書いておこう。

 

 

昨日、宮本佳林さんのライブから帰って、甲府 VS 京都を見逃し配信で観ました。長崎戦を思い出しました。完勝した後の試合でやられる。大雨も影響したでしょうね。悪いときの京都って感じでしたが、気になったのは荻原選手です。天皇杯・浦和戦の後、左サイドバックの荻原選手にパスが回らなくなった。前節の水戸戦でもパスが回らず、荻原選手が真ん中に寄って行くシーンがありました。来季浦和に戻ることが決まって、他の選手と溝でもできたのか? 目標は一つなので、みんな仲良くして欲しい。

 

特集2. 映画『花束みたいな恋をした』。3

 

 

第3章『花束みたいな恋をした』解読

 

クリエイターと消費者。

 映画『花束みたいな恋をした』まで来た。この映画は冒頭で2つのことを描いていると告白した。最初に書いた「イヤホンの寓話」のことだ。1つはもちろん出会いから同棲に至り、そして別れるまでのストーリー。もう一つは何か? それはクリエイターと消費者の関係だ。菅田将暉が演じる麦はイラストレイターだった。そして、有村架純が演じる絹は、最初に麦の能力を評価したファンでもあった。

 

 映画『花束みたいな恋をした』(2021年)

 監督:土井裕奏

 出演:菅田将暉有村架純、他

 配給:テアトル、リトルモア

 

 

あらすじはこんな感じだ。ある日、終電に乗り遅れた4人の男女が駅の改札で出会う。深夜営業のカフェバーで時間を潰すことにするが、麦は近くの席に押井守がいることに気づき興奮する。だが、会社員の男女は映画通を自称しながらも押井を知らない。絹だけは押井に気づいていた。そのことで二人は意気投合する。お互いの趣味を語り、二人は麦の家に向かう。何度目かのデートの後、付き合うことになった。そして、絹が就活に失敗する中、二人は多摩川が見える部屋で同棲を始める。それはとても幸せな時間だった。だが、その部屋にお互いの親が来たことを契機に、二人はすれ違い始める。麦が就職したことで親密な関係は崩れてしまうのだ。そして···

 

 

麦(菅田将暉):ネットに取り込まれたクリエイター

絹(有村架純):広告代理店の価値観で育てられた消費者

押井守2000年代前半「クールジャパン」と言われた時代の象徴

ガスタンク:FC東京の試合(前身は東京ガスだった)

オダギリジョー:加持さん(大人の男性)

トラックの事件:時期は違うが秋葉原事件? ➡︎映画未来のミライ』(2017年)

ヘッドフォンおじさん:分断の時代を憂いている?

ファミレス:ネット空間?

観覧車:プリエールの名曲『cupsule』の歌詞に登場する

 

 

 登場人物をリストにした。まず、麦はGoogleストリートビューに自分の姿を見つけ、友だちに自慢していた。手書きのイラストというアナログな表現をしていた彼が、ネットに取り込まれたことを示している。ネットが主戦場になる中でギャラの単価は下がりに下がる。クリエイターに厳しい時代になった。

 

 次に絹の両親は広告代理店に勤めている。なので、絹は広告代理店の価値観で育てられた消費者。つまり、私たちのことだ。しかし、ネットに取り込まれた麦と付き合い始めたことで、その影響下から外れて行く。ネット利用が日常化して、旧世代と違う価値観を持ち始めるのだ。だが麦は逆に、絹の両親に会って就職を勧められ、古い価値観に流されて行く。それが二人の将来を暗いものにするのだ。

 

 既に書いたように二人の出会いは2015年1月15日だ。その日は坂元が脚本を書いたドラマ『問題のあるレストラン』(フジ系)の放送開始日だった。このドラマでは職場でのジェンダー平等の問題が描かれていた。なぜそのドラマと二人の出会いが関係しているのか? それはグローバリズムと関係している。グローバルスタンダードに合わせて、日本人の意識も変革の必要が迫られていた。当然、テレビ業界にもその影響は入り込んでくる。

 

 

好きな時に好きなだけ。

 実は、その時期には日本のテレビ業界を脅かすある計画が進行中だった。好きな時に好きなだけドラマ、映画が楽しめる NETFLIX が、2015年9月に日本でサービスを開始すると発表された。フジテレビがFODを開始したのも同じ年だ。それは脚本家である坂元にとっても事件だった。そして、2019年にはついに、テレビメディア広告費はインターネット広告費に追い抜かれる。それは二人が別れた年のことだ。新しい価値観と古い価値観の間で二人は引き裂かれた。

 

 NETFLIX Amazonプライムなどのサブスクによって、クリエイターと、視聴者の関係がどうなって行くか? それをテーマにして脚本にしたのがこの映画のもう一つのストーリーなのだ。だから消費者である絹は元気なままなのに、クリエイターの麦は労働者としてすり減って行った。

 

 別れを決めた日。これまで乗ったことがなかった観覧車に二人は乗る。これは不思議なシーンだ。観覧車は動いていなかった。ゴンドラの中に二人がいるにも関わらずだ。やはり、クリエイターと消費者の関係は、押井守が活躍した頃のようには戻れないという表現だろう。麦と絹もなんの感情も湧かず楽しめない。

 

 二人は最後に思い出のファミレスに行く。そこで別れ話をしようとするが、麦は別れたくないと絹を説得し出す。恋愛とは違うが家族にはなれるかもしれない。絹もその言葉を受けて「結婚だったら、家族だったら···」と、一旦は受け入れる気持ちに揺らいで見せる。だが、そこで決定的な出来事が起きる。近くのテーブルに、出会った頃の自分たちを思わせる若いカップルがやってきた。登場する固有名は変わったが、4年前の自分たちの姿そのものだ。それを観た絹は打ちのめされる。その場にいることが辛くなり泣きながらファミレスから飛び出した。今度こそ二人は別れを決めた。ずっと一緒(サブスク)よりも短くも美しい関係(映画)を選んだのだ。

 

 麦は再びGoogleストリートビューに自分の姿を見つけた。そこには素敵な恋をしていた頃の二人の姿があった。2020年に入り、コロナ禍で多くの人々がサブスク利用を開始した。二人の姿は映画に記録され、サブスクで公開されることも決まった。映画の制作費にはサブスクで得られる収入も盛り込まれている。再びクリエイターに戻った麦にも彼女ができた。ファンがついたのだ。

 

 

秘すれば花なのか?

 坂元裕二は、二つ目のストーリーを探るのは、品のない行為であると、この映画で告発しているのだろうか? つまらない大人になるのも嫌だが、ファミレスで説教するヘッドフォンおじさんだって迷惑な存在でしかない。だが、彼が言っているのは、実のところ音楽のことではないかもしれない。左右の分断について語っているのだ。それは政治のことだけではない。苦しくても苦しいと言えずに孤立している人々が沢山いる。そんな時代について熱心に語っているのだ。しかし、皮肉にもヘッドフォンで両耳を塞ぎ、他者の意見に耳を塞いでいるかもしれない。

 

 演劇はどうか? 私がこれまで観てきた演劇では、必ず表層に流れているストーリーとは別に、作者の主張、考えたいテーマが存在した。しかし、それらはあまり語られることがない。気づく人もいるだろうに、それを書いている文章を観かけない。秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず、なのか?

 

 松尾スズキ作、大根仁演出の舞台『マシーン日記』を2021年3月に京都ロームシアターで観た。関ジャニのメンバー横山裕が主演する舞台だ。とても面白い舞台だった。ストーリーはこんな感じだ。親から受け継いだ部品工場を営む兄弟がいる。弟(横山裕)がある日女子工員(森川葵)をレイプした。それに激怒した兄(大倉孝二)は、敷地内の小屋に弟を鎖で繋ぎ監禁する。そして、自分はその女子工員と結婚するのだ。

 

 3人は毎朝一緒に食事することになっている。弟の面倒を見ているのは兄の妻となった女子工員だ。そして、彼女は兄よりも弟の方に執着している。そんな狂った状況が煮詰まって、最後にはあることが起こる。彼女は弟との関係を強引に断ち、解放(?)されるのだ。以上が表のストーリー。

 

 では、これは何を描いたドラマだったのか? 私の見立てでは日本と韓国の関係を描いたドラマだ。弟を鎖でつないだ兄はアメリカだろう。日本を罰するという名目で軍隊を持てない国にした。

 

 恨36年、かつて韓国は日本に支配されていた。現在もそうだが、韓国は日本の侵略を恨む一方で、いつまでも日本に執着し、被害者という立場に身を置く。もちろん、日本には果たすべき責任がある。だが、K-POPがそうであるように、日本への執着をやめて、もっと広い世界を観たとき、韓国は解放感を味わった。自信を獲得したのだ。

 

 このように演劇には、まず先に作家が考えたいテーマがある。そして、坂元のドラマにもそのようなテーマが存在するのだ。それがあることで坂元のドラマには奥行きのようなものが存在する。ドラマに惹きつけられる視聴者層は幅広くなっている。社会問題を正面から考えることが苦手な日本では、このようなスタイルのドラマがもっと必要なのではないか? 若者だけではない。みんな先行きの不安を感じている。みな正解を求めてネット上を彷徨っている。でも正解なんて目指す必要はない。自分のやりたいことを見つけた方がきっと楽しい。

 

 脚本家・坂元裕二が取り上げるテーマは、現在の日本で起きている現象そのものだ。登場人物はそれを直接語ることはしない。笑いを交えて楽しめるドラマを作る。登場人物の決断は、間違いもあるし、失敗もする。でもそれでいい。日々考えて生きて行く。坂元が書く2つのストーリーをこれからも楽しみたい。(脇田 敦)

 

 

宮本佳林のライブを観てきた。

 

 

NHK大阪ホールでの宮本佳林さんのライブに行ってきました。1時間45分、あっと言う間に過ぎました。堂々としたもんですね。Juice=Juice の曲でも一人でなんなく歌っていました。あと音響よかった。この辺はさすがですよね。森高千里さん、いろいろ面白い曲あるのに『やっちまいな』を歌うのかw  

 

 

そう言えば、今日の最後の曲が宮本さんもかつて歌ったハロプロ研修生『天まで登れ!』だったんです。研修生ユニット4人と歌いました。突然、2014年の記憶が蘇ったんです。サッカーの試合をタイまで観に行ったんですけど、ムアントンタニというよく外タレのライブが行われる場所のサッカー場で、現地のサポーターが面白い応援をしてました。

 

たぶん、ムアントン・ユナイテッドのサポーターが他国の試合でも、会場を盛り上げるためにゴール裏で応援してた。両腕を横に伸ばして、横に並ぶ人たちと腕を交差して左右に揺れる。そう、『天まで登れ!』の振り付けですよね。どこかで観た覚えがあると思ったんだけど、そのときは気づかなかったw  開始20秒くらいの「その道は」のあたり。当時はバンコクによくハロプロのメンバーが来てたんです。タイでも存在感あったんだ。ちょっといい話でしょ。いい曲ですよね。

 

www.youtube.com

 

夏とかもハロプロ関係ちょこちょこ行ってたんですよ。書いてないけど。花鳥風月は松山の2公演を観たし、8月も M-line 観ました。それぞれ面白いシーンはあったんだけど、最近、ハロプロと違うジャンルの曲ばかり聴いてるので音楽の趣味が合わなくなってきてる。宮本さんのソロ曲の方が聴きやすい。M-line もっと冒険して行こうよ。

 

今日はハロプロファンでもある矢川葵さんの音楽活動再開のニュースもありました。矢川さんの憧れるハロプロの先輩は「工藤遥さんと・・・宮本佳林さんです」。後半嘘ですw  研修生の挨拶でこういうのがあったんですよ。

 

 


特集2. 映画『花束みたいな恋をした』。2

 

 

 

第2章 『大豆田とわ子と三人の元夫』が描くもの

 2021年最大の話題作、ドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』は不思議な余韻を残すドラマだった。脚本家·坂元裕二の名は、この作品でドラマファン以外にも知れ渡った。それは個性的なキャラクターが活躍するコメディーだが、その登場人物の謎は謎のままだった。

 

松田龍平が演じる田中八作は、なぜ困るほどモテるのか?

 

角田晃広が演じる佐藤鹿太郎はなぜ器が小さいのか?

 

オダギリジョー演じる小鳥遊が、松たか子演じる大豆田とわ子に対して、仕事とプライベートで極端に態度が違う理由は何か?

 

 

 実はこれ、単なるキャラの問題ではない。明確な理由があった。以下で説明するが、その前に書いておくべきことがある。ドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』は全10話で放送された。しかし、内容的には1~9話までと、最終回に別れていたのだ。

 

 とわ子は9話で結論を出した。「あなたを選んで、一人で生きることにした」と。ドラマの視聴者は、とわ子の「最後の恋」の相手が誰になるかに注目して観ていたはず。ならば、ここでドラマは終わりを迎えたはずだ。では一見蛇足にも見える最終回では何が描かれたか? 最終回は『シン·大豆田とわ子』だった。何を言っているかわかるだろうか? 大豆田とわ子と父親の対決が描かれたことを言っているのだ。

 

 

テレビ版『シン·大豆田とわ子』。

 庵野秀明総監督『シン·エヴァンゲリオン劇場版』(2021年、カラー)はこれまでテレビ版、旧劇場版で描かれたこと全てを包括し、ハッピーエンドまで描かれた。山場はシンジと父であるゲンドウの対決だった。エヴァパイロットとしてしか息子に関心を持たないゲンドウに、成長したシンジが対峙する。

 

 大豆田とわ子も、かつて自分と母を置いて家を出た父·旺介にそのことを問いただす。そこで父は妻を愛していたこと、それでも家を出た理由を話す。そして、とわ子が外れた網戸を直せないのも、自転車に乗れないのも親子関係に起因していたことが明かされた。一人で生きると一度は結論した彼女は、父との対話によってもう一度家族をやり直そうと考える最終回だった。自転車のエピソードは、特集1に登場した細田守監督『未来のミライ』と関係している。

 

 

 ドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』(2021年、関西テレビ

 プロデューサー:佐野亜祐美

 出演:松たか子松田龍平角田晃広岡田将生、他

 

 

 ではドラマの本編、1~9話までは何が描かれたか? もちろん、とわ子と三人の元夫との関係が描かれた。誰かともう一度家族になれるのか? それは視聴者が観た通りだが、坂元裕二の脚本には、もう1つ別のストーリーがある。人気テレビ番組の変遷が描かれていた。以下のリストをご覧頂こう。

 

 

主要人物

大豆田とわ子(松たか子):テレビ(広告代理店、テレビ局、視聴者)

田中八作(松田龍平):国民的スター

佐藤鹿太郎(角田晃広):お笑い芸人

中村慎森(岡田将生):教養バラエティに出演するような先生

綿来かごめ(市川実日子):クリエイティブを象徴

大豆田唄(豊嶋花):テレビを観ない世代

小鳥遊大史(オダギリジョー):IT を象徴

 

 

夢はもう覚めた。

 リストを観た上で、もう一度『大豆田とわ子と三人の元夫』を観て欲しい。まったく違うドラマが現れるはずだ。例えば、とわ子が街を歩いてるだけで悪く言われるシーンがある。パンを食べながら歩いていると、すれ違う他人から「何あれ?」みたいに笑われた。とわ子は「これが一番美味しい食べ方なんだよ」と心でつぶやいた。芸能人がネット上で食べ方が汚いなどとネット上で書き込まれる現象を表しているのだろう。テレビ局が「マスゴミ」などとボロクソに言われる時代を表している。

 

 一方、田中八作はどうか? テレビの黎明期から70年代くらいまでは、国民的スターの時代。テレビに出ているタレントはスターとして認識されていた。スターはモテてモテて困ったのだ。しかし、田中八作がそうであったように、他に好きな対象があった。映画の方が好きだったのだ。テレビは下に見られていた時代のことだ。最後の国民的スターとも言われる、SMAP木村拓哉を思わせるエピソードもあった。松たか子とは何度も共演している(*1)。

 

 次に、佐藤鹿太郎は80年代に始まるお笑いの時代を象徴する。東京03という人気コントグループのメンバー角田晃広が選ばれた理由だ。80年代と言えば、フジテレビのキャッチフレーズ「たのしくなければテレビじゃない」もあった。鹿太郎がカメラマンになったのは、お笑い芸人がカメラを持つ、映画監督になったことを表現している。女優にモテたのは明石家さんまに代表されるように、女優との結婚やドラマ出演を表している。そして「器が小さい」は気になる言葉だった。恐らく「ツッコミ」をそのように表現しているのだろう。

 

 3人目、中村慎森は弁護士だった。これは教養バラエティ番組が増えた時代を象徴している。例えば『行列のできる法律相談所』。弁護士が人気タレントになる時代だ。またコンプライアンスという言葉によって、面白いテレビ番組の制作が困難になる時代も表しているだろう。このような感じで、大豆田とわ子が結婚した相手によって、人気テレビ番組の変遷が描かれているのだ。

 

 では、4人目の候補、オダギリジョー演じる小鳥遊はどうか? この章の最初にも書いたが、公私の区別が極端だった。休日にとわ子と話すときは、温和で優しい彼が彼女の思いを理解した。しかし、それが会社になると一変し、「大豆田さん、あなたは退任すべきだ!」と激しく迫るのだ。爆笑した。明らかにサイコパスだ。しかし、とわ子は小鳥遊に惹かれていく。一時は辞表をだして、海外で小鳥遊と暮らすことも考える。だが結局、とわ子は小鳥遊を選ばない。二人は笑顔で別れた。「ほしい物は自分で手に入れたい」、自分で幸せを掴みたいと彼女は結論したのだ。これは少しわかりにくいシーンだが、さて、小鳥遊は何を象徴しているのか?

 

 小鳥遊は ITに関連している。恋愛がまったく理解できず、AI のように一つ一つ教え込まないといけない。一番重要なのはサブスクだ。とわ子はテレビを象徴する人物なので、そこに取り込まれてはいけないのだ。このドラマが放送されたフジテレビは、独自のプラットホームFOD を作り防戦している。

 

 新型コロナで家に籠る時間が多くなった。日本でもNETFLIXAmazonプライムなどを契約し、好きなときに好きなだけ映画やドラマを楽しむスタイルが普及した。小鳥遊が好きな数学はアルゴリズムのことだろう。視聴者の好みに合わせてドラマを提示してくれる。プライベートで使うのは非常に便利でありがたい。しかし、それと競合するテレビ局は瀕死の状態だ。サブスクには小鳥遊が示すような二面性がある。

 

 なので、とわ子が第9話で出した結論「あなたを選んで、一人で生きることにした」も、以下のような解釈になる。誰もが無料で観れるテレビを守ることで、これからも国民的スターを生み出したい。

 

 

 

 最後に音楽好きな私としては、主題歌についても触れなければならない。STUTSを中心に制作され、松たか子が歌った『Presence』だ。KID FRESINOなど、人気ラッパーも次々に登場し話題になった。

 

あの日のあなたは輝いて見えた 夢はもう醒めた

 

松たか子が歌ったこの歌詞(作詞はbutaji )ほど2021年を表す1行もない。テレビに対する憧れだけではない。オリンピックや経済成長、日本が戦後に観てきた夢はもう終わったのだと国民の誰もが気づいた2021年だった。『大豆田とわ子と三人の元夫』はこの年を代表するドラマとなった。(つづく)

 

*1:私が最初に2つのストーリーを描くドラマに気づいたのは、木村拓哉主演ドラマを集中的に観たときだった。例えば、2008年に「月9」枠で放送されたドラマ『CHANGE』では、SMAPと嵐のトップ交代が描かれた。木村が演じたのは史上最年少で総理大臣になった男だが、政界の実力者によってスキャンダルを仕掛けられ、その座から追い落とされた。木村のドラマについては自著『SMAP 王の物語』に書いた。