ハノイの日本人

アイドル、ジャニーズ、サッカーなど。

特集2. 映画『花束みたいな恋をした』。1

 

 

特集2. 映画『花束みたいな恋をした』 

脚本家·坂元裕二とイヤホンの寓話

 

坂元裕二はキャリア初期に、大ヒットドラマ『東京ラブストーリー』(1991年)の脚本で脚光を浴びている。トレンディドラマという言葉があった時代の作品だ。テレビは日常的娯楽の中心だった。坂元はその後も『Mother』(2010年)『それでも、生きて行く』(2011年)『最高の離婚』(2013年)など、社会問題も交えて話題作を手掛けて行く。2021年1月に公開された映画『花束みたいな恋をした』は、坂元の脚本を中心にして企画が進められた。興収30億円を突破。テレビドラマ視聴者層の年齢が高くなる中で、今度は映画で成功を収めた。観客の中心は若い世代だった。タイトルの通り、恋愛映画だが、それだけではない。時代を映すもう一つのストーリーを紹介する。

 

 

 

第1章:ドラマ『カルテット』

映画『花束みたいな恋をした』を語る前に。

 映画『花束みたいな恋をした』の冒頭には、「イヤホンの寓話」が置かれている。カフェでカップルが仲良さそうにイヤホンの左右を分け合い、音楽を聴いている場面。麦(菅田将暉)と絹(有村架純)はカップルに注意しようと、それぞれ別のテーブルから立ち上がる。ステレオ録音の音楽は右と左で鳴っている音が違う。イヤホンを分け合う行為には全く意味がない。カップルに教えてやろう。だが、二人はお互いの存在に気づく。気まずい思いをして、二人は席に戻る。

 

 そのシーンは二人が別れた後のことだと映画の最後に示された。冒頭とラストは同じ2020年の出来事だった。2015年1月15日に二人は出会い、付き合い、一緒に暮らし、2019年に別れたのだ。その間に登場した音楽、マンガ、小説、ゲームやドラマの具体的なタイトルは、時間の経過を示していた。ちなみに、二人が出会った2015年1月15日はドラマ『問題のあるレストラン』(フジ系)の放送開始日だ。もちろん、脚本は坂元裕二である。

 

「イヤホンの寓話」が示すメッセージとは何か? それは2つの解釈の存在を示している。映画のタイトルも同じだ。「花束みたいな恋」の解釈にも、美しさと捉えるか、永遠ではないと捉えるか、大きく2つの解釈が存在する。なので「イヤホンの寓話」は、2人で恋愛をしても、麦の恋愛と、絹の恋愛が存在する。これが1つ目のメッセージと考えていい。

 

「イヤホンの寓話」が示すもう1つのメッセージは何か? この映画で描いているのは、ラブストーリーだけではない。脚本を書いた坂元裕二はここ数年のテレビドラマでも、2つのストーリーを同時に描いている。

 

 

 

『カルテット』が描く2つの片思い。

 映画『花束みたいな恋をした』について先に読みたい人は第3章まで待って欲しい。しばらくドラマ作品について書く。

 

 坂元裕二脚本のドラマで面白い作品はたくさん存在するが、その中から2つを紹介する。最初に取り上げるのは松たか子松田龍平が出演した『カルテット』だ。クラシックの弦楽四重奏を演奏するグループ、カルテットドーナツホールの4人を中心に、メンバーそれぞれが持つ秘密を巡ってドラマは展開する。そして、このドラマにも、もう一つのストーリーが存在する。それは意外なものだ。

 

 

 

 ドラマ『カルテット』(2017年、TBS系)

 プロデューサー:土井裕奏(チーフ)、佐野亜裕美

 出演:松たか子松田龍平満島ひかり高橋一生、他

 

 

『カルテット』を観ていて気付いたことがあった。「日常系」や「空気系」と言われるマンガやアニメがある。アニメ『けいおん!』(2009年、京アニTBS系)に代表されるように、特に事件が起きるわけでもなく、部室などで延々無駄話をしている作品だ。私はその面白さが理解できなかった。だが、それを実写ドラマでやるとどうか? 

 

『カルテット』で4人が演奏するのはクラシックだ。練習は非常に大事だと思われるが、4人で合わせようとすると、誰かがコーン茶でも淹れましょうか?」と言い出すのだ。そこから会話が始まり練習は行われない。何を話していても面白いわけではないだろうが、このドラマでは非常に面白いシーンだと感じだ。

 

  実は、この「練習をしない」にも理由が存在した。『カルテット』が描くもう一つのストーリーは、2010年代にブームとなった「アイドル現象」だった。松たか子演じる巻真紀が第1話で語るこんなセリフがある。「人生には3つの坂があります。登り坂、下り坂、そして、まさか!」。秋元康が手掛けるアイドルグループを題材にしていたのだ。

 

 私は秋元康が嫌いなので、当時、このドラマはその現象を取り上げ、小馬鹿にしていると勝手に思い込んだ。練習もしないで、炎上マーケティングでコンサートホールを満員にすると描かれてもいた。しかし、いま見直すと、坂元にその意図はなかったようだ。次の年のドラマ『anone』がそうだったように、偽りの絆であっても、それが大事な物になることもある。「アイドル現象」を通してそのようなテーマが描かれた。

 

 また、ドラマには「全員片想い」というキャッチフレーズがあった。男女4人が共同生活していたが、最後まで全員片想い。恋愛は成立しないことになっている。4人は恋愛的には満たされないままだった。それだけではない。カルテットの成功も描かれない。厳しい言い方をすれば、4人は音楽から愛されていないのだ。ここでも片思いをしている。公私に渡り達成はやってこないが、楽しいのだから、それでいいという内容になっている。「正解を目指さなくていい」というメッセージは、ここに登場する3つのドラマに共通するものだ。(つづく)

 

 

いま、オーストラリア VS 中国やってるけど。

 

中国弱いじゃん。誰だよ、要注意とか言ってたのは。オマーンの方がずっといいチームだよ。最初はオーストラリアが様子見なのか消極的で、中国もそれなりにやれてる感じがあった。でもオーストラリアが前に出だしたらスピードについていけない感じ。簡単に2点取られた。これは流石に勝てるだろう。オーストラリアもうまく行ってる感じはない。日本と同じでバラバラだ。つまらん。寝る。

 

うわー初戦から日本が負けた!

 

これまでにもワールドカップ予選でオマーンに苦戦することがありましたが、まさか負けるとはw  いや喜んでないですよ。流石にこれは森保監督の手腕が問われる試合でしょう。東京オリンピックで結果を出せなかった時点で解任でもよかったわけだし。もちろん誰を監督にするかという問題はありますけど。移動日もあるのに中4日で立て直せるのか? それを考えたらいまから監督探しをするべきですよね。

 

オマーンが強かったから負けたわけじゃないですよ。得点シーンは見事にやられましたけど。日本はなぜ得点できなかったのか? コンディションの悪い選手も何人かいましたが、それだけが理由ではないですよね。厳しい。アウェイ中国戦は勝たなければいけない試合になってしまいました。それにしても伊東純也はなぜ縦突破しなくなったのか? あれで相手が慌てるの大好きだったのに。

 

そうそう、韓国はイラクと0ー0でした。日本が負けてるだけに笑えませんけど。次戦はカタールでの中国戦、7日(火)24:00キックオフです。テレビ中継はなく DAZN で中継されます。

 

 

アニメ映画は繰り返し「孤独と暴走」を描く。3

 

 

 

第3章『天気の子』

 

陽菜はアイドル、帆高はそのヲタ。

 新海誠監督の2019年公開作品『天気の子』。まったくの偶然だが、この映画は京アニ事件の翌日に公開された。新海は以下のツイートを残している。

 

僕たちは、世界がすこしでも豊かに、わずかでも良くなることを願ってアニメを作っています。僕は今は映画のプロモーション期間であり、今夜0時からこの3年間の成果をようやくご覧いただけます。表現することに怯んでもいけないし、楽しんでほしいと心から思います。ただ、あまりにも酷すぎる事件です。

 

 実は「孤独と暴走」というテーマでこの文章を書き始めたのは、京都アニメーションの放火殺人事件があったからだ。社員や遺族だけでなく、アニメファンも大きなショックを受けた。なのに、この事件はかつての事件のように語られることがない。宮崎勤の事件、地下鉄サリン事件酒鬼薔薇事件、秋葉原事件など、動機不明で衝撃的な事件の後には、その是非はどうあれ傷ついた国民を納得させるべく犯人がその犯罪を犯すまでの道のりがメディアに溢れた。もちろん、今回は火傷の治療で裁判が開かれていないという事情もある。現場で取り押さえられた男は、京アニが自分の作品をパクったと主張しているが、それは大量殺人を犯す程のことなのか。

 

 事件が語られない理由を書き連ねる代わりに、映画『天気の子』にも描かれた「孤独と暴走」について考える。京アニ事件の容疑者、青葉真司(事件当時41歳)も「孤独」な人生を送った人物だからだ。日野百草著『ルポ・京アニを燃やした男』(2019年、第三書館)には、青葉のこれまでが取材によってまとめられている。青葉は自立してコンビニや派遣で真面目に働いたが報われなかった。

 

 映画『天気の子』はどのような作品だったか。高校1年生の森嶋帆高は学校にも家にも居場所がなく、家出して離島から客船に乗って東京にやってくる。その旅の途中、ゲリラ豪雨どころではない突然の水塊の直撃を受けて客船の甲板から放り出されそうになる。滑り落ちる帆高に救いの手が差し伸べられる。その手は小さな編集プロダクションを経営する須賀圭介のものだった。家出の身で東京で働き口があるわけでもない帆高は、次第に持ち金を使い果たし追い詰められていく。24時間営業のマクドナルドで夜明かしする帆高に、また救いの手が差し伸べられる。そこでバイトしていた天野陽菜が見かねてビックマックをくれたのだ。

 

 結局、帆高は怪しい人物だと思っていた須賀を頼ることになる。彼の編集プロダクションに住み込みで働く。そこでの仕事は雑務全般だが、オカルト雑誌への執筆も含まれていた。そして、ネット上で噂になっていた「100%の晴れ女」を探すことになる。異常気象で毎日雨が続く東京で、天気を操る女がいるという到底信じることのできない噂だった。だが、その女は実在しており、それは陽菜のことだった。二人はネット上で「晴れ女」の仕事を募集する。3700円をもらいお祈りし、短い時間だけその場を晴れにする。フリーマーケットや運動会、花火大会など、それは好評だったが、次第に陽菜の身体が変調を見せ始める。晴れ女の能力は陽菜の命と引き換えだった。陽菜に与えられた能力は、異常気象を沈めるために選ばれた生贄が持つ能力だったのだ。2人はどうなるか? こんなストーリーが展開される。

 

『天気の子』は田舎の男子高校生がかわいい東京の女子と恋愛する話だったのか? 天気の話は恋愛を盛り上げるために用意された障害に過ぎないのか? そのように観ることもできるが、ラブストーリーにしては中途半端に終わっている。恋愛が成就するかよりも帆高や陽菜が生き残れるかが描かれた。結論から言うが、これはアイドルとそれを応援するファンの関係について描かれた物語だ。人々の悲しみの雨で沈みそうになっている東京で、一瞬の晴れ間を見せる能力を持つ存在、それはアイドルに他ならない。

 

 ラストで晴れ女の能力を失ったはずの陽菜がそれでも祈りを捧げているシーンがある。これが映画を観た者に混乱を与えるのだが、グループ卒業後のアイドルと考えれば謎は解ける(*4)。テレビにあれだけ露出していたアイドルが、卒業と同時にメディアに出なくなる。よくある話だ。天候との繋がりはテレビとの繋がりだと考えればいい。だが、メディアに出れなくなり1人になっても陽菜は祈りを捧げ続けている。そこに帆高が駆けつけるのだ。帆高は再び東京に来て現場復帰した陽菜のヲタだった。祈りのシーンでは必ず応援に駆けつける。永遠を象徴する指輪を受け取ってもらえなくとも、ヲタは応援を続けるのだ。

 

 

新海誠は、なぜアイドルをテーマに選んだのか?

 この映画において天気はキラキラ輝いて見えるテレビの世界だ。テレビはアイドルにとって雲の上の世界なのだ。帆高が東京を目指した理由も、その世界を垣間観たからだった。自転車でキレイな雲を追いかけるシーンがあった。陽菜はアイドル、帆高はそのヲタ。その見立てで映画を追って行く。

 

 

   天気:テレビ、マスメディア

 天気の子:テレビっ子

    雨:人々の涙、または、テレビの電波、情報

   陽菜:アイドル

   帆高:そのヲタ

   祈り:アイドルのパフォーマンス

   拳銃:孤独に起因するオタクの暴走(現在オタクは特別な存在ではないが)

 

 

 まず客船で巨大な水塊を受け、帆高が船から落ちそうになるシーン。この水塊はテレビや雑誌メディアによる情報の洪水のことだろう。情報を扱う仕事をする須賀に帆高は助けられる。次に帆高が陽菜と出会ったマクドナルド。そこで彼は有線から流れるアイドルソングを聴いたのだろう。そして、無銭イベント(ビックマック)でアイドルに救われる。帆高はその世界にハマっていく。

 

 陽菜はどのようにして天気を操る能力を手にしたか? 病院で母を看病しているとき、一箇所だけビルの上に太陽の光が注いでいるのを窓から見る。そして、その場所に行き、天気を操る能力を身に付けた。窓はテレビ画面で、光はステージを明るく照らすスポットライトだ。ライトに照らされる場所まで行きアイドルになった。アイドルは人気が出るほどにテレビなどメディアに登場する機会が増える。花火大会のステージで歌えば、翌朝ワイドショーで紹介されもする。

 

 2021年1月3日、映画『天気の子』は地上波テレビで放送された。ネット上では、それを観た視聴者が「無責任なラストだ」と騒いだ。能力を持つヒロインが、自己犠牲をもって沈み行く「東京」を救うラストを望んだのだろう(ナウシカは身を投げ出した!)。しかし、新海は確信犯的にそれを回避している。テレビが繰り返しメッセージとして送るような「正しさ」に背を向けること、それが描きたかったからだ。

 

 新海は天気なんて、狂ったままでいいんだ!」と帆高に叫ばせたが、この言葉を中心にして最初の企画書は書かれたとパンフレットで語っている。続けて「やりたかったのは、少年が自分自身で狂った世界を選び取る話。別の言い方をすれば、調和を取り戻す話はやめようと思ったんです」と語るのだ。それは結婚を望むような「正しい」人生ではなく、アイドルを追いかける「狂った」人生を、自分自身で肯定してもいいという強いメッセージだった。

 

 この映画は私たちを取り巻く厳しい「現実」をテーマにしている。私たちが足場とすべき「現実」は既に水没していると描かれているのだ。それこそが「不可能性の時代」であるだろう。ならば、ここで立ち止まって考える必要がある。押井守大塚英志が80年代に指摘したこと『「現実」への途を取り戻す』は、現在でも有効なのだろうか?

 

 細田守監督『未来のミライ』までは、「虚構」と「現実」の両方を行き来することが必要だと描かれた。「現実」も大事だが、逃避も必要だろうと。しかし、その次の年に上映された新海の『天気の子』では、「暴走」して逮捕される「現実」よりもアイドルを救う「虚構」を選ぶことで、二人は生還できたのだ。新海は自分を犠牲にしてまで向き合うほど、「現実」には価値がないと言っている。水没してるんだから。無理して古い価値観に縛られた「現実」に立ち向かい、自殺したり、殺人を犯す必要はない。

 

 細田作品のような映画も必要であるが、生涯未婚率は急激に上昇している。家族を持つことなど想像もできない人々は、現実の男性もしくは女性と仲良くなることを諦め、現実離れしたアニメの登場人物を愛するか、それでも3次元がいいと思う者は、半分架空の存在であるアイドルを応援する人生を選びもする。どちらにしても周囲の誰かに承認してもらうのではなく、自分のことを自分自身で承認する人生、もしくはある種のサービスに承認してもらう人生だ。人生を構成するいくつもの出来事は、サービスに置き換わり、ひとりでも生きていける環境が整いつつある。新海は初めから結ばれることを目的としない、ゆるい繋がりという欲望のあり方を描いてみせた。それが日本水没後の「現実」に対応した生き方なのだ。

 

 希望のない世界で、帆高はアイドルと共に生き抜き、青葉や加藤は自らの「怒り」を〈他者〉に理解させるため剥き出しの暴力、すなわち「暴走」を実行し自滅した。こんなことを書いていると、またしても「社会」のせいにするなという批判がくるだろうか。どんな境遇にあってもしぶとく生き抜く人間はたくさんいると。もちろん、その通りだ。だが、その一方で「社会」の「外」に出て行く、放り出される、そんな人物が誕生し続けるのも、また事実なのだ。その状況を改善するよりも経済を回すことが優先される。自殺者が増えるという理由もあるからだが。

 

 ここまで書けば、なぜ京アニ事件が語られないかがわかるのではないか。このような衝撃的な殺人事件すらも、私たちを取り巻くシステムに、リスクとして織り込まれているからだろう。それ故、いくら私たちアニメファンがショックを受けたと言ったところで、「社会」からの返事は返ってこない。せいぜい京アニ事件はテロではない」というような言説が繰り返されるだけだ。

 

 行き過ぎた資本主義を止めることは可能だろうか? 今のことろそのアイデアはない(私自身はベーシックインカムの採用を求めたい)。であるなら、私たちにできることはこれしかない。王蟲に戻ることだ。多少はこぎれいな格好になっていても、世界を浄化する腐海の森を守る王蟲に戻るしかないそれが「孤独と暴走」を描くアニメ映画がつくり続けられる理由だ。それは「暴走」する者たちに届く唯一の通信手段と言える。その者たちと「対話」できるのは、同じく「暴走」する資質を持ちながら、表現という武器を持つことで踏みとどまっている者たちにこそ可能なことなのだ。「孤独と暴走」を描く映画が、これからも誕生することを願う。私たちはそんな映画があることで「孤独」を抱えながら生きることができる。(脇田 敦)

 

 

*2:吉本隆明大塚英志による対談本『だいたいで、いいじゃない。』(2000年、文藝春秋)には、大塚によるエヴァ解説がある。一部私の読解と重なる部分があるのを見つけた。これは大塚の代表作『物語消費論』を何度も読んできた私のシンクロ率が上がったためだろう。

 

*3:社会学者の見田宗介は、現実を意味づける反現実によって、戦後を3つに分けた。大澤はそれを発展させ、1945年から1970年までを「理想と現実」から「理想の時代」。1970年から1995年までを「虚構と現実」から「虚構の時代」と名付けた。「理想の時代」の極点は大阪万博で、「虚構の時代」の極点は地下鉄サリン事件だ。

 

*4:陽菜は実際にはソロアイドルだ。新海が彼女をソロにした理由は、グループ内の過剰な競争を排除する必要があったからだろう。それは東京に降り注ぐ涙の原因でもあるからだ。

 

 

参考文献

太田出版編『Mの世代』(1989年、太田出版

宮台真司『終わりなき日常を生きろ』(1995年、筑摩書房

東浩紀動物化するポストモダン』(2001年、講談社現代新書

大塚英志東浩紀『リアルのゆくえ』(2008年、講談社現代新書

大澤真幸編『アキハバラ発』(2008年、岩波書店

雑誌『ロスジェネ別冊2008』(2008年、ロスジェネ発行)

中島岳史ほか『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』(2011年、金曜日)

津堅信之京アニ事件』(2020年、平凡社新書

明日からワールドカップ最終予選が始まるね。

 

カタールで来年行われるワールドカップ2022のアジア最終予選が明日から始まります。初戦はオマーン戦、吹田で行われます。ホーム戦はテレ朝系(18:45〜)で観れますよ。日本は冨安、守田が試合3日前の入国に間に合わず、カタールでの中国戦から合流。南野と板倉が身体の違和感で明日の出場がどうなるかわからないとのこと。でもこの4人がいなくても、スタメン組むのには問題ないですよね。ただ交代選手を考えると、センターバックボランチが1人ずつ足りないか? それとも原口がボランチやったりするのか?

 

 

あっ出てました。板倉が怪我のため離脱。DF昌子源が呼ばれています。アウェイの中国戦は9月7日の24:00キックオフ? まだ会場の情報も出ていません。早くもアウェイの洗礼か?

 

気になるのは、これまで日本代表戦といえば民放地上波テレビなどでの放送が当たり前だったが、今予選からテレビ中継で見られるのはホーム戦のみになること。先ごろ、インターネットでJリーグなどを配信する映像配信サービスのDAZNとアジア・サッカー連盟との契約が発表され、アウェー戦を含む全試合を視聴するにはDAZNと契約(通常価格で月額税込み1925円)するしかなくなった。』

 

サッカーに厳しいオールドメディア。今回は『週刊朝日』が「サッカー日本代表人気に陰り」と書いています。先にも書いた通り、今回から地上波放送がホーム戦のみとなりました。メインは有料のスポーツ専門ネットチャンネルDAZNで放送されます。オールドメディアは地上波で放送がないから人気がないと言いたいようです。しかし、少し考えればわかりますよね? 

 

地上波がお金を出せなくても、DAZN は平気で出せるんです。有料の視聴者がそれだけいるということ。無料の視聴者が沢山いるより、有料の視聴者を押さえてる方が強いと思うんですけど、違いますか? 『週刊朝日』だって、喫茶店で読んでもらうより、買って読んで欲しいでしょ? 時代の変化ですよね。みんな地上波観てないから。ちなみに DAZNアジア最終予選を全試合放送します。明日の20:00からは韓国 VS イラクも観れるんです。ありがたい。日本戦終わったら速攻観に行く。笑わせてくれよ。

 


8月29日付 CD シングルBEST 5。

 

映画『Summer of Soul』を観てきました。素晴らしかった。ライブシーンが素晴らしいのは当然として、このタイミングで上映されてることも偶然とは思えない。開催日は、アポロ11号が月面に着陸した日でもあったそうです。全米がそのニュースで持ちきりでした。そこでテレビニュースの取材に対して、フェス会場にいた観客の一人が言うんです。月面に行く金があったらハーレムの貧困層を救済しろと。ねえ? 怒ってるんですよ。東京オリンピック大阪万博で巨額の税金を使うよりも、コロナ禍で苦しんでる人たちを救済しろと言いたいですよね。熱い映画だったよ。

 

 

HIPHOPフェス『NAMIMONOGATARI』が非難されています。主催者が非難されるのは当然でしょうけど、オールドメディアの叩き方は、政治の無策に対するイライラの吐口にされた気もします。「市民の努力を愚弄する悪質なイベント」と開催地の市長は言ってるようですが、その場にいた観客もどこかで我慢し続けてきた市民たちですよ。若い人たちが不憫でならないです。渋谷のワクチン接種でくそ暑いのに並んでたとか。どこかで暴れたいよね。いいことも悪いことも含めて一生の思い出になったんじゃない? その場にいた人たちの意見が聞きたいよ。楽しかったでしょ? この機会に怒りの表明の仕方を学んだらいいよ。全部ぶちまけろ。

 

 

SKY-HI がプロデュースするグループ、BE:FIRST が話題です。これは素晴らしい。テレビ番組でこのサウンドが鳴ってるのも驚き。SKY-HI さすがです。

 

今週のアルバム1位は、堂本剛の ENDRECHERI でした。2位は Official髭男dism、3位は TOMORROW X TOGETHERの輸入盤でした。他に、Girls2、氷川きよし、Stray Kidsの輸入盤、KEYTALK、Saucy Dog、CRAVITYの輸入盤、竹原ピストル、などが登場しています。

 

 

 

今週のシングル1位は、Hey! Say!JUMP でした。一方、握手会チャートには、=LOVE手羽先センセーション、松下洸平、momograci、SUPER☆GiRLS、雨模様のソラリスミームトーキョー、鈴木このみ、などが登場しています。

 

 

◉8月29付 CD シングルBEST 5。

1位 群青ランナウェイ / Hey! Say!JUMP(23.6万枚)

2位 うたの☆プリンスさまっ♪Shining All Star CD3(4.6万枚)

3位 ミライ / L’Arc~en~Ciel(3.5万枚)

4位 未来予報ハレルヤ! /Tiny Stars / Liella!(2.5万枚)

5位 プラハの橋 / 竹島宏(2.5万枚)(0.8万枚)

 


アニメ映画は繰り返し「孤独と暴走」を描く。2

 

第2章エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に

 

 

  

1996年、エヴァブーム起こる。

 この映画を観ていないアニメファンはかなり増えている。オウム地下鉄サリン事件から半年が経過した1995年10月、庵野秀明監督『新世紀エヴァンゲリオン』は、テレビ東京系で放送開始。当初は一部熱狂的アニメファンに支持されたものの、視聴率を取れていたわけではなかった。だが、25話、26話が放送に間に合わず、絵コンテさながらの映像がそのまま流れたことで注目を集める。まだインターネットは一般に普及していなかったが、口コミで話題は広がり翌年の再放送では高視聴率を記録。社会現象とも言えるその人気に応えて劇場版が制作された。

 

エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』は、テレビ版の25話と26話を作り直したと説明されているが、それらとは違った内容になっている。その2つの作品が併せて上映された。まず25話『Air』は特務機関NERVがエヴァンゲリオンの活躍で謎の敵、使徒を殲滅した後の話だ。エヴァパイロットであるシンジとアスカは、闘いの後遺症に苦しんでいた。NERVの上部組織ゼーレはNERVを攻撃しサード・インパクトを引き起こそうとする。第26話『まごころを、君に』では、エヴァ初号機を使ってサードインパクトが引き起こされる。何もできずに苦しむシンジ。一方、綾波はゲンドウの指示に逆らい、巨大化してシンジを助けにいく(*2)。

 

 サード・インパクトとは? テレビ版の舞台は、未曾有の大災害セカンド・インパクトが起きた後の世界、世界の人口の半数が失われた後の第3東京市だった。核戦争後の世界を想像した視聴者が多かった。なのでサード・インパクトも第三次世界大戦のようなものだろうと想像した。しかし、劇場版では様子が違う。

 

 劇場版でのサード・インパクトは、それによって人間それぞれを隔てる壁がなくなり、一つになることだった。地球にリセットをかけるのだ。地球上には生物が生まれる前の生命の源の海が広がる。そこで人類の行末はシンジの選択に委ねられた。生命の源の海に戻り、すべてが一つになる世界。もしくは、一人一人が人格を持ち、他人への恐怖を持つこれまでと同じ世界。そのどちらをシンジは選ぶのか? 

 

 

   綾波:他人の存在を今一度望めば

      再び心の壁がすべての人々を引き離すわ

      また他人の恐怖が始まるのよ

  シンジ:いいんだ

 

 辛い現実が待っているとしても、シンジは1人の人間になることを望んだ。そして、心の中にいる母に別れを告げる。では、人と人を隔てる壁がなくなり一つになるとは何を意味するのか? 逆にそれは、欲望のままに生きる視聴者の群れを意味した。エヴァはエネルギーがゼロになると暴走したが、それは理性がゼロになった状態であり、敵を貪り食った。庵野には視聴者がそのように見えたのだろう。実際にファンから攻撃を受けた。そして、劇場版では視聴者を攻撃したのだ。理解してもらえない「孤独」とそれに起因する「暴走」は、映画の外でも起こっていた。

 

 実は、前章で書いた秋葉原事件においても、「孤独」はキーワードとなっている。評論家の芹沢俊介精神科医高岡健の共著『「孤独」から考える秋葉原無差別殺傷事件』(2011年、批評社)は、犯人の加藤が事件を起こす3日前にネット上に書き込んだ一文を起点にして、事件を理解しようと試みる。

 

 人と関わりすぎると怨恨で殺すし、

 孤独だと無差別に殺すし難しいね。

 

「誰でもよかった」なんかわかる気がする

 

 加藤には、言語以前のコミュニケーションに対する願望があったのではないか。精神科医ウィニコットが絶対的依存と呼ぶ時期に、母親から得られなかった母性的没頭体験を彼は求め続けていたと二人は考える。事件にしてもそうだが、言葉によってではなく、行動を見て理解してもらおうとしてきたからだ。また「孤独」については、フロイトの「寄る辺なさ」から「死の欲動」についても語られる。充実した本ではあるのだが、最後になって違和感を感じた。

 

 二人は、新自由主義の結果として労働が過酷であり、しかも頑張ったところで幸せになれるわけでもないことに触れながら、それでもそのことが秋葉原事件の重要な動因ではないと語る。そこで受けた疎外、「孤独」が「無差別」という言葉には繋がらないと言うのだ。つまり「社会」のせいではないと結論している。

 

 しかし、加藤の母親が社会学者の宮台真司が言う「学校化」という言葉で語れる人物であるなら、加藤の「寄る辺なさ」も新自由主義とつながるのではないか? 宮台は藤井誠二との共著である『「脱社会化」と少年犯罪』(2001年、創出版)において、1997年に起きた神戸の酒鬼薔薇事件がどのような事件であったかをまとめている。宮台が注目したのは、酒鬼薔薇がした、少年の首を切り落とし校門に置くという凶行に対して、かっこいいと共感する中学生が少なからずいたことだった。事件には「コミュニケーションによる達成自体を信じることをやめてしまおう」というメッセージがあった。私たちは通常、尊厳を「社会」と関連づけている。コミュニケーションによって何かを達成しようとするのだが、「脱社会的」な人間はその意欲を持たない。その意味で、「脱社会的」な人間は、人とモノとの区別がつかない。殺人も可能だと解説する。

 

 動機不明な殺人事件について、動機をあれこれ考えるのは無意味だと宮台は言う。それよりも殺人を起こす敷居がなぜかくも低くなったのか? それを学問的に問う必要があると語るのだ。「脱社会化」した存在がなぜ生まれるのか? 大きく原因は二つあるが、特に「日本的学校化」が問題だと指摘する。成績が良いか悪いかなど、学校的価値観が家庭や地域にも浸透した社会。子供たちは逃げ場を失い、「社会」の「外」に尊厳を築く。

 

 

人類補完計画とは何か?

 エヴァに話を戻す。この映画で一番残酷な描写は、増産されたエヴァンゲリオンエヴァシリーズ9体が、アスカの乗るエヴァ弐号機を寄ってかかって貪り食うシーンだろう。シンジはエヴァ初号機に乗ることも出来ず助けることができない。登場人物を現実に当てはめてみる。

 

    ゼーレ:製作委員会、出資会社

    NERV:GAINAX

  碇ゲンドウ庵野秀明

    碇ユイ庵野が愛した作品(ゴジラウルトラマンなど)

   碇シンジ:アニメを観てる男性視聴者(シンクロ率高い)

    アスカ:シンジと同世代の異性(シンクロ率低い)/「現実」の少女

     綾波碇ユイのコピー / 架空の存在(庵野作品に登場する少女)

    ミサト:声優(サービスするお姉さん)

エヴァシリーズ:マンガ版、派生商品、パチンコ・エヴァンゲリオンなど

 

 エヴァシリーズは何を意味するか? 恐らく、大ブームになったエヴァを製作委員会が儲けの道具にしたのだろう。極め付けはパチンコ台になったことだ。エヴァはボロボロになるまで食い尽くされた。欲望のままに作品を貪り食った出資者、消費の快楽に浸り切った視聴者。庵野は自らの怒りを理解させるために、この映画を撮るしかなかった。

 

 この映画は冒頭から普通ではなかった。戦いに傷つき病院のベッドで眠る痛ましいアスカに、シンジは助けを求め、身体を揺り動かす。そして、アスカの裸を観てしまう。シンジはそれを観てオナニーをするのだ。視聴者がエヴァの女性キャラクターをどのように扱ったかを監督は描写している。そして、再びラストでも二人のシーンが繰り返される。

 

 映画のラストで、お母さん(綾波)は旦那(ゲンドウ)を捨てて、息子(シンジ)のところに行ってしまう。亡き母(特撮、アニメ)への過剰な思い入れを持つシンジは、容赦ない同年齢の異性の冷たい態度(寝たふり)にキレて「暴走」する。アスカの首を絞めるのだ。ところが、それに対してなぜかアスカは、シンジの頬を撫でて見せる。シンジは受け入れてもらえたと勘違いしたのだろうか? 首を絞める手を緩め泣き出すのだ。アスカが冷たく言い放つ「気持ち悪い」。シンジは完全に見透かされていた。終わり。これが庵野が示した「まごころ」だったのか? 絶望しかない。

 

 人から愛されることなどないと考えるオタク少年の孤独。当時は現在と違ってオタクの存在はマイノリティと言ってよかった。「オタク少年の孤独をどう満たすか?」という問いこそがこのアニメシリーズの起点だった。それこそが「人類補完計画」だと私は考える。ロボット、美少女、導いてくれるセクシーな年上の女性。およそオタク男性の欲しがるものは全て詰め込んだ(サービス、サービス)。男性視聴者と庵野監督とのシンクロ率は高いはずだった。しかし、ネット上で酷評され、それは幻想だったと気づく。庵野の怒りは頂点に達した。地球上に二人きりになったとしても、お前たちは愛してもらえない。試写会に来たファンの姿をスクリーンに映し出した。ファンはショックを受けた。めちゃくちゃだ。

 

 

 

 

映画『風の谷のナウシカ』が描いたもの。

 アニメ『エヴァンゲリオン』の起点には「オタク少年の孤独をどう満たすか?」というテーマが存在すると書いた。その問いには、ある名作アニメの存在が関係している。宮崎駿監督の映画『風の谷のナウシカ』(1984年)には、庵野秀明もアニメーターとして参加していた。

 

 批評家で当時まんが雑誌編集者だった大塚英志は、自著『「まんが」の構造』(1987年、弓立社)において、雑誌『アニメージュ』(84年6月号)での宮崎駿と、同じくアニメ監督である押井守の対談を取り上げている。押井はその中で宮崎作品の問題点を指摘した。それは80年代に入り、学校でのいじめが陰湿化し不登校(引きこもり)が増えたことが背景にある。子供たちにとって学校は既に、安心して過ごせる居場所ではなかった。宮崎はその子らに向けて励ます作品を作ったのだ。しかし、押井は宮崎作品が完成度の高さ故に「擬似体験として完結」することを問題視した。その問題意識を受け、大塚は少年たちが『「現実」への途を取り戻すために、「居心地の良い作品世界をいかに破綻させていくか』を考える必要があると書いた。

 

 それに呼応するように、庵野も映画『風の谷のナウシカ』で問題視したことがあった。ナウシカ王蟲のような不気味な生物であっても、分け隔てなく愛情を注ぐ聖なる少女だったことだ。人間が汚した大地を腐海の森は浄化している。その森を守っているのが王蟲だった。ナウシカはそのことを理解していた。だが、仲間が攻撃を受けた(いじめにあった)ことで、王蟲は怒りに我を忘れて暴走する。そして、暴走を止めようと身を投げ出したナウシカを殺してしまうのだ。エヴァの暴走の前には、王蟲の暴走があった。

 

 漫画家の山田玲司は、無料で観れるYoutube動画『山田玲司ヤングサンデー』において、この映画を取り上げている。そこでは王蟲を、1週間風呂にも入らず作業をする当時の漫画家やアニメーターのことだと語る。つまり、宮崎が、自らが理解されないことの「孤独と暴走」を既に作品化していたわけだ。しかし、「現実」には不潔なオタクたちの「孤独」を救ってくれる少女は存在しない。そのことを庵野は『エヴァンゲリオン』で描いた。それが「あんた、バカぁ?」が口癖のアスカだ。「現実」と向き合うアニメを制作したのだ。

 

 それにしても、私たちの「現実」は至るところで崩壊の過程にあるように見える。大澤真幸著『不可能性の時代』(2008年、岩波新書)は、「リスク社会」という概念を基に今の時代を考える。「格差社会」において現状の格差よりも問題であるのは、その解消の可能性が将来においても見えないことだと指摘する。希望を持つことの「不可能性」について考えた。1995年の地下鉄サリン事件を境にして、それ以降の現在は「不可能性の時代」(*3)と名付けている。そして、その言葉の本質が何かを考える。

 

〈不可能性〉とは、〈他者〉のことではないか。人は、〈他者〉を求めている。と同時に、〈他者〉と関係することができず、〈他者〉を恐れてもいる。求められると同時に、禁忌もされているこの〈他者〉こそ、〈不可能性〉の本態ではないだろうか。

 

 これを読んで『エヴァンゲリオン劇場版』でのシンジとアスカの関係を思い出しはしないだろうか? それだけではない。この〈不可能生〉には心当たりがある。アイドルだ。人々は「私」を攻撃しない〈他者〉としてアイドルを欲望したのだろう。とにかく、エヴァは「不可能性の時代」の到来を告げる映画だった。その後、庵野の怒りも「冷却」され、視聴者を放り出したままではマズいと考えたのだろう。2007年からリメイクされた『エヴァンゲリヲン新劇場版』4部作が順次公開されている。最終の4本目『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は既に完成しており、2021年中に公開予定だ(追記2)。シンジは〈他者〉アスカとどう向き合うのだろうか?

 

 

*2:吉本隆明大塚英志による対談本『だいたいで、いいじゃない。』(2000年、文藝春秋)には、大塚によるエヴァ解説がある。一部私の読解と重なる部分があるのを見つけた。これは大塚の代表作『物語消費論』を何度も読んできた私のシンクロ率が上がったためだろう。

 

*3:社会学者の見田宗介は、現実を意味づける反現実によって、戦後を3つに分けた。大澤はそれを発展させ、1945年から1970年までを「理想と現実」から「理想の時代」。1970年から1995年までを「虚構と現実」から「虚構の時代」と名付けた。「理想の時代」の極点は大阪万博で、「虚構の時代」の極点は地下鉄サリン事件だ。

 

追記2:2021年3月7日、庵野秀明総監督の映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開された。この作品で明かされた一番重要なことは、アスカがクローンだったことだ。新劇場版で彼女の名前が変更された理由もそれ故だった。シンジはアスカと話し合い、お互いに向き合うことが出来た。それはいいシーンだったが、これでいいのか? とは言え、庵野秀明は大人としての責任を最後まで果たした。とても立派なことだと思う。興収は100億円を突破した。